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<東京怪談ノベル(シングル)>


A Man with No Definition


 投げ出された四肢がまずは視界に入った。
 それが自分の手足だと気づくまで、しばしの時間を要した。
 人が住んでいるのか甚だ疑わしい、廃墟のような街路で目覚めたとあっては、混乱を来たすのも無理はないだろう。
 誰かが倒れている、でもそれが自分だということには気づかない――そんな、映画を見ているような感覚だ。他人の目覚めを経験しているかのような。
 その妙な感覚の正体に、ほどなくして思い当たった。
 ――記憶が、抜け落ちている。
 どうしてこんなところで眠っていたのか、どういう経緯でここまでやって来たのか。そもそもここはどこなのか。何一つ思い出すことはできなかった。さらに悪いことには、どうやら私は――僕は――俺は、自分が何者かすらわかっていないらしい。
 普通だったらパニックに陥ってもおかしくないような状況かもしれない。が、意外に彼は冷静だった。
 慎重に上体を起こす。まずは己の身体に異常がないか確かめることだ。
 脈は正常。すんなりと探り当てることができた。
 関節を折り曲げる。骨に異常はない。
 傷の有無……切り傷や擦り傷程度で済んでいる。転倒した拍子に怪我したのかもしれない。打撲の一つや二つあっても良さそうなものだが、幸いにも動き回るのに支障が出るような外傷はなかった。運が良かったのか。
 そうして一通り自分の身体の無事を確かめてみてから、妙に手慣れているな、などと思う。他人事のように。
 俺は……医者か何かだったのか?
 俺?
 困惑する。俺は誰だろう。
 頭が鈍く痛む……参ったな。頭蓋骨の中身が正常かどうかまでは確かめようがない。
 ゆっくりと立ち上がり、名前のない男は周囲を見回した。名前のない彼がぽつねんと立ち尽くすそこは、名前のない街だった。あるいは名前が失われて久しい街。
 建物の外壁はあらかた剥がれ落ち、状態が酷いものは鉄骨が剥き出しになっていた。道路はひび割れが目立つ。風通しの良さそうな窓。砕けたガラスが地面に散乱している。打ち捨てられた何かの機械。おそらくは室外機とかそういうもの。
 ここがどこであるか示す手がかりを探そうとした。十字路に標識が一つ立っていたが、拉げており、他の建物と同様に塗装が剥がれ落ちている。そこからは何も読み取れなかった。
 この街が放棄されて随分経つのだろう、が、人工物だから風化していない。人間が生活していたというその形骸のみが、飽きて子供に捨てられた玩具のようにごろんと転がっている。
 こんなところに倒れていたなんて、真っ当じゃない、と彼は思った。真っ当な人間が出入りするような場所にはとても思えない。
 酷い精神的ショックのためか、はたまた物理的なショックのために記憶を失ったのか、それは定かでない。どちらにせよ、抜け落ちてしまった記憶は愉快なものではないだろう。
 微かに脳裏に引っかかるものがないでもない。思い出そうとすると鈍く頭が痛んだが、ともかくも努力はした。
 誰か……誰かが、隣りにいた。誰? 色彩の飛んでしまった映像のように、彼、もしくは彼女、の顔は不鮮明。
 一緒にいたであろう人物の面影に触れようと、手を伸ばした。虚空に何かを見出そうとした。しかし何もつかめない。雲のように頼りない記憶だ。
「……ユ、ウ……」
 耳朶に残る響きを口にする。ユウ。そのたった二文字は、やけにしっくりと馴染んだ。
 誰かにそう呼ばれていた気がする。おそらくは一緒にいた誰かに。
「俺の……名前か?」
 ユウ、と何度か口の中で繰り返す。多分そうだろう。俺は、ユウ、と誰かに呼ばれていた。
 ……それから?
 彼は目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、圧倒的な緑。鮮やかな緑だ……萌ゆる緑の色。
 しかしその色が何を意味するのかまでは、思い出せない。
 彼は短く溜息をついた。駄目だ。これ以上、何も思い出せそうにない……。
 何かの弾みで記憶が戻ってくることもあるだろう、と楽観的に構えることにした。何かの弾み、例えば壁に頭を打ちつけるとか? ……冗談がキツい。そんな荒っぽい方法を用いてまで取り戻さねばならない記憶でもなかろう。そう思うことにした。
「こうしていても仕方ないな」
 自分に言い聞かせるようにつぶやき、彼は、ともすれば萎えそうになる気力を奮い立たせた。
 途方に暮れていても、誰も助けてなどくれない。ましてや俺がどんな人間であったかなど。その定義など、教えてもらえるはずもない。自分でどうにかしなければ。
 そういえば腹が空いている、ような気がする。
 食糧と、最低限の衣類、他に何か必要なものをかき集めなければならない。何よりも欲しいものは情報だったが。動いてみれば何かしらわかるかもしれないし。方針を決めて、廃墟のような街を歩き出した。
 人が住んでいるのか甚だ怪しい、という最初に抱いた印象は正しかったようだ。あるのは瓦礫ばかりで、使えそうなものなどそうそう手に入りそうもない。こんなところに住んでいるのなんて、と彼は空を見上げた。黒い鳥がゆっくりと周回している。カラスくらいのものだ。
