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<東京怪談ノベル(シングル)>


家族

 …こんな身体にしてまで生きる意味などあったのだろうか?
 時々思うが、それもまた運命なのだろう。もし左半身をサイバー化しなかったなら私は十年前の時点で…否、そうでなくともほんの数年の内に妻の元に行けたのかもしれない。
 ひとり、生き残った。
 だからと言って、運が良かったのだとは思えない。
 けれど、特に運が悪かった訳でも無いのだろうとは…思えた。
 喪ったものは多かった。けれど、単純に――人並みの生活をする為に必要な物にだけは苦労をする事は無かった。富豪だった両親の遺産。金銭的にも人脈的にも恵まれていると言えた。事故で使い物にならなくなった左半身をサイバー化する事が出来たのもそのおかげと言えるだろう。…私にはおかげ、と素直に言い切れる事にも思えないが。
 それはこの御時世にしては人も羨む境遇だったのかもしれない。無論、そんな財産を遺してくれた事は有難いと感謝してはいる。けれどそれでも、申し訳無いけれど――今の私は生きながら死んでいるようなもので。
 …逆を言えば、そんな人間だからこそ、富裕な財産を持つ事が神に許されている…と言う事もあるのかもしれない。ただ、心に何も無いままで生き続けろと。
 充分、有り得る話と思えるのは、私だからなのだろうか。

 …私は、妻と己が左半身を喪ったその時に一度死んでいるような気がする。
 そうでもなければ、どうしてこんなにも、生きていると言う実感が湧かないのだろう。
 ただ、流されるようにして日々を過ごしている。
 時々は仕事をする――とは言っても、気まぐれの話。映画音楽を専門とする作曲家、と言ってはいるが、有っても無くても良いような仕事に過ぎない。頼まれれば一応手掛ける。その程度。
 何も考えず音に触れていられるのは心地良い。
 だから、その仕事を選んだ。
 楽器を弾く必要は無く、音だけが必要な、その仕事。
 昔のように表に立つのは、もう、嫌になった。
 それもまた、遺された財産を使えばどうにかなる話。もしどうしても表に立たなければならなくなった時は、代理人のひとりも立てればそれで済む。

 …ピアノが弾けない。
 それでも、どうしても音から離れられないのは、私の業なのかもしれない。
 もう扱い辛くなって長い私の右手。
 鍵盤を叩くにも、ほんの僅かな――それでいて重要な強弱が、思う通りに付けられない。思うように指が動かない。ましてや左手は機械。生来の私の感覚など、最早この指先の、何処にも存在しはしない。
 昔は簡単に出来た事。
 今はもう決して出来ない事。
 だからこそ――わかっているからこそ、もうやらない。
 今、抑え切れず愛しい楽器に触れてしまえばきっと――絶望こそがいや増す。

 …何か、無いだろうか。
 それでも思う自分が居る事に自嘲する。
 …幾ら財産に余裕があっても、私ひとりでは。
 何もかも捨てて音に浸っていても、満たされる事は決して、無い。
 それどころか。
 耳に残る懐かしい音を、奏でてみたい衝動に駆られる時もある。
 出来ないとわかっているのに。
 もう、何年経ったのか。それでも痛みは薄らぐ事は無い。むしろ――痛みは、増すばかりになる時がある。
 それを和らげる為だったか――僅かなりと自分を誤魔化す為に、酒を。
 飲もうと外出するようになったのは、いつ頃からだったろう?

 …夜の街で、帰り道。
 アルコールで仄かに暖まった身体に冷たい夜気が心地良い。永遠に喪った筈の安らぎがほんの僅かだけ姿を見せるまやかし。けれど、酔いが醒めて来れば――その冷たさはむしろ凍える程に感じてしまう事は否めない。
 そんな中。
 …何かと思った。
 闇の中、溶け込むような黒いかたまりが動いている。猫。野良猫だろうか。こんな世界で逞しく生きている小さな命。奇妙にゆっくりと――よろよろと歩くその姿。立ち止まった私の姿に、力無く声を上げている。
 …ああ、
 飢えているのかもしれない。
 何も、食べていないのかも。
 身体が小さいのは――痩せているのは、栄養が行き届いていないからか。
 毛に艶が無い。
 …それは、普通の事。
 何処にでもある事。
 けれど。
 黒猫は私を見上げて鳴いている。
 …頼るように、呼んでいる。

 死を看取るのは辛いから。
 今まで…生き物に触れる事は、しなかった。
 情が移るから。
 わかっていたのに、私の腕はその黒猫を抱き上げていて。

 …暖かい。

 生き物のぬくもりを感じる事など、ちょっとびっくりするくらい、久し振りで。
 黒猫の方も、暖かいと思ったのか――身を摺り寄せて来る。

 当惑した。
 飼えませんよ。
 …思っても、腕の中のぬくもりは離し難くて。
 この猫も、寒かったのだろうか。
 否、それだけで。
 猫と言う生き物が、警戒すべき相手の腕に収まる訳も無い。

 目が合う。
 縋るような色だった。
 頼るものが、何も無い。
 誰も気にする事が無い。
 …私、だけ。
 気まぐれでも何でも、今、気に留めた相手は――。

 内心で小さく息を吐く。
 仕方が、ありませんね。

 ――――――『私の家族に、なりますか?』

【了】