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<東京怪談ノベル(シングル)>


追憶は夜に響く

 クレイン・ガーランドの作曲活動は主に夜、防音壁に囲まれた広い自室で行われる。
 彼が夜にしか行動をしないのは、生まれつきアルビノ体質であるが為、日中、太陽の光に晒されての活動が困難であるという理由とともに、殆どの人間が活動を止め、世界から雑音が消える夜の方がより自分の音だけを聴く事が出来るからだ。
 そして今日も、クレインの生み出す旋律と、それを五線譜に書き止めるペンの走る音だけが室内に響いていた。
 しかし、急にその音が止む。
「…………っ」
 指に僅かな違和感を感じ、クレインはペンを置いた。そして軽く左手を握り少し力を入れ拳を作った後、ゆっくりと指を開く。それを数度繰り返すうちに違和感は消えていった。
 不慮の事故により左半身をサイバー化して数年。日常生活に支障はなく、時にはその事実を忘れるほどであったが、定期メンテナンスの時期が近付くと起こる痺れのような感覚のせいで、やはり自分は半分機械なのだと実感する。
 軽く息を吐き、机の上にあるカレンダーを見る。次にメンテナンスの必要な日付を確認すると再びペンを取り上げ、その日付の数字部分に丸印をつけようと手を伸ばしたところで、並べて置いてあるフォトフレームに目がいった。
 木製の枠に収まった写真の中から、若い妻が微笑みかけていた。写真自体はやや色褪せてはいるものの、妻の笑顔を見れば当時の記憶が鮮やかに蘇る。そして彼女の隣には自分が立っていて、今と変わらぬ顔でこちらを見つめている。
 そう、今と変わらずに。
 その写真は少なくとも十年以上前に撮った物だというのに、写真の中の自分と今こうして不愉快な痺れに眉を顰めながら思い出を辿る自分とは外見上全く変わっていなかった。
 妻がこれ以上年を取らない事は当り前だ。彼女は八年前に死んでしまったのだから。
 それでは、自分は?
 十年の時を経てなお衰えない自分はなんなのだろう。
 半永久的に機能を維持出来るサイバーボディでさえ、時間を追うごとにそれなりの負荷がかかり朽ちていくというのに。
 写真から目を逸らし、クレインはゆっくりと窓に視線を向けた。
 薄いカーテン越しに淡い月の光が薄暗い部屋の中をほんのりと照らしていた。

* * *

 自分と他の人間との違い―――人とは異なった時間経過の中に生きている事―――に最初に気が付いたのは妻だった。
 彼女と出会ったのはかなり幼かった頃だったと思う。親同士が知り合いだったおかげで家族ぐるみの付き合いになり、同じ年の彼女とは自然と一緒に遊ぶようになっていた。
 幼馴染として過ごしている間に、古き慣習に乗っ取るかの如く、親同士は自分と彼女との婚約を本人達の了承など後回しのままに決めていたのだが、それを聞いても特に反発は感じなかった。その時には既に彼女が傍にいる事が当り前の事になっていたから、二人の関係が幼馴染から夫婦に変わろうともこのままずっと一緒に居る事になんの躊躇いもなかった。
 それは彼女も同じであったのか、結婚する事になっても特に何を言わずに変わらずクレインに付き従い、今までと同じように日々の雑事やアルビノゆえに常人よりやや虚弱体質だったクレインの体調管理に努めていた。
 クレインが音楽に目覚めれば、彼が音楽以外の雑多な出来事に気を取られないように、黙々と身の回りの世話をしてくれていた。やがてクレインは音楽の世界で成功を果たし、彼の成功を彼女はまるで自分の事のように喜んでくれたのだった。
 そんな、誰よりもクレインを想い、彼を知り尽くしている彼女だったからこそ、いつからか始まっていたクレインの中の僅かな変化を敏感に感じ取ったに違いない。
 最初は単純に若く見えるくらいの感覚だったのかもしれない。衰えを感じないクレインを見つめ、瑞々しいままの彼の肌にそっと触れ、羨ましいわなどと冗談めかして笑っていたりもした。
 しかし日を追うにつれて、自分は確実に老いてゆくのに全く変化の見えないクレインに少し違和感を感じ始めたのだろう。ある日、彼女はいつものように作曲と演奏に夢中なクレインの隣で紅茶を淹れながら、一言ぽつりと呟いた。
「不思議な事があるものね」
「何がだい?」
「……いいえ、何でもないわ。気にしないで」
 その言葉に、ふと手を止めて尋ねると、彼女は取り繕うように笑顔を浮かべ、以後その話題には触れようとしなかった。
 クレインもその言葉が何を意味するのかを考える事はなかった。当時、生活の全ての基準が音楽だけであったと言っても過言ではなく、それ以外に何か変化があっても一瞬気に留めるくらいですぐにまた自分の世界へ没頭する毎日だったクレインにとって、そんなありふれた単語をいちいち深く考えるのは煩わしい作業であった。
 ただひたすらに音楽に浸る日々の中、そういえば彼女が髪を切った時も、ドレスを新しくした時も大して声をかけてやっていなかったと思う。冷たい夫だと、思われていたかも知れない。
 別にクレインとてそれらの事に気が付いていなかったわけではなかった。ただ、今も昔も恋愛事を初めとする様々な感情を素直に表に出す事を良しとしなかったし、想いを託すのはただピアノの音色の上にだけだと信じて疑わなかったから、あえて言わなかった。ピアニストとしての苦悩も失敗も成功も全て傍で見てきた彼女だからこそ、自分の奏でる音から全てを感じてくれるだろうとも思っていた。
 思えば、結婚する時でさえ愛してると言ったかどうか定かではない。当り前の日常のまま、言わずとも分かるだろうと口にする事はなかった。自分で言わないのだから、相手に聞くこともしない。いや出来なかった。
 それでもきっと伝わっている。
 果たしてそれが単なる自己満足だったのか、本当に伝えられていたのか、今はもう確かめる事は出来ないけれど。
 
* * * 
 
 クレインは月を見上げていた瞳を伏せて大きく深呼吸をすると、もう一度机の上の写真とカレンダーを見比べ今度こそ先ほど確認した日付を丸で囲んだ。
 自分がこんな風にカレンダーに印をつけている姿を知ったら、彼女はどう思うのだろうか。クレインの思考を煩わせる全ての事を、クレインの思考の中から排除してくれていた彼女なら、自分が気付く前に既に印は付けられていただろう。
 今になって思う、彼女の存在の大きさを。
 そして改めて実感する。これから先ずっと自分の事は自分で管理しなければならない事を。
 体も心も自分の事は自分で把握していなければならない。年齢を重ねる事を忘れた自分を、忘れてはいけない。
 クレインはゆっくりと椅子から立ち上がると、部屋の隅に置いてあるグランドピアノの方へ歩み寄った。
 蓋を開け、その場に立ったまま鍵盤を一つ、二つと叩いてゆく。
 今もやはり音色を通してしか自分の感情を表す事が出来ないから、あの時言えなかった言葉を、言わなければならなかった言葉を思い出しながら、その全てをメロディに乗せてみる。
 何処かで聴いてくれているだろうか。
 今度こそ伝わっているだろうか。
 クレインは、不快な痺れが再びその指先を震わせるまで、途切れ途切れのメロディを奏で続けていた。
 
 
[ 追憶は夜に響く/終 ]