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<東京怪談ノベル(シングル)>


How To Succeed -賢い世渡りの方法-


 どんな不条理にも人間は立ち向かっていけるものだと、緑川勇はそう思っている。
 同時に、どんな不条理も、ある程度は受け入れられるようにできている。
 そうでもしなければ、とてもこんな世の中渡っていけないだろう。男として生きた二十七年、プラス、少女の姿で過ごした一年未満の人生経験で、そんなことは嫌というほど承知していた。
 つまり時には諦めて、あるがままを受け入れなきゃならないってことだ。運命を甘受するっていうのかな。不慮の事故に遭って女のサイバーボディに入れられてしまうとか、だ。
 ――だが。
 受け入れては「いけない」ことだって、やっぱり山のようにある。
 人間として、女として、男として。決して許してはならない卑劣な行為が、この不条理な世の中には存在するのだ。例えば――、
 痴漢行為とか。
 思い出したらまた腹が立ってきて、勇はぼすっと巨大なクマのぬいぐるみに拳を叩き込んだ。ぼす、ではなくどす、かもしれない。
「……畜生、気が晴れない!」
 叫んで、今度は回し蹴りを食らわす。哀れなクマは派手に横っ飛びして、壁に叩きつけられた。ずべ、と床に伸びるクマ。物言いたげな円らな瞳は、この際、無視。
「この俺に痴漢なんて良い度胸してるじゃないか、あぁ!?」
 下手したらお隣りさんに文句を言われそうな大声で怒鳴る。
「ふざけんじゃねぇ、っての!」
 怒鳴り散らして、クマに八つ当たりするくらいでは気が晴れなかった。が、とにかく思いつく限りの罵詈雑言を並べ立て、殴り、蹴り、肘鉄を叩き込み。ようやく罵詈雑言のネタを使い果たしたかというところで、勇はふーっと息をついた。肩で息を整える。
 これしきのことで息が乱れるとは、情けない。……いや、頭に血が上ったせいだろう。ちょっと暴れた程度で限界に達してしまうほどやわにはできていないはずだ――この忌々しきサイバーボディは。
「ったく……」
 ぐしゃぐしゃと髪をかき回し、勇はベッドへ仰向けに倒れ込んだ。
 極力考えまいとして目を閉じる。冷静に、冷静に。もう過ぎたことだ。落ち着け、俺――
 蘇る。満員電車。痴漢の手つき。下卑た笑み。
「…………」
 勇はむくっとベッドの上に起き上がった。
「落ち着けるかってんだよ、畜生!!」
 天まで突き抜ける勢いで、勇の大声が狭い共同住宅の一室に響き渡った。

    *

 はじめは何をされているのかわからなかった、というのが正直なところ。
 満員電車なんて人権の侵害だ、などと思いながら、それでも目的地へ辿り着くには我慢する他なく、勇は無言で快速に揺られていた。
 共に乗り合わせていた皆が皆、おそらく同じことを考えていた。なんでこんな混んだ電車に乗らなきゃならないんだ。次の停車駅まであと何分だ。嫌になる。こんな日常がいつまでつづく? ――ああ、不条理。
 勇も例外なく不機嫌だった。ばりばり不機嫌オーラを発していたかもしれない。
 何せ百五十ちょっとという身長のせいで、他の乗客に見事に埋もれてしまうのだ。視界は不自由だし、不自然な姿勢のまま身動きが取れないし。がたんと列車が揺れる度に足を踏んづけられる。汗や香水の匂いが入り混じって車両内に立て篭もり、気分が悪くなる。文句を言う気にもなれないし、そもそも誰に文句を言ったら良いのかわからない。
 こんなものに慣れちゃいけない。俺達は家畜じゃない。
 この状況を甘受するってのは、人間の尊厳を放棄するのと同義なんじゃないのか――だなんて、女の身体にされてからさんざん繰り返してきた、哲学的思考みたいなもの、を脳裏に展開した。けれど、空しいかな、行き着くところはいつも同じだ。
 人間の尊厳なんてものは、とっくの昔に、ロストしている。
 殊に、俺、緑川勇の場合。
 ……暑い。堂々巡りだな。馬鹿らしくなってきた。
 額から流れ落ちる汗を意識する。脳と脊髄以外は全部マシンのはずなのに、それでも新陳代謝能力は健全。節食や排泄行為は日常的に行っているし、試したことはないが(試す気にもなれないが)、性行為も行えるらしい。それは喜ぶべきことか? 身体を動かした後にかく汗ってのは気持ち良いものだが、満員電車に揺られてだらだらと汗水を垂らしているとあっちゃ、素直に喜ぶ気にもなれない。
 何か、腰に当たってるな、と思った。暑さと人いきれのせいで胡乱としていたため、しばらく気づかなかった。誰かの鞄でも当たっているんだろうか。鬱陶しいので、身体の向きをほんの少しズラした。
 そのまましばらく、無言の人々を乗せて列車は走行する。各駅停車ではないので、数駅スルーした。早く降りたい。
 ……うざったいな。まだ何か触って……、
 そこに至ってはじめて、人の手に、尻を撫で回されているのだと悟った。
 単に触れていただけだと思っていた手の動きが、気づけば執拗になっている。腰から尻。肉のない腹を撫で上げ、皮下脂肪のない胸に到達。
 ――待て。これはもしかして、
 痴漢というやつでは、ないのか?
 勇は首を捻って後ろを確認しようとした。無理だ。筋が違ってしまいそうになる。
 手の動きはますますエスカレートしていく。獣のような荒い呼吸が耳元で聞こえる。もしかしなくても、
 ――痴漢じゃないか!
 自覚した途端、ざわっと総毛立った、気がした、だけかもしれない。だがとにかく吐き気がするほど気色悪かった。否、気色が悪いどころの話ではない。見知らぬ異性に、違う、見知らぬ同性に身体を撫で回されているのだから。
 痴漢野郎が勇の耳元で舌打ちした。あん? 貴様、胸が小さいからって舌打ちしたのか、今!?
 声を上げようとした。が、喉まで出かかっただけで何も言えない。この出で立ちで『ふざけんじゃねぇ』はまずかろう。それじゃあ、何か? か弱い乙女の如く、『助けて下さい』? 悲鳴でも上げろというのか。――冗談じゃない。プライドが許さない。
「こ、の……」
 勇はぎりっと奥歯を食い縛った。なんとか首を捻ろうとする。
 がたん、と電車が揺れた。勇はしめたとばかりに、思いっ切り痴漢野郎の足を踏みつけた。ヒールでも履いていたらもっと効果的だったかもしれない。ともかくもダメージは与えられたようで、ぐっ、と低く呻く声が聞こえてきた。様を見ろ。
 ようやく満員電車が次の停車駅に滑り込んだ。勇は痴漢の腕を引っつかむと、無理やり外へ連れ出した。痴漢の犯人は――会社倒産の危機に際して、真っ先に首を切られそうな冴えないサラリーマンだった。
「おまえ、人を何だと思ってんだ!」
 その冴えないサラリーマンに向かって怒鳴る。
 こっちは男なんだぞ、と心の中でつぶやき、男の手を取った。こんなどうしようもない奴に、サイバーの力なんて勿体無くて使ってやれない。柔術だけで十分だ。二度と痴漢行為などできないように、と技を使って手首を挫いてやる。ひぃっ、と男は情けない声を漏らした。
「まだまだ!」
 両手を後ろに捻り上げ、ばっちりキめてやる。ホームにいた客達が、ぎょっとした顔で勇に注目した。まさか十四、五歳程度の華奢な少女が、大の男を制してしまうとは思いもしないだろう。
「次行くぜ!」
 過剰防衛かな。構わない。指の骨を数本折ってやる。男の悲鳴がプラットホームに響き渡った。
 騒ぎを聞きつけてやって来た駅員に、こいつが痴漢行為を働いたという旨を説明すると、勇は満足して駅を後にした。いや、ちっとも満足なんてしていなかったが、これ以上あの場にいたら、逆に自分が犯罪者に問われかねないところまでやってしまいそうな気がしたのだ。
 乙女の柔肌を無許可に弄ぶ輩など、二度と立ち上がれなくなるくらい叩きのめしてやるのが、多分、正解だろう。

