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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


 『バレンタインの夜に』


 神様、もしあなたが居るのなら――
 私に、ほんの少し前に進む勇気を下さい。


 二月十四日。バレンタインデー。
 世界は様相を変えても、人間の慣習というものは、そうそう変わるものではない。
 今でも、この日は、恋人たちにとって――特に、恋をしている女性にとって特別な日だった。
 高桐璃菜は、朝早くから起きて、チョコレート作りに没頭していた。
 湯煎で溶かしたチョコレートを、ハートの形をした型に流し込み、冷蔵庫へと入れる。本当は、もっと凝ったものを作ろうかとも思ったのだが、計画を考えると、なるべく溶けにくいものがいいので、シンプルなものにすることに決めた。
「これでよしっと」
 彼女は一息つくと、朝食の支度に取り掛かり始めた。


 やがて、神代秀流が欠伸をしながら部屋から出てくる。
「お早う」
「あ、おはよ。今日は私が起こさなくても起きれたね」
 そう言って笑う璃菜に、秀流はバツが悪そうに頭を掻いた。
「俺だって子供じゃないんだ」
「そうだよね。もう立派なビジターズギルドの一員だもんね」
「……顔洗ってくる」
 からかうように言った璃菜を軽く睨むと、秀流は洗面所へと姿を消した。


 いつものように簡素な食事を済ませると、二人で食器を片付ける。それが終わると、璃菜は濡れた手を拭きながら、秀流に言った。
「あのさ、ちょっと食材の買出しに行ってきてくれない?」
「別にいいけど……璃菜は行かないのか?」
 不思議そうに問う秀流に、璃菜は一瞬言葉に詰まってしまう。いつも、買い物には二人一緒に行っていたからだ。
「え、えっと……ほら、私、掃除とか洗濯とかしなきゃいけないし、別々にやった方が効率いいじゃない?」
 とっさに言葉が滑り出るが、自分の挙動が不審に思われなかったか、不安になる。
「まぁ、それもそうだな……行ってくるよ」
 だが、幸い秀流には気づかれなかったようだ。それに胸を撫で下ろしながら、玄関先まで彼を見送る。
 ドアが閉まり、足音が遠ざかったのを確認してから、璃菜は急いで冷蔵庫へと向かい、チョコレートの状態を確認する。
「もう少しで固まりそうね」
 彼女はそう呟くと、冷蔵庫の扉を閉め、用意してあったメッセージカードの準備をすることにした。
「何て書こうかしら……」
 花柄が描かれた、白いカードを前に、暫し頭を悩ませる。
 『愛してる』では大げさ過ぎる気もするし、『大好き』と書くのも気恥ずかしい。迷った挙句、ペンで『いつまでも一緒にいようね』と書いた。
 ようやく固まったチョコレートを型から取り出すと、デコレーションを始める。あまり豪華にしたところで、結局は崩れてしまうから、簡単なものにする。そして、カードと一緒に買ったギフト用の箱に収め、ラッピングをし、リボンを掛けた。
 彼女はそれを自分の部屋に置いてくると、秀流に宣言した通り、掃除と洗濯を始める。



「ただいま」
「あ、お帰り」
 秀流が、幾つもの袋を抱えて帰ってくる。
「やっぱ、璃菜がいないと何買っていいか分からなかった……適当だけど、いいか?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
 テーブルに荷物を置きながら言う秀流に、璃菜は微笑む。
 自分の部屋にコートを置きに行った秀流を目で追いながら、璃菜は改めて、自分の計画を頭の中で整理し始める。
 今夜は、久々に二人で外食することになっていた。それまでに、秀流のコートのポケットにチョコレートを忍ばせる。彼は鈍感なところがあるから、暫くはそれに気づかないだろう。だから、食事の席で、ポケットを確認してもらう。そして――
 そう考えるだけで、璃菜の胸の鼓動は速くなった。
 今まで、バレンタインにチョコレートを渡したことが無いわけではない。ただ、それは子供の頃の話。
 いつからか、渡すことが出来なくなってしまった。
 それは、秀流を幼馴染や、家族として見られなくなったから。
 そして多分、その一線を超えるのが怖かったから。
 でも今日、その線を、自分は超えようとしている。
 もう、自分の裡だけに収めておくには、秀流への想いは大きくなり過ぎていた。



