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<東京怪談ノベル(シングル)>


Stupid Identity Crisis 20XX


 たとえそれが、生命を維持するのに必要なことだとわかっていても、憂鬱なものは憂鬱だ。
 カレンダーの赤く囲まれた日付に目をやり、緑川勇は暗鬱とした表情で溜息をついた。で、ともすれば恋する乙女のそれのような可愛らしい溜息に、重ねて溜息をつきたくなった。
 まったく、毎度毎度のことだが嫌になる。半年もこの身体でいればいい加減に慣れてきそうなものだが――実際、ほとんど気にすることはなくなっていたのだが、それでも時折、思い出したように自分の声や容姿、細い手足、といったものが忌々しく感じられてくるのだ。そしてそれは、喜ばしいことだ。むしろ自分が「女であること」に違和感を覚えなくなりつつあるほうが……、
 勇は悪寒を覚えて身震いした。
 俺はもしかして、身も心も女になりかけているんじゃないのか――?
 そんなのは、御免だ。考えるだけで空恐ろしい。
 可憐な少女の姿をした二十七歳の青年は、そうして再び、溜息を滲ませる。
 事故で全身をオールサイバー化して、早半年。
 この半年は、そういった自問自答の繰り返しだった。良くストレスで禿げなかったものだと思う。禿げないか。サイバーだし。
「……いい加減、行きますか」
 ぐずぐずしていても仕方がない、行かなければならないものは行かなければならないのだから。
 定期メンテナンスを怠ったら、それこそ生死に関わる問題だ。使わなければ機械は錆びる。油を注さなければ耳障りな軋み声を上げる。役に立たない人工物なんて、スクラップにされて、はいお終い、だ。
 俺は――女じゃない。機械なんだ。機械の一種。
 自分にそう言い聞かせた。人間としてのアイデンティティを捨ててまで自分の本来の性別に固執するというのも、それはそれで空しかったが。
 えいっと気合いを入れてベッドから起き上がり、勇は手早く服を着替えを始めた。
 決まりきったプロセス。ルーチンワーク。寝巻きを脱ぎ捨て、ブラをつけ、シャツの小賢しいボタンを嵌めて、髪を梳かして、……ああ、気づけば最初はあれほど抵抗があった行為にも、戸惑いを覚えなくなっている。身体に、馴染んでしまっている。この女の身体に。
 順応力なんて、と勇は口の中でつぶやいた。人間の順応力なんて、糞食らえだ。
 憮然とした面持ちで勇は部屋を出た。
 見た目のきっちり二倍ある体重のおかげで、どすんどすんと何やら可愛げのない足音になっていた。もちろん可愛げなんてものは、いらない。