 ……カラス? 残飯を漁りにきているのだとしたら、どこかに人間が住んでいる理屈になる。あんまり閑散としているものだから、俺のいる場所まで人間が生活している気配が届かないのかもしれない。
 カラスの群れを目印に歩みを進める。その道々で、道徳なぞに構っていられるか、などと思いながら家宅に侵入し、使えそうな物品は一通りかき集めた。これも(法的に言えば)盗んだ鞄に、衣類などを詰め込む。
 廃屋に置き去りにされた写真。家族の肖像。なんとなく溜息をついた。が、己の行為を咎める良心は無視して、黙々と回収作業をつづけた。俺は意外に逞しくできた人間らしい。
 カラスは依然として上空を旋回している。それを目印に歩きつづけた。
 黒い群れが密集したそこにようやく辿り着き、
「なるほど」
 忌々しげに、彼は吐き捨てた。
 ああ、申し分ない。人間が住んで「いた」らしいと証明するには、申し分なさすぎる――誰かの死体。
 つまり、そういう場所に俺は迷い込んでしまったわけだ。日常的に、袋小路で誰かが死んでいるような場所に。
 その証拠に、早速――死体を啄ばむカラスどもよりも性質の悪い連中に、囲まれてしまっている。
 彼は黒い瞳を僅かに動かす。三、四、五人……相手にできないことはない。理屈抜きでわかる。身体が知っている。
 身包みを剥ぐつもりか。チンピラ連中は、凶暴な光を目に宿し、じわじわと間合いを詰めてくる。お生憎。身包み剥ごうにも、こっちは文無しの上に記憶無しだ。
 空気が動いた。
 彼の行動は早かった。間合いに飛び込んできた男の手首目がけて手刀を叩き込み、ナイフを手放させる。踵で蹴り飛ばして素早く凶器を遠ざけた。四方から襲ってくる男達。さっと身を交わし、男の腕をつかむと、そのまま放り投げてやる。
 息を乱すことはなかった。相手の力を利用してやればいい。第一、隙だらけなのだ。一見して弱点がわかる。
 身体が覚えている。知っている、この感覚。
 五人の暴徒を鎮圧するのに、さほど時間はかからなかった。数分後には、彼は惨敗した暴徒の只中に、一人飄々とした顔つきで立っていた。
「……少しやり過ぎたかな。目が覚めたばかりで力の加減ができなかった」
 半ば独り言のようにつぶやいてから、彼は呻く男の頭の横にしゃがみ込む。
「大丈夫か」
 自分でやっておきながら良く言う。でも自業自得だ。返事の代わりに呻き声が返ってきた。
 手際良く治療をする傍ら、彼は男に質問を重ねる。
「今はどういう状況になっている?」
「見ての通りだ」と、男は呻くように答えた。「ろくなことにはなってねぇ」
「ここはどこだ?」
「どこだって同じだ。地図に書かれた名前が知りたいのか?」
「…………」
 得られる情報は多くなさそうだ。
 他の連中に訊いても同じだった。わかったのは、どうやらここが相当物騒な地域であるということ。善良な一般市民は、荒くれ者が集う街で怯えながら生きている。食う者と食われる者、という構図がはっきりしており、不慣れな様子で出歩いていた彼は、数分前まで後者と見なされていたらしいこと、など。
「それとも俺を襲ってきたのには何か理由が?」
 一番ダメージの少なそうな男――見た目から言えば、まだ十代の少年だった――の首根っこをつかみ、低い声で訊く。少年は苦しげに顔を歪めた。
「俺が金を持っているようには、見えないだろう」
 少年のジャケットの内側からライターとしみったれた煙草の箱が落ちる。それらを拾い上げ、目の上に翳した。
「ふん……こんなものは出回っているのか」煙草を吸おうという気は起きなかったが、ライターは何かと重宝しそうなので失敬することにした。「どこで手に入れた?」
「ここから数キロ行ったところに……、ここよりはマシな街がある……」
 浅い息の下で答える少年。それほど酷い怪我を負わせたつもりはないのだが。
「そこで一通りのものは手に入るな?」
 少年はこくこくと頷いた。少年から手を離し、解放してやる。
「……因果応報だな。悪いが小銭を貰っていく」
 金銭と、換金できそうなものはいただいていくことにした。仕方あるまい。こちとら他人に構っている余裕はないのだ。
「あまり、馬鹿な真似はするな」
 短く言い捨て、地面に置いた荷物を担ぎ上げると、彼は身を翻した。
 生温い風が吹き抜ける。一雨来そうな気配だった。雨宿りをする場所には事欠かなそうだが、雨漏りしない建物などない気がする。
 足を止め、彼は手の平を上へ向ける。黒い空を振り仰いだ。
「これから、どうしたもんか……」
 記憶を失うまでの自分が何を目指して生きていたのかわからない以上、これから何をすべきか、何をしたいかなど検討もつくはずがない。とりあえずはチンピラ連中の言っていた街へ足を運び、寝泊りする場所とまともな食糧を確保することだ。できれば働き口も。
 働き口、か。
 名前もない俺を、雇ってくれる物好きがいるだろうか?
 ……名前など、作れば良いか。彼は苦笑する。
 瞼の裏に浮かぶのは圧倒的な緑。
 緑……リュイ、か。
「リュイ・ユウ――」
 発音してみる。響きは悪くない。
 ――そうだな、名前など記号のようなものだ。たいした意味はない。過去も、名前も、俺という人間の定義も、消え去ってしまったのだ。波にさらわれるように。
 これからのことは、後々考えていけば良い。そのうち、何をすべきかわかるだろう。
 彼――リュイ・ユウは、歩き始めた。
 意味もなく、ただ生きるために。



fin.