    *

 自宅に帰ってくるなり、勇は鞄を放り投げ、どかっとクマを蹴り上げた。
「……むしゃくしゃする!」
 着替えもろくにせずに、ぼすぼす、とクマをサンドバック代わりにする。俺はボクサーではなく武道家だが。この際何でもいい。勇が怒りを発散するのに合わせて、横っ飛び、宙返り、華麗にダンスするクマ。
「乙女の柔肌を何だと思ってんだ、金払えよなぁ、金!」
 金を請求したら援助交際だな。
「あの舌打ちは何だ! 勝手に触った胸が小さかったからって! 気に食わないなら相手選べよなァ!?」
 好きで小さいわけじゃないんだぞ、こら。
「だいたいこっちは、男――」
 男なんだぞ、と言いかけたところで、勇はぴたりと暴れるのをやめた。
「…………」
 そうだよ、男なんだよな。
 女の身体に痴漢されたからって、何なんだ? 中身は男なんだ。
「いやいやいやいや!」一人でぶんぶんと首を振って否定する。「同じ男として、卑劣な男は許せない! だろ!?」
 答えが返ってくるわけでもないのに、クマに同意を求めた。くたっと床に寝転がったクマを拾い上げ、ベッドの上に座らせる。
「何にせよ悪いのは痴漢野郎だ。あんな奴ら、女の敵だ。なっ、そう思うだろクマスケ!」
 クマスケは答えない。
 空しいとか馬鹿馬鹿しいとか思う余裕もなく、クマ相手にさんざん愚痴を零した。傍から見れば、憧れの先輩と上手くいかなくてジレンマを抱いている少女そのものだった。もちろんそんな自覚は勇にない。
 そうして三十分も一頻りぐちぐち言ってから、勇はぐったりと溜息を吐き出した。妙に疲れてしまった。クマと一緒にベッドに倒れ込む。怒りをぶちまけたことで、少しは気が晴れたようだ。
「女みたいだな。ぐちぐちと……」
 不意に、何度目になるかわからない悪寒が背筋を駆け上った。
 まただ。また「女みたいな」行為を無自覚にやってしまっている。この間のメンテナンスであの闇医者も言っていたように、自然な反応は大分女性らしくなってきているようだ。不本意ながら。
「冗談じゃない」
 勇は吐き捨てるようにつぶやく。
 痴漢行為によって、限りなく女に近づきつつある自分を改めて自覚するだなんて、
 ――不条理にも程があるじゃないか?
「冗談じゃない……」
 今度は覇気のない声。何度目になるかわからない盛大な溜息を一つ漏らし、勇は脱力した。


 馬鹿馬鹿しい問答は堂々巡り。だが、こっちは真剣だ。
「先行き不安だ――」
 この世を上手く渡っていく術が、不条理に立ち向かうことなのか、不条理を受け入れることなのか。
 最近、わからなくなっている。



fin.