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<東京怪談ノベル(シングル)>


■高く穏やかなグラスの音のように■

 黒猫と住み始めて数日経った頃、クレイン・ガーランドは、とあることに気がついた。
 心なしか、黒猫が通るあとはカーペット等が汚れているなとは思ってはいたのだが……。
 捨てられていたのだから、汚いのは当然と言えば当然のことだ。
 それでも猫だから、この小さな黒猫も、クレインのベッドに身体を横たえ、ゴハンのあとの毛繕いとばかりに、舌でぺろぺろと体毛を舐めていたのだが─── 一度気がつくと、舌にまで汚れがくっついてしまう、とクレインは至ってクールな視線で見ていたが、やがて、風呂場に行って洗面器にお湯をはった。
「やはり、洗いましょう」
 ちゃぷん、と洗面器を置くと、黒猫はビクッとしたように毛繕いをピタッとやめ、耳をピンと張った。
 ───嫌がっている。
 そういえば、一般に猫と呼ばれる生き物は、水やお湯が嫌いなのだったと思い出していた時には、小さな黒猫はダーッとベッドから飛び降りて逃げようとした。
 だが、扉が開いていない。
「お湯だから、あたたかいですよ」
 嫌ならばほっとく、という者もいるだろう。
 だが哀しいかな、クレインは割りと綺麗好きだったので、放っておけなかった。
 寝室は、広いほうだとはいっても限界がある。それでも、黒猫を捕まえるには少し大変だった。
 何しろ素早いし、およそ人間から考えたらあり得ない方法で物伝いに壁を昇ったり降りたりする。
 洗面器をひっくり返されてはたまらないと、クレインは一度追いかけるのをやめ、零さないようお湯を左手で持ち上げ、右手でなんとか扉の取っ手を掴み、身体も使って開けた。───右手の握力が弱いから、扉を開けるのにも一苦労だ。
「待っていてください」
 黒猫に言い置き、急いで洗面器を風呂場に戻し、手ぶらで戻ってくる。
 待っていてください───なんて、この家で使う言葉とは思っていなかった。いや、どこにいても……もう、使うことのない言葉だと思っていた。クレインの「日常」では、特に。
<待っていて───……>
 一番古いその言葉の記憶は、何歳からのものだっただろう。母が随分大きく見えたから、自分が幼い頃ではあるのだろう。
<もう起きたの? もう少しで朝ごはんですから、待っていてね>
<今日は旅行に行ってきますから、いい子で待っていてね>
 もう子供じゃない、なんて言った気がする。思い出の中で、母はまた笑う。隣で父も、微笑んでいる。頼もしいな、と頭を撫でられて怒ったりもしたような、気がする。
 クレインは強くかぶりを振り、思い出から逃れた。
 あの事故から、クレインのそれ以前の思い出は、全て裏返しになってしまった。暖かく優しい思い出は、今は痛みとなって彼の胸を襲う。