    *

「だいたい、借金をカタにするなんてあの医者もあくどいんだよ」
 つぶやく。諸悪の根源である闇医者の、いかにも怪しげな個人医院の前。
 奴が医者であるということを知らなければ、うだつの上がらない探偵事務所とか、最近流行りの新興宗教とか、そんな風に見えなくもない。つまり全部いかがわしいことで共通している。
 定期メンテナンスを拒否することも、できなくはなかった。真っ当な医者を探すとかすれば。が、それをしなかったのは、オールサイバー化の借金を盾にされているということが一つ。それから正体をバラされてはマズいということが一つ。金もなくて身分も明かせないんじゃ、八方ふさがりだ。結果的に、どうあっても定期メンテナンスは避けられない。
 勇はおそるおそる扉を開けた。避けて通れぬ道だとはわかっていても、あの医者が不在だったらどんなに良いことかと希望的観測を抱く――、
「定時より三十分の遅刻だ、緑川勇君」
 希望は水泡の如く消え失せた。……待ち構えていやがった。
「すみませんね」
 勇は相変わらずの憮然とした面持ちで言った。
「そう仏頂面をしていると表情筋が固くなる。もっとにこやかに微笑んでいたまえ、年頃の少女らしく」
「厭味ですか、それは」
 表情筋までメンテナンスする気じゃないだろうな。
「好きに取っていただいて結構」
 それじゃ宣戦布告と取ることにしよう、と血の気の多い発言。まあまあ、と闇医者は勇をたしなめた。
「ともかくもメンテナンスを始めよう」
「こんなボロい個人医院に、サイバー用の真っ当な設備なんてあるんですか」
「君がここで目覚めたという事実を忘れてもらっては困る」
 闇医者は奥の扉を開けた。
 なるほど、設備だけは真っ当だ。
 一見不気味とも取れる大掛かりな装置が、部屋の大半を占拠している。ベッドから伸びた様々な色の管が、コンピュータの筐体に接続されていた。ごちゃごちゃとした機械の一部に繋がれてしまうわけだから、生理的な嫌悪感を覚えないでもない。
 ……矛盾している。やはり俺は機械ではなく人間だ。だが、男ではない。少なくとも外見は。性転換するくらいだったら、人間でなくなってしまったほうがまだマシか? ……それはどうだろう。
 勇の穏やかではない心中を知ってか知らずか。闇医者に促されるままにサイバーメンテナンス用のベッドに上がり、背もたれに背中を預けた。
 カバーに覆われているせいでついぞ存在を忘れていた首筋のジャックに、闇医者はスパゲッティの先端を突っ込んだ。痛みはない、だが身体の中に異物が入ってくる感覚は、決して心地の良いものではなかった。
「楽にしていたまえ」
「楽に、って言ったってなぁ……」
 無茶なことを言う。どうしても手足に力が入ってしまうのは致し方あるまい。
「痛みを感じることはない。まずはデータを取らせてもらう。その間、君はこれでもやっているといい。少しは気が紛れるだろう」
「は?」
 ぺらっとコピー紙を渡される。一見何の意味もなさそうな、下らない質問が書き連ねられていた。全部で三枚。質問数だけがやたらと多い。
「……心理テストか?」
「まあ、そんなものだ」
「ふうん……こんなもので何がわかるんだか」
 ストレスの計測だったら、大歓迎だ。きっとレッドゾーンに針が触れる。精神的に参っているという証明は、何かと言い訳に使えそうで良い。主に自分に対する。
「身構えずに答えてくれ」
「はいよ……」
 筆記用具を受け取ると、勇は漫然と回答を選び始めた。欠伸が出そうな作業だった。
 なんだって、こんな無意味な質問がつづくんだ? 曰く箸はどちらの手で持つだの、湯船に入るときはどちらの足からだの。下らない。だらだらと丸をつける。面倒くさい。後半に行くにつれだるくなってくる。まったく。こんなもので、何がわかるんだ……どれだけ機械に近づいてるとか、そんなことか? どれだけ女に近づいたかとか?
 そこまで考えて、ぎょっとして勇は鉛筆を動かす手を止めた。ちょうど、最後の質問の回答を終えたところだった。
「ふむ、数値には問題ないね。生身の人間風に言うなら、至って健康体、といったところだ」モニタと睨めっこしていた闇医者が、ベッドの横まで歩いてきた。「ちょうどテストも終わったところかな」
 医者は勇の手から回答用紙を取り上げた。
「ついでに、簡単な検査をするが――緑川君?」
「えっ?」勇はびくりとして顔を上げた。「何……、何ですか?」
「運動能力の検査をする」
「あ……ああ」
「どうしたのかね?」
「いや、何でも……」
 勇は曖昧な表情で答えると、ベッドから降りた。
 様々な装置をたらい回しにされた。心電図などを取り、各種検査と精密機構の微調整。あらかたのメンテナンス作業を終えた頃には、既に夕方になっていた。
 あれだ、人間ドックのようなもので。疲労困憊。検査にかかっている間に余計具合が悪くなるんじゃないかという。
「さて、お待ちかねの心理テストの結果だが」
「お待ちかねじゃない」勇は聞きたくない、という風に首を横に振った。長い髪がさらさらと揺れる。うざったい。「お待ちかねじゃないが、一つ訊きたい。一見無意味な質問が山のようにあったが、あれは何なんだ? 何か意味はあったのか」
「ああ、質問自体に意味はない」闇医者は軽い調子で答えた。「前半で疲労させることが目的だ。核心に迫る質問は後半に持ってくる。変に身構えなくなる分、本音が出やすい」
「…………」
 勇は顔をしかめた。
 先ほどちらっと脳裏を過ぎった考えが蘇る。どれだけ女に近づいたかというテスト? ――ぞっとする。結果なんて、知りたくもない。
 が、聞かないわけにもいかなかった。
「自分は男だとはっきり意識している。男性脳の傾向が強いね。――だが」闇医者は嫌な笑みを浮かべた。「自然な反応は、かなり女性らしくなってきている。君はすっかり女性としての生活に順応しているよ、お見事だ。身体と精神は一致するという学説を聞いたことがあるかね?」
「……やめてくれ。聞きたくもない」
 医者は意味深な笑みを浮かべた。
 勇は医者から顔を背け、寒気を感じるとでもいう風に肩をさすった。無意識のうちに。まるで、女のように。
「その調子で生活していれば、正体がバレるということもないだろう」
「やかましい――」
「それはさておき、今回の費用だ」
「え」
「領収証」
 紙切れを押しつけられた。無慈悲な金額がタイプされた領収書に目を落とし、勇はぽかんと口を開けた。
「……ま、待て。なんだ、この金額は」
「毛髪と皮膚のリフレッシュ代金だが?」
「俺がいつそんなものを頼んだ――!?」
 ぐわしゃっと紙切れを握り締め、勇は闇医者に食いついた。身長差のおかげで軽くあしらわれてしまった。
「鏡を見てみたらどうだね。幾分瑞々しくなった」
「嬉しくねぇ……!」思わず口調が乱れる。唾を飛ばさんばかりの勢いで、「これじゃいつまで経っても借金が払い終わらないじゃないか……!」
「地道に稼ぐことだね」
「どうやって……!」
 ああ、まったく、まったく!
 アイデンティティとか、難しいことを考えている場合じゃない!
 目下の心配事は、いかにして借金を払い終えるかという、現実的かつ即物的な問題であって、ああ、まったく――
「……なんだか色々、考えるのが面倒くさくなった……」
 勇はがっくりと肩を落として、つぶやいた。
 できればあんたの世話には二度となりたくない、と負け犬の遠吠えのような台詞を残し、医院を後にする。
 闇医者は最後までにやにやと嫌な微笑を浮かべていた。


 金をかけさえすれば、外見などいくらでも繕える時代。
 すなわち、
 ――アイデンティティってのは、大金を積めば手に入るものなんじゃないのかい? 神様。
 無慈悲な神様は、何も答えちゃくれなかった。



fin.