 時計が、夜を告げる。
 ここマルクトは、屋内都市であるため、昼夜の区別は無い。皆、時計を中心に活動をしている。
「そろそろ出かけようか……と、その前にちょっとトイレ」
「うん。いってらっしゃい」
 秀流が洗面所へと姿を消したその隙に、璃菜は自分の部屋からチョコレートを取ってくると、急いで秀流の部屋へと向かった。
 ハンガーに掛けられた彼のコートを見つけると、内ポケットを確認する。
 すると、何かがひらひらと舞い落ちてきた。璃菜はそれを拾い上げる。
 一枚の写真。
 そこに写っていたのは、長い黒髪をたなびかせて歩く、美しい女性の姿。
「お待たせ。あれ?璃菜?」
 秀流の声が聞こえる。
「あ、居た。璃菜、俺の部屋で何やってんだ?」
 秀流の声が。
「……へぇ、秀流って、こういう人が好みだったんだ」
 璃菜がようやく喉の奥から搾り出せたのは、そんな言葉だった。
「ちょ!?何やってんだ!人のコート勝手に探りやがって!!」
 秀流が、璃菜の手から写真を奪い取る。
「どういうことよ!隠し撮りなんかして、あんたって最低ね!!」
「何だと!?お前こそ、こそこそ人のこと監視して、何様のつもりだ!!」
 場が一気に険悪なものへと変わっていく。
「――ビジターズギルドを辞めろ。自警団もだ」
 冷たく言い放った秀流の言葉に、璃菜の頭にさらに血が上る。
「何でそういう話になるのよ!秀流には関係ないでしょ!!」
「いい加減、鬱陶しいんだよ。お前につきまとわれるのも」
「い、いつ私があんたにつきまとったっていうの!?私は、お父さんの跡を継いで――」
「そう思われてる親父も迷惑だ」
 何かが、ぷつり、と音を立てて切れた。
「大嫌い!」
 違う。
「秀流なんて、大っ嫌い!!」
 どうして。
 どうして、自分の気持ちとは全く別の言葉が、口から出てきてしまうのだろう。
 何故、自分はこんなにも嘘つきなんだろう。
「お前は一体、俺の何なんだ!」
 秀流が、堪えかねたように怒鳴った。
 自分は、秀流の――
 何なのだろう。
 彼にとって、自分という存在は、何なのだろう。
 そう思ったら、勝手に涙が溢れてきた。
 拭うことも出来ずに、透明な液体が、上気した頬を冷たく湿らせていく。
 それを見た秀流は、視線を逸らし、唸るように言葉を発した。
「ここを出て行く」
 その言葉は、やけに遠くから聞こえてきた気がした。
 璃菜は声を出すことも出来ずに。
 コートを乱暴に掴んだ彼がこちらへと背を向け。
 やがて、パタン、と閉じた玄関のドアの音だけが、やたらと現実味を帯びていた。



 秀流は、当てもなく街を歩く。
 苛立ちは、中々収まらなかった。
 璃菜への苛立ち。
 それよりも――自分への苛立ち。
 とりあえず、酒でも飲もうと、近くのバーへと足を運んだ。
 だがそこで、あることに気づく。
「財布……忘れてきちまった」
 しかし、いまさらどんな顔で、家へ帰れるというのだろう。
 彼は、璃菜が眠った頃を見計らって、財布を取りに戻ることに決めた。
 どこにも行くことが出来ないので、仕方なく、道の片隅にあった空箱に腰を掛け、夜の街を眺める。
 昼も夜も変わらない、マルクトの灰色の街並み。
 楽しそうに談笑しながら歩く人々。
 胸に迫る寂寥感。
 喧嘩した勢いとはいえ、璃菜には酷いことを言ってしまった。
 だが、『ビジターズギルドと自警団を辞めろ』というのは、半分本音。
 彼女を、これ以上危険な目に遭わせたくなかったから。
 彼女は、自分が守らなければいけないから。
 でも、もうその役目も終わりを告げた。
「畜生!!」
 背後の壁に、拳を打ち付ける。
 彼の言葉に振り返る者は、誰も居ない。



 どうして。
 どうして。
 そんな言葉だけが、頭の中を駆け巡る。
 主の居なくなった部屋で、璃菜はただ立ち尽くしていた。秀流が居なければ、ここはただ、空虚な空間。
 ふと、窓際に立て掛けられている写真に、目が行った。そこに写っているのは、幼い頃の秀流と璃菜。今は亡き父に撮ってもらったものだ。
 少し照れたような表情の秀流と、満面の笑みを浮かべる璃菜。
 その笑顔が、今は胸に痛かった。
 そっと、写真を手に取る。

