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<東京怪談ノベル(シングル)>


零にも似て


 静かに漂う体は、広大なる海の上にいるかの如く。
 緩やかに彷徨える身は、光求めし闇夜に在るかの如く。
 ただ、ただ。虚ろなる心を埋めんが如く、ゆるりゆるりと蓄積を求めていくだけ。


(ああ)
 緑の目をそっと開けると、そこには白の世界が広がっていた。
(白い。何処までも白く……)
「目が覚めましたか?」
 耳元で囁かれる声に、開かれた目はさらに大きく開かれた。声に反応するかのように、がばっと起き上がる。と、同時にくらりともする。
「大丈夫ですか?」
「くっ……」
 思うように動かぬ体に舌打ちし、頭を抱え込んだ。黒髪がくしゃりとした触感を与える。
「突然動いては、体に毒ですよ」
「……ここは、一体?」
 漸く動いてきた頭に浮かんだ言葉を、そっと口にした。
「ここは、病院です。あなたは、昨晩ここに運び込まれたんですよ」
「運び込まれた……?」
「ええ。何でも、瓦礫の中に埋もれていたそうで」
 瓦礫の中。ガラクタのような場所の中、一体何をしていたというのだろうか?そう考えると、頭の奥がじくじくと痛んだ。
(……くそ)
 心の中で毒づく。一体何があったのか、どうしてそのような場所に埋もれていたのか、全く分からないのだ。
「そうそう、あなたのお名前を教えていただけませんか?」
 医者はカルテを出しながらそう言って、返事を待った。
「名前……」
 医者はペンを手にし、名前を待った。
「……俺の、名前……!」
 だが、返って来たのは呆然としたまま目を見開く姿だけであった。ぎゅっと握り締められた手は何を掴むという訳でもなく、強く強く握られていた。否、掴もうとするかのごとく強く握り締められていたのであろう。失われてしまった過去を、名を。
「俺には確かに名があった筈だ……それなのに……!」
「思い出せないんですか?」
 医者の不安そうな顔に、こっくりと頷く。わなわなと拳は震え、目は大きく見開いているままだ。
「俺は……俺は……!……何者だ?」
 震える声のまま、言葉を紡ぐ。言葉なら話せるし、会話もできるし、今いる病院という場所についてだって知っている。だが、自分が何者なのか、自分がどうして瓦礫に埋もれていたのだとか、自分がどうやって今日まで生きてきたのかが全く分からないのだ。
(白い……黒い……!何も、何も与えてはくれない)
 記憶の糸を辿ろうとするのに、ぽっかりと穴が開いているかのように全く分からないのだ。手繰ろうとする糸すら見当たらぬ。無数に置かれ乱雑に散らばった糸はあるのに、手に取ろうとすると消えてしまったり、手に取ったとしても手繰り寄せても何も先にはついてなかったり、記憶に通じる事が出来ないのだ。
「何らかのショックを受けてしまったのかもしれませんね」
 ぽつり、と医者が漏らす。
「ショック?」
「ええ。……あなたは瓦礫に埋もれていたと聞きました。そこで何かが起こり、あなたはその衝撃で記憶を失ってしまったのかもしれません」
(衝撃で)
 思わずくつくつと笑う。記憶喪失になるなどと、誰が予想しただろうか。普段生活していたとしたら、全く思いもよらぬ出来事だ。漫画や小説、テレビドラマじゃあるまいし。
(くそ……!)
 再び心の中で毒づく。各種メディアに関しての知識はあると言うのに、どうしてそれらの言葉を知っているのかは分からないのだ。漫画や小説を読んだことはある。テレビドラマも観たことがある。だが、それらを何処で読んだとか、それらを何処で観たのかという記憶が全く無いのだ。
「……あまり、深く考え込まない方がいいでしょう」
 医者はそう言い、カップにコーヒーを注いで手渡す。温かな湯気が立ち昇る黒い液体は、ぐるぐると渦を巻いている。
「ああ、ミルクは?砂糖は要りますか?」
「いや……」
 また、だった。コーヒーにはミルクや砂糖を入れる飲み物であり、自分はそれらを全くいれずに飲むのだと知っていた。だが、そういう自分がどのような人間なのかは分からないのだ。
 そんな様子を見て、医者は微笑む。
「どうしても必要な事ならば、そのうち思い出したりもします」
「そういうもんなのか?」
「ええ。……にしても、名前がないと不便ですね」
 医者はそう言い、自らのカップにミルクと砂糖を入れてグルグルとかき回した。からからという陶器とスプーンがかち合う音が、病室に響く。
「適当でいい」
 ぽつりと呟くように言い、そっとコーヒーを啜る。ほろ苦い味が、口一杯に広がる。よく知った、だが不思議と初めて飲むかのような味だ。
「適当、ですか?折角だから素敵な名前にもできますよ」
 医者の言葉に、思わず苦笑する。
(そうだ……俺は、決める事ができるんだ)
 何も分からないという事は、逆にいえば今からのスタートラインに立つという事なのだ。名前然り、これからの人生然り。これから進むべき道ですら、自分が決めていかなければならないのだ。全てを失った代償に得た、全てを選ぶ権利。いや、それは義務にも近い。
 そう思い始めたら、妙に可笑しくなってきた。くつくつとついつい笑いがこぼれてくる。
「……ケヴィン」
 ぽつり、と言葉を紡ぐ。
「俺は、ケヴィン・フレッチャーだ」
 適当に紡がれた名前だったが、充分な意味はきちんと持ち合わせていた。全てを失い、全てをなくし、得た名前。正にそれは、今から歩むべき自分の誕生した瞬間だ。
 医者は名を聞き、にやりと笑った。白紙だったカルテに『ケヴィン・フレッチャー』と書き込む。
「ケヴィン、ですね。分かりました」
 ケヴィンは頷き、ベッドから立ち上がった。既に体は何処も痛くなかったし、頭の中は妙にすっきりしていた。
(すっきりしすぎ、とも言うが)
 ケヴィンは小さく苦笑し、病院のドアに手をかける。
「もういいだろう?」
「ええ。……それで、あなたはどうするんです?ケヴィン」
 医者が尋ねると、ただケヴィンはひらひらと手を振った。ドアの向こうに広がっている良く知っている、だが新しき世界に足を踏み入れるために。


