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■迷える羊■
気が付くと珈琲豆がなくなっていた。
インスタントはあるのだが。
彼はコーヒーが大好きではなかったが、好物がカフェオレであった為、材料にもなっているその豆の必要性を感じていた。
いや、カフェオレなのだから、別段豆から作らなくとも…とは思うのだが、何故か美味いコーヒーを作ってからだと言う気がしているのだ。
何故だろう。確かにカフェオレは、コーヒーが主役であるのだがと、らちもない思考がぐるぐると脳内を回る。威圧感のある少し冷淡にも見えかねない端正な顔立ち、清潔感ある短めの黒い髪、そして髪と同じ色の瞳から発せられる光。これらの風貌より受ける印象からは、まさか彼がこんなことを考えているなど、誰も思いつかないだろう。
彼──リュイ・ユウは、そのなくなった珈琲豆を買い足すべく、ドアを開けた。
暫しの沈黙の後、ユウは目先にあったとあるモノを拾い、再度ドアを閉める。
勿論ながら、拾ったものは、珈琲豆である筈がない。
到達するまでにスリルを味わえるこの場所へ、そんなものを置いてくれる様な奇特な善意者はいないだろう。
拾ったのは、人間だ。
東洋人風の顔立ちに、長い黒髪を高い位置で一つに纏めている落とし者は、幼くは見えるものの既に青年と呼べる年齢になっている。
ユウはこの青年のことを知っていた。最初に出会った時、配達屋さんをしていた彼は、自分の値引き交渉に、唯一首を縦に振らなかったのだ。逆に値上げの交渉までしてくれた為、ブラックリストの筆頭に掲載したユウだった。
顔面が面白いことになってはいるが、値上げ交渉した人間を、ユウが見間違える筈もない。
別段古い知り合いと言う訳ではない筈なのだが、何故か縁がある。
確か、名をケヴィン・フレッチャーと言った筈。
「……何でこんなところに落ちているんでしょうねぇ」
そう呟くと、ユウは彼を診療用のベッドへと横たえた。
何故診療用のベッドがあるかと言えば、彼は腕の良い──そして暴利な──闇医者であり、ここがその住居兼診療所であるからだ。
更に何故診療用のベッドに、ケヴィンを横たえたかと言えば、客用のベッドがなかったからと言うだけの理由ではなく、彼が怪我をしていたからだ。
「これはなかなか見事に、たたまれてますねぇ…」
一瞥して、そう呟いた。
ユウは彼の腕を、大体のところだが把握している。自身も中国系体術の使い手でもあるユウは、ケヴィンの身のこなしや周囲への警戒心と言ったところを見ていて、粗方の戦闘能力の予想がついたのだ。
その彼が、ここまで自力で来たのか他力で来たのかはさておき、こうして気を失うまでダメージを受けていると言うのは、少々腹立たしい気分ではあった。
「……。どうして、腹を立てているんでしょう?」
深くはないとは言え、知っている者が傷つけられたからだろうか。そう考えてみるも、いや、それほど自分はカワイイタマではないだろうと否定する。
「ああ、きっと、俺の仕事を増やしたからですね」
何となく理由が付くと、少しは気持ちが晴れた。それが正解かどうかは、ユウ自身にも、実は解っていなかったが。
とまれ、自分は医者だ。そしてここには怪我をしている人間がいる。となると、当然ながら、自分は自分の仕事をすべきだ。
ユウはケヴィンを治療することに決めると、てきぱきと動き始める。薬品や包帯と言ったものは、当然揃えてある為、不自由はない。
必要であろうと思えるものを手元に集め、それを横に置いて治療を始める。
手際良く消毒し、クスリを塗りつけ、恐らく痣になりそうな部分には湿布を貼り付けた。何処も骨が折れていないのは、きっと上手く力を受け流したからだろう。ここまで確認してから、もしかすると気を失ったのは、腹が減ったか眠かったかだろうかとユウは思ってしまう。勿論、疲れ果ててと言うこともあるだろうが。
彼はにんまり笑い呟いた。
「さて、どれだけ頂きましょうかねぇ」
「さて、どれだけ頂きましょうかねぇ」
そんな声が聞こえた様な気がする。
何処かで聞いた様な声だとは思いつつ、しかし身体中から聞こえて来る痛みのオーケストラに依って、その声は遠いあちら側へと押しやられて行った。