『みのる、だーいすき!大きくなったら、およめさんにしてね!!』

 どうして、大人になるにつれて、人は素直じゃなくなるのだろう。
 嘘やプライドで、自分を塗り固めるのだろう。
 そうやって、傷つくことから逃げているのかもしれない。
 『大人』なんて、結局は子供の延長線上でしかない。
 幼虫から蛹へ、そして成虫へと華麗に変貌を遂げる蝶のようには行かない。
「……秀流、大好き。大きくなったら、お嫁さんにしてね」
 幼い頃に言った言葉を繰り返してみる。
 そうしたら、何かが弾けてしまった。
 堪えきれない感情は、咽び泣きへと変わる。
 それを受け止めてくれる者は、誰も居ない。



 秀流は、音を立てないように注意しながら自宅のドアを開け、そっと自分の部屋へと向かった。
 そこにあったのは、床に蹲り、泣いている璃菜の姿。
「璃菜……」
 気づかれないようにするはずだったのに、思わず声を掛けてしまう。すると、璃菜は弾かれたように顔を上げ、秀流へと縋りついてきた。
「お願い、一人にしないで!秀流が誰のことを好きでもいい!私は秀流が居ないと駄目なの!秀流が必要なの!私……私……」
 子供のように泣きじゃくる璃菜に戸惑いながらも、秀流は何とか言葉を発する。
「……璃菜、あの写真は、違うんだ。あの女の後ろに、指名手配犯の姿が写ってて……だから」
「……え?」
「だから、そういうんじゃないんだ」
 何かが、解きほぐれていく。
 何かが、繋がっていく。
「……な、何だ、そうだったの……私ったらバカみたい。勝手に勘違いして……ご、ごめんね。あの……忘れて?さっきのことも、今のこと――」
 璃菜がしどろもどろで発していた言葉は、秀流が彼女を抱きしめたことで遮られた。
「み……秀流?」
「俺にも、璃菜が必要だ」
 愛おしい。
 愛おしい。
 何故、今まで気づかなかったのだろう。
 きっと、怖かったのかもしれない。
 今までの関係を崩してしまうことが。
 だから、ずっと蓋をし続けてきたのだ。
 自分の心に。
 でも、もう抑えることが出来なくなった。
 二人の視線が自然と合わさり、やがて、そっと唇が重なる。
 ゆっくりと、影が縺れ合い、薄闇の中へと沈んでいく。

 そして世界は、二人だけのものになる。



 朝。
 昨晩の出来事は、夢だったのだろうか。
 だが、身体の中に残る、疼きにも似た鈍い痛みと、隣で寝息を立てている秀流の横顔に、やはりこれは現実なのだと思い知らされる。
 現実。
 ずっとずっと、待ち望んでいた現実。
 璃菜はそっと微笑み、深呼吸をする。
 そして、秀流を起こさないようにベッドから出ると、服を着て、朝食の支度をするために部屋を出た。


「おお、今日は豪勢だな」
 秀流がメニューを見て、感嘆の声を漏らす。
「秀流が昨日、余計なもの一杯買い込んできたからね」
「悪かったな、余計なもので」
 そう言って苦笑する秀流と璃菜の目が合う。二人で迎える『初めての朝』は、どことなく気恥ずかしくて、どちらからともなく目を逸らしてしまう。
「あ、あとこれ……昨日渡せなかったけど」
 璃菜はエプロンのポケットからチョコレートを取り出すと、秀流に手渡した。彼は、包みを開けると、笑顔を見せた。
「ありがとな」
 そして、メッセージカードに目を遣る。
「これ、返事したほうがいいんだろうな」
「い、いいよ別に」
 顔を赤らめて手を振る璃菜の目を真っ直ぐに見ると、秀流はニヤリと笑ってこう言う。
「『勿論だ。璃菜が嫌がったって、一緒に居てやるからな』……これが答え」
 その言い方が可笑しくて、璃菜は思わず吹き出した。
 秀流も、朗らかな笑い声を上げる。


 こうして、二人は新たな一歩を踏み出した。
 未来へと向かって。