 ───思い出も、「動かなくなってしまえばよかった」のに。

 あの時自分が喪ったものと一緒に、消えてなくなってしまえばよかったのに。
 時が解決してくれる痛みもあるが、時が後押しする痛みも、この世には確かに、ある。
 右手が震えていることに、クレインは気がついた。すぐに、自嘲するように微かに口の端を上げる。
 ───ほら。私の右手は、こんな風に途方もない哀しみに「思わず力がこもっても」、震えることしかかなわない。
 ああ、そうだった……黒猫を、洗ってやらなければ───。
 深い回想からやっと戻ってきたクレインは寝室を見渡し、黒猫の気配がどこにもないことに気がついた。風呂場にお湯をこぼしに行っている間、扉から外に出たのだろう。
 どの部屋にいるのだろう?
 とりあえず近い部屋から順々に覗いてみよう、と歩き出した彼の歩みは、何か陶器が落ちて割れる音によって走りに代わった。
 台所のほうから、音がした。
 割れた陶器で、怪我をしてはいまいか。
 急いで台所に行くと、流し台の上で丸まって震えている黒猫を発見した。割れた皿が、床に落ちている。
「すぐに片付けますから。こっちに来るんじゃありませんよ」
 震えているところに急に近付いては、また逃げて皿やコップを割る恐れがある。クレインは静かに、床に散乱した陶器の破片を片付けた。
 それが終わると、立ち上がったクレインは、ふと、ワイングラスに目がいった。
 懐かしい者からの贈り物だった。
「…………」
 静かに見ていたクレインは、無意識に、ワイングラスに水を入れていた。本当に、綺麗な音が出るのだろうか。まだ、試したことはなかった。すぐ傍にいる黒猫の存在もこの瞬間は忘れていた。だから、黒猫のほうも逃げずにきょとんとしていたのだろう。
 クレインは水を入れたグラスをキッチンの上に置き、スプーンで、そっと弾いてみた。
 なんともいえない音色が、クレインの耳を心地よく刺激する。
 世の中は、広い。こんな音も、いつだったか誰かがやっていたのを聞いただけで、自分で出したことはなかった。
 無理に音を奪われた音楽家は、「追求しない音」に魅せられ易いと云う。
 本当だ、とクレインは少し微笑し、もう一度、音を鳴らした。

 ニャァォ……───

 ふと、遠慮がちな声と共に黒猫が、クレインの足元に移動して頭をすりつけてきていた。
「あ」
 すっかり忘れていた。これも、長く独りでいたせいだろう。
「そうだ、あなたを洗うんでした」
 ひょいと左手で抱き上げ、風呂場に行く。歩いている間に黒猫に怪我はなかったかと診たが、幸いなかったようで安心した。
 今度は洗面器ではなく、バスタブにお湯をはる。
 片手で洗うのは、考えてみると、どうもやり難そうだ。ならば、一緒に入ればいい、とクレインは思ったのだ。ちょうど入浴の時間でもあるし、と、お湯を見て再び逃げようと暴れる黒猫を抱いてなだめる。


 黒猫は、石鹸をすっかり落としてから左手でバスタブに身体を浸からされ、暴れるのはやめたのだが、ぶすっとしているようだった。
 適度なところでバスタブからは解放しようと思っている。
「暖かいでしょう?」
 自分にかけた、言葉かもしれない。
 思えばこの黒猫が来てからというもの、決して世話好きとはいえないクレインは、自分に驚きを覚えてもいた。
 こうして───こんな風な積み重ねで、「変わっていく」のだろうか。
 そう、───何かが。
 今までは、回想の繰り返しでしかなかった。
 誰も、自分を「止めなかった」。
 でも、今は、ああいう風に───いい意味で、自分を「止めて」くれる黒猫がいる。
 回想を止められることを、特別望んでいたわけではない。
 だが、止められても、決して腹立たしくも思わなかったのも事実だ。
 決して変わる事のないと思っていた「何か」が、確かに、変わり始めた音がしていた。
 そう、確かに───クレインの、ぽっかりと開いた穴を埋めるかのように。
 グラスの出した穏やかで澄んだ音が、クレインの中で、響き渡り始めている。
 そう簡単にいいほうに変わって行くなどとは、思ってはいない。でも。
 確かに、クレインは自分の中に、黒猫によって導き出された「音」が、今この瞬間だけでも。
 ───聴こえて、いた。





《END》
**********************ライターより**********************
こんにちは、初めまして。今回「高く穏やかなグラスの音のように」を書かせて頂きました、ライターの東圭真喜愛です。
同じ音楽に携わる者として、少しでもクレインさんに何か、希望の「音」はなかったかな、と記憶の中から引っ張り出したのが「ワイングラスの水の音」でしたが、如何でしたでしょうか。
ともあれ、ライターとしてはとても楽しんで、書かせて頂きました。本当に有難うございます。
少しでも、楽しんで頂ければ幸いです。これからも魂を込めて書いていこうと思いますので、宜しくお願い致します<(_ _)>
それでは☆

【執筆者:東圭真喜愛】
2004/12/14 Makito Touko