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Untitled Movie
ぶらぶらと歩き回っているうちに、抜け落ちた記憶がひょっこり戻ってくるんじゃないかと、最初は楽観的に考えていた。
ちょっとした記憶喪失なんて誰にでもあることだ。人の名前を度忘れするとか、階段を上り終わったところで二階に来た用事を忘れるとか。脳の障害が起きている部分は、明日にでも回復するかもしれない。不意に用事を思い出すように。
アクション映画のセオリーでは、こちらがポップコーン片手に画面を眺めている約二時間三十分の間に、主人公の記憶が戻ることになっている。そうしないと話が進まないからだ。待ち受けるのは驚愕の真実。主人公は、火星の諜報員だった。あれは何の映画だったか……『追憶売ります』? まったく、こんなつまらないことは思い出せるのに、自分に関することは何一つ思い出せないときた。リュイ・ユウは、忌々しい気持ちで舌打ちをする。
仮に俺が映画の主人公だとしたら、記憶を取り戻すために色々痛い目に遭わねばならないという理屈になる――ユウはげっそりと溜息をつく。誰も大人しく記憶を返してはくれないのだ。失われた過去を取り戻したいのなら、走り回って、銃撃戦をして、脳の中身をいじくり回す妙な装置にかけられて、最後には悪漢と拳で殴り合って大団円――ジャンルがわからなくなってきた――とにかく、そういう七面倒くさい手順を踏まなければならない。
幸い、俺は映画の主人公ではないし。
常識的に考えたら、見ず知らずの敵に襲われるより先に、病院へ行くものだろう。
「リュイ・ユウという男に、常識を適用して良いのかどうかは別として」
半分砕けた窓ガラスに映った黒髪の男と向き合って、彼は言う。
前例があることだし、平穏な解決は望めそうにない。
不吉な考えを打ち消すように軽く頭を左右に振ると、リュイ・ユウは歩みを先へ進めた。
道行く人々に思い切り不審そうな顔をされながら(あからさまに余所者という素振りだったのだろう)、それでもなんとか個人経営の診療所の所在を聞き出した。個人経営のほうが金銭に融通が利きそうだと考えてのことだった。無駄な出費は抑えるに越したことはない。病院にかかる費用が無駄かどうかはともかくとして。
目的の診療所は、嵐が来たら傾きそうな、それは実に慎ましやかな佇まいだった――要するにボロい。金をかけているようにはとても思えない。大丈夫なんだろうかこの診療所。
一抹の不安を抱きつつ扉を押すと、つんと鼻をつく消毒薬と、どこか懐かしい血の匂いが彼を出迎えた。第一印象を一言で表すなら『野戦病院』。しかし、外の酷さを考えれば設備はそれなりに整っているほうだと言える。
肝心の医者の姿が見えなかった。ちなみに患者の姿もない。閑散とした待合室を横切り、診察室というプレートが斜めに掲げられた扉を叩く。
「すいません。診察を受けたいのですが」
どんどんどん。
「すいません!」
最初は控え目だったノックの音が、がんがんがん、になる。
埒が明かない。在不在はこの際無視。ユウは乱暴に扉を押し開けた。相当歳がいってそうな白髪の医者が、数テンポ遅れてこちらを振り向いた。
「……営業中ですよね?」
妙に間抜けな台詞が口をついて出てくる。医者は、おお、とこもった声で答えた、
「患者さんかね。まあ、座りたまえ」
この通り耳が遠くてね、と微妙に不安な台詞をほざきつつ、ユウに椅子を勧める医者。
「それで、今日はどうしたのかね」
風邪引きの患者でも相手にするようなノリだ。仕方がないのでこちらも、
「どうも記憶喪失らしいのですが」
と、今日の天気でも話すような調子で答えた。ちなみに曇りだ。今にも雨が降り出しそうな気配。
「記憶喪失? 昨日の晩飯について思い出せないんなら、ちと物理的な衝撃を加えてみるかねぇ」
「待て、いや、待って下さい」ユウは椅子ごと後ろへ仰け反った。「もう少し平穏にお願いします」
「冗談だよ、冗談」ほっほ、と朗らかに笑う医者。……物凄く性質の悪い冗談だ。「記憶喪失と一言に言っても色々あるが……、心因性というのでもなさそうだねぇ」
「そう思う根拠は?」
「神経図太そうだからね、君」
「…………」
自分でもなんとなくそういう気がしていたが、他人に改めて指摘されると、仏頂面にならざるを得ない。