じくじくとした痛みは、その声を境に徐々に治まり、けれど鈍痛は未だ彼を捕まえたままでいる。
いい加減こうして眠っているのも飽きて来た。もう目を開けても良いだろうと、眠っている自覚のあるままに、彼──ケヴィン・フレッチャーはそう思う。
夢を夢として認識している様な感覚だ。
ケヴィンは意思の力で瞼を開けた。
「…………」
そしてもう一度閉じた。それはもう固く強く。
ああ治療されていたのだと、思わず安堵しそうになるが、ちょっと待てと自分を止める自分がいた。
もし万が一、何かの大間違いで医者に行くとしても、自分なら絶対にここへ何か来ない。だから今ここにケヴィン・フレッチャーがいるのは、きっと、恐らく、いや絶対に、誰かが面倒くさがって放り込んだに違いない。こんな藪医者のとこに放り込むなんざ、ロクなヤツじゃないだろう。
目覚めて真っ先に視界に入った顔を見て、そう強く思った。
「狸寝入りですか?」
嫌味な声が、ケヴィンの耳に入る。
楽になったとは言え、未だ軋む身体を気合いで黙らせ、瞼を再度開けると同時、ケヴィンは今まで寝ていた診療用ベッドから身を起こした。
「誰が狸寝入りだよ。ただ単に、今俺に起こってる不幸を嘆いてただけだって」
「不幸ですか? まあ、そうでしょねぇ。見事にノされた様ですからねぇ」
「いやだから、今って言ってるだろうが。こんな強突張りのケチ臭い男に治療なんぞされてる不幸を嘆いてるんだよ。ケチが染りそうだ」
「酷い言い草ですねぇ」
ユウが溜息を吐いて、何やら差し出した。
「いらねぇよ」
その手を払うと、ばしりと気持ち良いくらいの音がする。けれどユウは、怒る訳でもなく、クソ真面目な顔をして言い募った。
「そう言う訳にはいきませんよ。こっちは医者ですからね。一度見ると決めた相手は、放ったらかしにしません。後は、痛み止めと化膿止めを飲んでくれれば良いんですから」
ほらと渡そうとして来るが、冗談じゃないとケヴィンは思う。
「いらねぇったらいらねぇんだよ。傷なんか、嘗めときゃ治る」
「貴方は獣ですか?」
「誰が野生だよっ!」
「野生だなんて言ってません。ケダモノと言ったんです」
何だかさっきより、酷いことを言われた気がするケヴィンである。
また腹の立つことに、目の前の鉄面皮は澄ました顔だ。
「誰がケダモノだっ!」
「目の前で怒鳴り声を上げてる貴方ですよ。まるで遠吠えみたいですねぇ。あ、負け犬って遠吠えするんでしたっけ? 何だか誰かさんに、ぴったりかもしれませんね」
『面白がっている。絶対に面白がっているだろう、こいつっ!』と、実のところ、中身がとっても熱いケヴィンは、沸騰寸前になっている。叫べば傷に響くのは、当たり前の話だが、ここで大人しく頷く訳にはいかない。男の沽券に関わることを、今言われているのだから。
「誰が負け犬かっ!!」
もしかするとここへやって来たのは、自分の意思かもしれない。
運び屋の仕事をしている最中、変な輩に絡まれて、一度は返り討ちにしてやったまでは良かった。だが、仕事が終わってから、再度武装して絡んで来た時には、人数と装備を強化してきたのは勿論、なんとまあ胸くそが悪くなることに、依頼人を人質にして逆襲をカマして来やがったのだ。人情に厚いかと聞かれれば、冷たいとは思わないと言う微妙にずれた答えを返してしまう程には、他人を気遣ってしまうケヴィンだ。ESP能力を発動させようかとも思ったが、相手が抗ESP機器を装着していた場合やエスパーが増えていた場合、逆に人質が危ないだろう。まあ、手に入れにくいそれを持っている可能性は、相手の風体を見ていたらないだろうとは思うのだが、何事も用心するに越したことはない。後はもう、想像通りの展開になってしまった。
取り敢えずは一区切りついてから、ケヴィンは身体を回復することを考える。要は眠れる場所…と言うことだった。
目の前の小憎らしい男は、医者のクセに、何やら物騒な香りのするヤツだ。
普通の病院などに行けば、自分の金魚の糞と化していただろう奴らの良いカモネギに間違いなくなるだろうが、その点この男なら、逆に金魚の糞をカモネギにするだろうことは間違いない。