 病院の外は、見慣れたような全く知らないような世界が広がっていた。びゅう、と風が吹いてケヴィンの体をすり抜けていく。
「コーヒーでも飲むか」
 先ほど病院で飲んだコーヒーを思い出し、ケヴィンはぽつりと呟いた。何となく寒くなった身体は、きっと温かな飲み物を求めている筈だ。
 目に付いたカフェに踏み入れ、コーヒーを口にする。やはり何もいれずに。そうして口に含むと、口一杯にほろ苦さが広がっていった。病院で飲んだコーヒーとは、また少し変わった味だ。
(俺は、この味を知っているような気がする)
 ぼんやりとそう思い、窓の外を見回すと妙に見慣れている風景のように思われてきた。道行く人々も、道に植えられた街路樹も、立ち並んでいる店も。どれもがケヴィンの良く知っている風景のように思えてくる。
(……くそ)
 それなのに、具体的な言葉や記憶は全くと言っていい程浮かんでは来なかった。見た事がある筈なのに、全く以って分からない。この大いなる矛盾が、苛立たしく、そして可笑しい。
「名は適当につけたし……これから俺は、何をすればいいかな?」
 適当につけた名前だったが、密やかに気に入っていた。自らが新たなる世界で生きていく為の名前だ。誕生日も思い出せないが、今日という日が新たな自分が誕生した日だという事は紛れも無い事実だ。
 ケヴィンはカフェで代金を支払い、再び外を歩き始めた。良く知っている、だが全く知らない今の自分にとっては見たことすらない世界。
「世界は広く……新しく」
 目の前に広がる世界を見渡し、ケヴィンは呟く。そっと目を閉じ、再び開いてもそれは変わらなかった。
 広がりし世界は、ケヴィンをただただ包み込んでいるだけだ。
(記憶は、戻るのだろうか?)
 失われし世界は、ケヴィンに新たなる生活を齎してしまった。
(戻るとしたら、それはいつ?)
 与えられし世界は、ケヴィンを未知なる方向を指し示している。
 ケヴィンは突如地を蹴り、走り出した。頬を撫でる風が気持ちよく、交互に動かしている足は軽やかに進んでいく。
「……俺、体が軽いんだな」
 意外と、と心の中で付け加え、ケヴィンは突如笑い始めた。自分の体の事ですら、こうして新たに知っていくのだ。自分がどういう事をするのに向いているのかだとか、どういう風に生活するのがいいのだとか。
「トレジャーハンターでもしてみようか?」
 なんにせよ、今置かれた状況で生活をしなければならない。それは、絶対だ。それならば、自分の身が軽いと知ったのだからそれを生業にしてもいいはずだ。
 無限に、可能性を秘めているのだから。
「俺は俺だから……」
 ケヴィンは走っていた足を止め、何度か深呼吸をして息を整えた。ふと見渡すと、目の前には世界が広がっていた。全く知らぬ、だがもしかしたら知っている世界が。
「全ては、ここからだ」
 ケヴィンはそう呟き、小さく笑うとゆっくりと歩き始めた。全てが手探りとなるであろう、未知なる世界へと。

<その身と心は零より始まり・了>