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<東京怪談ノベル(シングル)>




 出来るだけ眠らない方がいい。
 休養を取るのは、ぎりぎりまで待った方がいい。
 そう、思ってはいる。
 生来色素が無い為、元々身体は弱かったのだが…半身をサイバー化させてからは、以前よりも更に疲れ易くなっている。だから、何をしようとそれ程無理を行っている訳でも無い。…無理と言う程の事は、初めから、できない。
 けれど。
 時折は。
 身体を酷使してしまった方が、楽な事もある。
 例えば――今日、した仕事。
 久方ぶりに、自分から請け負ってしまった仕事で。
 何故そんな珍しい事をしたのか。それは――映画の内容故だったからかもしれない。
 最愛の妻を失い、ひとり生きている夫の物語。
 概要を聞くに、それはまるで――鏡に写した自分ででも、あるようで。

 この画に、音を付けたいと思ってしまった。
 そう思ってしまったのが、間違いだったのかもしれない。
 製作側から直に寄越されたアシスタントエンジニアとのやりとりが、余計にそう思わせた。

 …あの時の、貴方の姿が目に焼き付いていますよ。
 …もう、ピアノを弾かれる事はないのですか。
 …貴方の素晴らしい演奏を、是非ともまた拝聴してみたいものです。

 ふとしたきっかけで始まってしまった話。
 理由を知らぬ相手の賛美。
 …今の私は昔のようには弾けないと言う事を。
 この彼は――知らないのだろう。
 私の事故を。
 失った過去を。
 その事自体は、もう言葉通り――『過去』の事。
 今更覆す事など叶わない話。今更どうこう言う程の事でも無い。
 そう、思っている筈で。
 今更何とも、思ってはいない筈の事。
 ただの、過去の事実。今更心が動く程の事は無い。

 その筈なのに。
 エンジニアの彼が帰還して。
 ひとり、残された後の事。

 思考が深く沈み込む。
 それは、昔の栄光――と言う程でも無い事ではありますが。
 それでも。

 何処か、堪えているのは、やはり過去に囚われているからなのでしょうか。
 彼の言うように、ピアノを弾きたい。それは――本当は私自身の方で。
 聴きたいと思ってくれる相手が居る。
 触れたい楽器がある。
 …もう二度と、叶う事の無い願い。

 表面的には殆ど気にも留めていない――留めないようにしている事。
 エンジニアの彼がまだ居る内は、それ程には思いを巡らせる事も無かった。
 …仕事の間に、そんな暇は無い。

 けれど、何処か影響はしていたようで。

 …映画用に使う殆どの音を、荒削りながらその日の内に作り上げてしまっていた。
 あっさりと渡されたテープにエンジニアの彼も酷く驚いていたのが、顔を見ていて良くわかった。
 それは、これで仕上げとしてしまうには、まだまずいとは思う音。けれど、漠然とした音のイメージを製作側に確認させるには充分な程度の完成度の楽曲。
 エンジニアの彼が帰還の際、無理はしないで下さいよ、とおどおどした様子で声を掛けて去って行ったのが印象に残ったか。…私の様子は、それ程怖かったのでしょうか?

 ただ、私は。
 何も考えないように、していたかっただけなのですが。
 だから、目の前の仕事に没頭していた。
 慣れない事をしているとわかっていても。
 後の事は考えなかった。

 …夢を見るのは、嫌だから。



 私がいつも見る夢は、過去の幸せ――それは今突き付けられれば、辛いとしか思えない事ばかり。
 その筈だった。

 なのに。
 今は。
 ふと視界に入るのは先日拾った黒猫――新しい小さな私の家族。
 丸い瞳が不思議そうに私の顔を見て、首を傾げている。

 ひとり残され、何かの拍子に物思いに耽ってしまうか、と言う時。
 いつの間にそこに居たのか、じーっと私を見つめて目の前に居る時もある。
 私が気付くと、少し表情を変える。そのまま擦り寄って来る時もある。自分に興味を向かせようとでも言うのか、少し離れたその場でごろん、と転がってみせる事もある。私が気付いた事を確認してから、ふわー、と欠伸にうーん、と伸び。
 そんな他愛もない、けれど愛嬌のある行動に、慰められている気がする自分が居る。
 何処かトゲトゲしていた気分も、和らいで行く気がする。



 次の朝、目覚めた時もまた、ちょっと驚いた。
 昨日の事から考えると、むしろ――明日は最悪の気分で目醒めてしまうだろうかと、思っていたのに。
 珍しい。
 この私が、楽しいと思える夢を見るなんて。
 何故だろうか。少し考える。
 理由。
 思い付くのは――黒猫程度。
 他の要素は――最悪に近かったと言うのに。

 それだけで、私は?

 ふと、自然に唇に浮かぶ笑み。
 そこに、件の黒猫――小さな私の家族がベッドの上に飛び乗り、ひょこりと顔を覗き込んでくる。
 ただ、真っ直ぐに。

 私には、小さな家族がまだ、ここに居る。
 …私のそばに。

 ならばまだ、夢を見るのも――悪くないのかもしれない。

【了】