きっとぶっ倒れる前の自分は、迷惑をかけたとしても、痛くも痒くもないこいつのところへ来ると言う判断をしたのだろう。いや、そうに違いない。
しかもあそこからなら、近場で屋根のあるところと言うのが、ここだったし。
ケヴィンは一気にそこまでを、回想の上、結論づける。
勿論ながら、その思考に責任が取れるかと問われれば『いや、全然』と答えるが。
「さっきから誰が誰がと五月蠅いですね。別に俺は『誰』とも言ってないじゃないですか。ただ、貴方の治療をしつつ、話をしているだけで。そもそも心当たりがあるなら聞く必要はないし、心当たりがないのなら、そんなに怒る話でもないでしょう?」
口数の多さに誤魔化されてなんかやらない。完全に屁理屈だろうと言う台詞に、ケヴィンはまたもや口を開く。
「あんたのその言い方が、勘に障るんだよっ」
「我が儘ですねぇ…」
白々しく吐く溜息が、何だかとっても芝居がかっている気がした。
治療の為にはだけたままの襟元をぐいと捕まれ、ユウの顔が間近に迫る。
何時も通り身体が動くのなら、このまま一蹴りして飛び出してやるのにと、ケヴィンは思った。
が。
何だかユウの様子が奇妙だった。
息もかかる程に寄せられた顔。真剣な黒い瞳は、ケヴィンの緑の瞳をしっかりと捕らえている。ユウの瞳孔に映り込んだ自分の顔を、はっきりと見た。彼からはこんな風に自分が見えているのだ。
その小さい孔の中にいる自分は、何処か何かに縋る様な幼子の様で──。
「全くもう、いい加減にして下さいよ。飲ませないと飲めないんですか?」
ユウから送られる吐息が、ケヴィンの記憶と唇を優しげに擽った。
先程から嫌味と毒舌が聞こえていたのと同じ唇とは、到底考えられない程の優しさを以て、ケヴィンの側近くに落ちて来ようとしている。
襟元をひっ掴んでいた筈の手はそのまま顎へと添えられ、もう片方の手は、何かを自分の口に含んだ様な仕草の後、そのまま腰に添えられた。逃がさないと言う意思表示の様に、そのままぐいと引き寄せられる。
ケヴィンはそんなユウを確認しつつ、完全に身体が硬直していた。
しかし、類い希なる危機回避の能力が、別の意味の危機に反応し、次の瞬間には、思いっきりユウを突き飛ばして一言。
「誰が飲めないって言った!」
思わず、ずずっとベッドの端へと避難もしてしまう。
その様を見たユウが、ぷっと吹き出し、完全に目も笑い出した。
「あんまりごねるから、悪いんですよ。ちょっとからかっただけなのに、その反応ですか」
やっぱりイヤなヤツだと思う。
思いっきり性格が悪い。いや、最悪だ。いや、最低だ。いや………。
──良く解らない。
実は口には含んでいなかったと言うクスリを手渡され、今度は素直にそれを口に入れる。
未だくすくす笑っているユウにはムカついたが、次いで渡された水と共に、それを勢い良く飲み干した。
そして口をついて出た言葉。
「記憶ないまま死ねるか…」
何処か憮然とした口調になってしまうのは、今もなお、過去に執着があるからなのだろうか。
視線を感じてユウの方を見返すと、彼は何処か複雑な表情でいるのが見えた。
「記憶が?」
ユウのイントネーションが、戸惑いに似たものを含んでいる気がする。探る様に瞳を見つつ、ケヴィンは一つ頷いた。
「まあな。丁度、今頃だったな。病院に運び込まれたのって」
ユウが片眉を上げて、ケヴィンを見ている。
ケヴィンは、そのまま独り言の様に呟いていた。
「記憶がないってのが、こんなに怖いことだって、多分以前の俺は、知らなかったんだろうな。……きっと」
『記憶がない』
そう彼は言う。
遠い何処かを見る様に、そう言ったのだ。
自分と同じだと、ユウは思う。
瓦礫の下から引っ張り出され、そのまま病院に搬送されたと言った彼は、目覚めた時に自分のこと一切を失っていたのだと、そうゆっくりとユウに聞かせるでもなく話した。
そう、まるで自分と同じだ。
「奇遇ですね、俺も……」
そう言いかけて、ハタと気が付く。
一体何を言おうと言うのだろう。
自分の方は病院に搬送された訳でも、瓦礫の下からと言う訳でもなかったが、やはり目覚めた時、同じく、自分の事に関しての全て手放していた。
そのことだろうか?