「となると何か脳に衝撃を受けたか……何が思い出せないのかな?」
「目覚める前の記憶すべてです」否、それでは語弊が生じる。大昔のSF映画のタイトルは思い出せる。「いえ……自分がどこの誰かわからない。おそらく、自分に関する記憶が抜け落ちているのではないかと」
「嘘をついてるんじゃなかろうね」
「だから何でですか」
「あんまり深刻そうに見えないよ、君」
「見た目で判断しないで下さい……」調子が狂ってきた。ユウは自身を落ち着けるために深呼吸をする。老医者に殴りかかるわけにもいかない。「記憶についてはさほど危惧していません。心配なのは、脳に異常があるのではないかということで――」
ユウはふと顔を上げた。何やら外が騒がしい。耳の遠い老医者は気づいていないようだ。
長年の経験(何の経験だか知らないが)で培われたらしい勘で、ユウはすぐに危険を察知した。
「伏せて!」
先に身体が反応した。
老体に優しくない乱暴さで医者を机の下へ放り込み、ユウも寝台の影に転がり込む。
コンマ数秒前まで二人がいた場所に、弾痕が穿たれていた。
自分が危険な状況に置かれていることだけはわかったのだろう、老医師はひぃ、と喉の奥から掠れたような悲鳴を絞り出して身体を小さくする。
ユウは身を捻って次の銃撃を交わすと、床に散らばったガラスの欠片を拾い上げて相手に投げつけた。襲撃者が怯んだ隙をついて反撃。数瞬で距離を縮め、肘で男の鳩尾に当て身を食らわせる。呻いて身を折る男の手から銃を奪い取った。すかさず銃把を振り回して、寄ってきた男どもを薙ぎ払う。
雑魚のお手本のような情けない体で壁に叩きつけられた男達を見、ユウははじめて気思い当たった。――先日、寝起きを襲ってきたごろつき集団だ。仲間を引き連れてきたらしい。
「懲りないな」
ユウは呆れ顔でつぶやくと、医療器具が載せられた台車を引っ繰り返した。散乱した注射器を踏みつけてバランスを崩した男が、派手に転倒する。受け身も何もあったものではない。お世辞にも訓練された連中とは言えない。
「頭数が多ければどうにかなると思ったら――」
大間違いだ。
沸いてくる雑魚どもを片づけながらちらりと思う、――おかしい。やはり俺は映画の主人公なのか。
狭い室内で銃を振り回すのは感心できない。武器を使わずに、体術のみで対抗する。
我ながら鮮やかとしか言い様がない手捌きで全員をぶちのめし、今度こそ起き上がれないように完膚なきまでのしてやってから、はたと気がついた。爺さん、無事か、と。
机の下に放り込まれたときと同じ格好でうずくまっている老医者は、なんとか生きてはいるようだった。
「……すいません。大丈夫ですか」
俺があやまる必要もないんだが、などと思いつつ起き上がるのに手を貸してやる。まだ危機がつづいていると勘違いしたのか。医者は年齢からは想像できない勢いでユウを押し退けると、もうこんなところは御免だ、と捨て台詞を残して診療所を飛び出していった。過去に似たようなことが何度かあったとでもいうような逃げっぷりだった。
「……ふむ」
一人残されたユウは腕組みをし、荒れ果てた診察室の中を見回す。
ほとんど銃を使わなかったおかげで、高価そうな医療器具はあらかた無事だった。哀れな老人は、一財産を瓦礫の街に残して逃走してしまったということになる。
「こういう場合は……、盗みには、当たらないだろうな」
そもそも警察機構が機能しているようにも思えない。
――こんな展開もあり、か。
ユウは人知れず苦笑を浮かべる。
折角だ。診療所を丸ごといただいてしまうことにしよう。医者というのは天職かもしれない。
「最初の患者は、貴方達、ということですね」
医者の口調を装って、床に倒れ付した男達に向かって言ってみる。
裏のゴミ捨て場に投棄してきても良かったが、それで死なれても後味が悪い。
妙な成り行きではあるが、ここで人生を築き直してしまうというのもありだろう。
映画としては出来が悪くとも、構わない。
観客を唸らせるストーリー展開も、涙させるエンディングも不要だ。
二時間半で丸く収まるような人生では、どちらにせよないのだから。
fin.
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