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ほんの小さな‥‥
ふ、と。
時折、気付いたように自身の左側を眺めるようになった。殆ど無意識とも呼べるその所作に、気付くと同時に自嘲気味な苦笑が零れる
とっくに割り切っていた筈なのに。
そう自分自身に納得させるように言い聞かせ。
だが、日常の殆どが音楽で埋め尽くされていた日々は、今もなお気持ちを引きずってしまい、何度もそれでは駄目だと心の中で繰り返し。
そんなとき。
ふと気まぐれに『彼』と出逢ってしまった事が、第二の人生の始まりでもあったのかもしれない―――。
◇
「‥‥あれ? どこから入ったのです?」
ふと目に付いた先に居たのは、毛の艶も立派な黒猫だった。うっすらと金目がかる双眸が、じっとクレイン・ガーランドを見つめている。
その、真っ直ぐな眼差し。
思わずドキリとしたのは、事故により左半身をサイバー化した日以来、殆ど誰とも目を合わさずに過ごしてきたせいだろう。知人達は、誰も彼も自分の不幸を悼んだのか目を合わそうとせず、それが普段から外の世界と積極的に関わろうとしなかった生活に、より拍車をかけた。
が、今は獣とはいえ、自分以外の存在とクレインは視線をかわしている。
瞬間。
不意に思ったのは、小さい頃は多少なりとも犬や猫を飼いたかった事。ピアニスト故に手を傷つける可能性のあるものを片っ端から削除していった結果、動物を飼う事など出来なかった。
別段、本気で飼いたかった訳ではない。近くにあることで、その毛並みを触れて撫でてみたいと子供ながらに思っていたのだ。
そして、今なら。
「‥‥お腹、空いたのですか? 残り物でよければありますが」
もうピアニストではない。
指を労る必要もなく、何をするにも独り身ならば猫を飼うのにも誰の気兼ねもいらない。
「もしよければ――ここにいますか?」
残り物のおかずを皿に盛り、静かに床に置いてみる。
ピクリ、と黒猫の鼻が動く。ヒクヒクと匂いを嗅いでいるようだ。
じっと見つめるクレインの視線の中で、黒猫はゆっくりと動きだし――皿の前で止まった。そして、もう一度だけ匂いを嗅ぐ。小さく舌をのぞかせて、軽く舐める。
やがて――パクリ、と。
一口、口に含んだことでどこか張り詰めていた空気が緩んだ。
「はぁぁ」
深々と溜息を吐く。
こんなに緊張したのはいつかのリサイタル以来だ。
そんなことを考えながら、クレインはゆっくりと生身の右腕の方を黒猫に伸ばした。最初はビクリとなったその背も、すぐに警戒を解いた。
(――餌をくれた相手であると、認識しているのでしょうか?)
向こうが逃げない事にようやくホッとし、今度こそその右手でもって黒猫の背中をやさしく撫でてやることが出来たのだった。
◇
あれから数日。
黒猫は、特に何をするでもなく、クレインとともに過ごしていた。食事の時間には必ず戻り、それ以外ではおそらく外に遊びに行っているのだろう。そんな『彼』の為に、いつ帰ってきてもいいよう窓の一角を常に開けておくようにした。
厭世とした毎日を送っていた筈が、何故か最近は黒猫が帰ってくるのを待ち侘びている自分がいる。
その事がどこかくすぐったく、そして何かしらの感情が沸き上がろうと心を揺らす。
そんなある日。
いつものように食事の準備をしていた時。
クレインはふと考えた。
これまでは、黒猫の食事も自分の食事と同じモノを与えていた。元々、音楽漬けの生活を送っていたせいで一般的な常識が自分にはまるで欠如している、と理解している。
ならば。
「猫の食事‥‥さすがにこれではマズイでしょうか」
ポツリと呟く。
別段、黒猫は出されたモノに関しては何でも食べてしまう。だが、食べるからといって、それが本当に猫の為になっているかとはまた別問題だ。
「さすがにこのままでは駄目ですね。仮にも自分で飼うわけですから」
一通りの物を揃えなくては。
その事に考え至るまで、どれだけ時間がかかったことか。まさに自分の事であるのに、苦笑を禁じ得ない。
とにかく思いついたら善は急げ、だ。
彼は素早く立ち上がると、おもむろに外へと出ていった。
◇
場所は、どこにでもあるペットショップ。
クレインがじぃっと見つめる先には、猫用の首輪とリボンが並んでいる。そんな彼の様子を、店内の他の客はどこか奇異なモノでも見るような視線を送っていたのだが、集中している彼には分かりようもない。
無理もない。
その整った顔立ちは、貴族もかくや、といった雰囲気を醸し出し、どこか庶民にはないオーラを纏っている。加えてスラリと伸びた長身に相応しい手足の優雅さ。そのような存在が、なんの変わり映えのない普通のペットショップで、首輪とリボンを交互に真剣な眼差しで見つめる姿は、さすがに誰もが引くだろう。
そんな外野をよそに、クレインは何度も何度も首輪とリボンを手に取る。
(あの黒猫の毛並みなら、やはりこちらのリボンの方が似合いそうですね)
首輪はやはり、少しだけ窮屈なイメージがある。
黒猫の、自由さは誰にも縛れるものではない。
そんなコトを考えて、思わず口元がうっすらとした笑みを刻んだ。その事にハタと気付き、彼は慌てて口元に手を当てる。
そうして、ようやく気付く。
黒猫の――自分の身近にある存在の為に、何かを与えてあげる事。それについて散々悩んでしまうこと。
それら全てを引っくるめて、今、自分は黒猫の居る生活を楽しいと考えているのだ、と。
「‥‥私も少しは人間的な生活が送れる事が出来ますかね」
小さく呟いた言葉には、どこか願望めいたものも含まれていて。
もう一度。
クレインは、うっすらと笑みを浮かべた。
生き生きと生きている訳ではない。生来の体質に加え、サイバー化した今の肉体では、ゆっくりと生きていくので精一杯だろう。
だからこそ、その僅かな合間に人生の潤いを。
生きていくことが苦痛以外の何かであるように。
「――すいません、これをいただけますか?」
◇
ぼんやりと思い返してみて、またクスリと笑った。
そんな自分の様子に、傍らの黒猫が小首を傾げて見上げてくる。ニャ、と一声鳴き、ソファーに持たれていた腕の中に潜り込んできた。
「‥‥そこが定位置になったようですね」
呟いて、視線を手にしていた本の方へ戻す。
その途中で、視界に入った鮮やかな赤に思わず目を留めた。自分の瞳と同じ色――リボンは、黒い毛皮によく映えている。
「気に入ってもらえてなによりです」
あの時買い与えたリボンは、今も黒猫の首に巻かれている。自分の所有物――否、自らの片割れの証として送ったそれを、黒猫は特に邪魔に思うことがないようだ。
そうして。
彼は再び本を読み始める。
静寂な時間を――――『二人』で噛み締めながら。
【END】
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