それとも『お互い、大変でしたね』と。
こう言おうとしたのか?
馬鹿馬鹿しいと、ユウは思う。
自分は疲れているのだろうかと思ってしまうほど、馬鹿馬鹿しいことだった。甘いものでも飲んだ方が良いかも知れないと、ケヴィンを背後に感じたままキッチンへと向かう。
しかしカフェオレを入れようとキッチンまで行ったは良かったが、そこで豆が切れていることを思い出した。買いに行こうとして、ケヴィンを拾ったのだ。
インスタントしか、今現在この診療所にはない。
「まあ、味を気にする必要もないですかね」
手早くミルクを温める。
『あの時、一体誰を思い出そうとしていたのだろう』
膜が張らない様に、焦げ付かない様に、慎重に。
『脳裏に映った緑の海は、一体何処にあるのだろう』
二つのカップには、インスタントのコーヒーを少々。
『そして、──誰が『ユウ』と呼んだのだろう』
「……馬鹿馬鹿しい」
思い出そうと努力してみても、まるで虹にむけて手を伸ばしているかの様に、それには何時まで経っても届かない。追いかけても追いかけても捕まらないのは、性悪女だけで充分だろう。しつこく追い求めても仕方ない、何時かはきっと思い出すだろうと考えた。
思考を打ち消す様に、ミルクパンにかけていた火を止め、そっとカップに注ぎ込む。次いでに砂糖も適当に入れた。
二つのカップを手に持ち、ユウが戻ると、先程と同じ姿勢のままのケヴィンが、けれど顔だけユウの方を見ていた。
そして何処かガキ大将の様に、にっと笑う。
「どうかしましたか?」
あまりに突き抜けた笑顔だったから、思わずユウはそう聞いてしまう。
そして返ってきたのは、なかなかに愉快な言葉だ。
「ま、うだうだ考え込んでてても、仕方ねぇっつうか。前向きに生きてく方が、建設的だと思ってたとこだったんだよ。あ、さっきの話だぜ? 何時か記憶は戻る。俺はそう信じてるからな。それまで死ねるかっての」
成程。こう言うところも、案外似ているかもしれない。
楽天的とは、少し意味は違うのだが、足掻いても意味がないことをするのは、実に非建設的であると言う考えは、ユウにも充分納得出来ることだ。
「変な人ですね。それで俺に向かって笑う訳ですか」
二つの内、一つをすっとケヴィンに差し出した。
何だと言う顔をしつつ、それを受け取ったケヴィンは、カップに視線を落とす。
「げっ、ガキの飲み物かよ…」
「ガキで悪かったですね。俺はこれが好きなんですよ」
眉間に皺を寄せそう言うケヴィンを失礼なヤツだと思いつつ、ユウは顔には出さない。そう思いながらも、何故かほっとしたのだ。
「……。ま、これで我慢しといてやるよ」
「素直で宜しい」
「で、いくら?」
窺う様なその顔を見て、ユウは思わずらしくないことを言ってしまう。
「今日はおごりで良いですよ」
そして瞳に映ったのは、あっけにとられたケヴィンの顔だった。
Ende
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