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<東京怪談ノベル(シングル)>


No Answer -夜明け訪れる日まで-


 イメージするのは未明の海。雲の隙間から一条の光が射し込む。
 天から降りてくる音色はハープだ。その原型となる楽器は紀元前から用いられていたという、古い黄金の竪琴。美しい音色が、暗い海原に光を零す。
 共にメロディを奏でるのはウィンド。幾重にも重なる波。徐々に厚みを増していくハーモニー。満を持したところで女声の合唱が入り、そして、黄金の夜明けが訪れる。航海の始まりだ。
 ――クレイン・ガーランドは、そうして脳裏に楽曲のイメージを思い描きながら、白紙の五線譜に一つずつ音符を書き連ねていく。丁寧に、時には荒々しく。頭の中の音が消えてしまわないうちに、すべてを書き出さねばならない。闇に響き渡る竪琴の音が消えないうちに。
 ああ、駄目だ。
 それは違う。
 消えてしまう、また振り出しに戻る――
「……クレインさん?」
 クレインは悪夢から醒めたように、はっと肩を強張らせた。額に薄っすらと汗が滲んでいた。
 クレインは筆を置いた。強く握り締めていたせいで、指が痺れたようになっている。
 彼の机の斜め後ろには、アマチュアのピアニストである青年が立っていた。クレインの顔を気遣わしげに覗き込み、眉を顰める。
「大丈夫ですか? あの、お邪魔してすみませんでした」
「いいえ……」クレインは首を横に振った。「ちょうど展開に詰まっていたところですので。もしかしてずっと部屋の外で待っていましたか?」
「あ、いえ。ほんの数分です」
 ほんの数十分、の間違いだろう。
 作曲の邪魔にならぬようにと、この才気溢れる若きピアニストは、いつも辛抱強くクレインを待っている。誰もが認める才能を持ちながら、決して驕り高ぶらず、クレインを慕い、彼の楽曲を愛し――、純粋に音楽と共にあるような青年だ。かつての自分を見ているようで、クレインは時々、心苦しくなる。
「進み具合はいかがですか?」
 青年は、後ろからクレインの手元を覗き込んできた。どうしても好奇心は抑えられないのだろう、殴り書きに近い楽譜からなんとか情報を読み取ろうとしている。
「駄目ですね。どうしても、」
 ここで音が消えてしまうんですよ、とクレインは楽譜を指差した。
 ピアニストの青年はクレインの表情を伺うようにしてから、おそるおそる楽譜を取り上げた。読んでも良いのか、という風に。クレインの許可を得ると、食いつくような勢いで彼は楽譜を読み始めた。たった数ページのオープニングから、少しでも作曲家自身に迫ろうとするように。クレインの場合、音楽は言葉よりも雄弁だから。
「……素晴らしいです」青年は楽譜から顔を上げると、ほう、と溜息をついた。「オーケストラ・ハープの音色がとても……綺麗だ。お恥ずかしながら、そんな感想しか言えませんが……」
 あまり綺麗な音楽だから、と彼は口ごもる。それ以上どう言えば良いのか……。クレインは苦笑を浮かべた。
「けれど、未完成です。――貴方なら、このつづきをどう展開させますか?」
「そうですね……」青年は顎に手を当てて考え込む。「ここに、ウィンドを……、ピアノは……こう」
 青年は無意識のうちに指を動かしていた。その様子を、羨望とも嫉妬ともつかない眼差しでクレインが見つめていることに、彼は気づいていない。熱心に考え込んでいる。
 彼の頭の中にも、黄金の夜明けが広がっているのだろうか。ただし、夜はまだ明け切っていないが……。
 不意に、青年ははっとして顔を上げた。
「あ……申し訳ございません。僕がクレインさんの曲に手を加えさせていただくなんて、そんな大それたこと……」
「構いませんよ。私だけでは、どうしても不可能なこともあります」
 この右手のせいで、とクレインは胸中でつぶやいた。
 右手は黒い手袋に覆われている。
 もはやピアノを弾くことのなくなった右手は、機械のように冷たい。機械化されているのは、右手ではなく左半身なのだが。
 ピアノが弾けなくなった以上、作曲の際に楽器を用いる必要性もなくなった。他に方法はいくらでもあるだろう、しかし彼は、己の絶対音感のみに頼ることを選択したのだ。天から降りてくる音を正確に聴き取り――実際は自分の呼吸音くらいしか聴こえない無音の部屋で――五線譜に綴っていくのだ。
 頭の中で同時にいくつもの楽器を鳴らし、そのハーモニーを聴き、気に食わない箇所には修正を入れる。しかし最初の譜面が上がるまで、ピアノを用いて試みにメロディをなぞってみることはしない。両親から授けられたこの絶対音感だけを、頼りに……。
 ああ、けれど、演奏できるというのはどんなに素晴らしいことだろうか。
 クレインは、動かない己の右手に目を落とし、物思いに耽る。
 彼らは、実際に身体で音楽を奏でることのできる彼らは、光の中にいる。私は? ここは、まるで闇の中だ。
「……ピアノのパートを、弾いてみませんか?」クレインはデスクの引出しから別の楽譜を取り出した。青年に渡す。「まだ完成はしていませんが。……合唱の伴奏用のパートです」
 青年は受け取った楽譜をまじまじと見つめた。ややしてから、クレインに視線を戻す。
「弾いても、よろしいんですか?」
 まだ完成していないのに? と目で問う青年。
「貴方のピアノの音が、聴きたいのです」
「…………」
 青年はクレインと楽譜を何度か見比べる。
「伴奏……、連弾なんですね」
「ええ。貴方の好きなパートを弾いて下さい」
 青年はいいえ、と小さく答えた。「……連弾の、相手が必要です」
「その相手は」クレインは微笑を浮かべた。「私には、なり得ませんよ」
 ピアニストの青年は、唇を噛み締めた。
「僕の……夢でした。クレインさんとピアノが弾いてみたかった。僕は――」
 クレインは椅子から立ち上がり、窘めるように青年の肩に手を置いた。
「私の代わりに、誰かが弾いてくれます」
「でも……」
 ――クレインさんは、誰かと一緒にこの伴奏を弾きたくて、連弾にしたのではありませんか?
 青年は何も口にしなかった。しなかったが、彼の言わんとしていることをクレインは理解した。
 若きピアニストは、楽譜を机の上に置く。「完成まで、待ちます」
 失礼なことを言ってすみませんでした。そう言って深く頭を下げると、青年はクレインの部屋を出ていった。扉がばたんと閉まり、世界に静寂が戻る。
「誰かと、一緒に……ですか」
 クレインは無人の、そして無音の部屋で、ぽつりとつぶやいた。
 再び椅子に腰を降ろすと、未完成で途切れている楽譜を頭から読み返し始めた。
 暗い海。黄金の夜明け。そこから始まる航海……、
 けれど航海を始めるには暗すぎる。まだ、夜は明け切っていないのだ。
 雑念を打ち消すように頭を軽く左右に振ると、クレインは楽譜を置いて立ち上がった。
 屋敷の窓から外を眺める。アルビノ体質の彼は日光に弱く、活動するのは主に陽が落ちてからと決めている。
 ――彼ら、演奏家達の立つ場所は光に満ち溢れている。
 私が今いるここは、そう。闇の中だ。
 もはや光射す表舞台へ立つことはできないのに、未だに私は音楽にこだわりつづけている……。なんという、悪あがき。職を変えても、未だに音楽に携わることは辞められないのだ。音楽から離れるなど、拷問にも等しき所業であろう。
 窓を細く開け、夜気を取り込む。
 目を閉じた。頬を撫でる微風の、冷たい感触。
 ここは闇。波音だけが響き渡る夜の海。しかし夜明けは近い……。
 雲の隙間から太陽の光が射し、
 水面が金色に染まる。
 けれど航海の行く末を示すにはまだ弱い。夜明けは、訪れない。私の音楽にも……。
 どうしてもつかみとれない旋律は、雲の上にあるのか、それとも空中を彷徨っているのか。あるいは深い海の底か。
「ピアノを弾くには……ここは、暗すぎるのですよ」
 私はここにいて良いのだろうか?
 自身に問う。
 ――答えは、未だに見つかっていない。



fin.