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<東京怪談ノベル(シングル)>


遠い日の響きに

 クレイン・ガーランドは繊細な指先に銀のスプーンを持ち、空いた手に持ったティーカップに先を当てた。陶器の高い音が、静かな室内に上がり、残る事なく消える。
 続けてもう一度、スプーンを当てた。同じように高い音を上げる。他に誰かがこの場に在ったなら、どちらも同じ音と感じたろう。しかしクレインにはそれぞれ違う音として聞こえていた。
 そしてどちらも、確かな音階をクレインに伝える。
 それはピアノの音階だ。何を行うよりも自由に、思い描くままに音を紡ぎだし、歌わせる事が出来た。しろとくろ、二色が生み出す調和と不調和。喜びも哀しみも怒りも。体内に沸き上がる全てを音に変えた。言葉で表すよりも早く、音が現れた。ふたいろが生み出す音は無限。クレインの指先に追われて歌い出す。高きも低きも滑らかに艶やかに。
 音色は何時でもクレインの中に在り、望むだけ指先が紡いで行けた。
 けれど。
 指先はもう、冷たい鍵盤を熱い音色に染め上げる事はない。
 事故で左半身は医療用サイバーとして生まれ変わり、右手は生身であるものの、事故以来幾分かの不自由を訴えるようになった。
 どちらもピアニストであった頃のクレインの手ではない。
 今も、時折無性に何かに駆られるように鍵盤に指を置く事がある。音を紡ぐ事も。
 だが、事故が起きる前の、傷を負う前のまっさらな身体と同じ音を喚び出す事は出来ないのだ。
 硬質な銀色が、三度、白い陶器を鳴らした。
 何時だったかこうして、ワイングラスを鳴らして音を思った事があった。
 あの時は何を思ってこうしたろうか……、過去の情景に思考を馳せる。
 それ程前ではなかった気がする。それとももう、数カ月は経っているのだろうか。
 時間の経過が曖昧なのは、時の止まったようなこの家に、封ざれたように住んでいるからか……否、棲んで、いるからか。
 アルビノであるクレインには陽の光は天敵である。元々身体も丈夫な方ではない。ゆえに昔から内を好む傾向にはあったが、事故を起こし身体を損ない、大切な人々を喪くしてからはそれが更に助長した。
 全く出歩かないではないが、出ても陽が落ちてから。闇に包まれた街を、家からそう離れる事なしに歩くだけ。遠出等、全くしなくなった。必要もないのだ……もう、ピアニストですらないのだから。
 仕事の打ち合わせは相手に出向いてもらうか、メール等でやりとりを交わせば間に合う。日々の買い出しは、一人住まいに猫がいるだけだからそう多くはなく、陽が落ちて近くの店に行けば事足りた。
 まるでクレインを取り巻く全てが、彼を家に閉じ込めるかのよう。
 自身の健康状態に、環境に、感情に。
 全てに閉じ込められて。
 深い深い、海底のような闇が家中に、床から満ちて行くような錯覚に、クレインは身を震わせた。持っていた銀のスプーンが、カップの中に落ちて、鳴った。
 それに打ち払われるように、身の震えが止まる。
 身を震わせた得体の知れない恐怖すら、払拭した高い、だが小さな音にクレインは詰めていた息を吐き出し、椅子の背に身を凭せかけた。
 朝目覚めて、紅茶を入れようとベッドから降り、カップを手に取った。だが、出来た事と言えば目的すら果たせず、カップを叩く事だけ。
 見たくもない夢を見たのだ。幸せな幸せな、夢。
 クレインの大切にしていた人々が傍らに在り、微笑む、夢。
 哀しい夢も勿論厭だが、幸せな夢も好きではない。
 所詮は夢。手許に何を残すではない。それでいて、クレインの胸に強烈な哀惜を残して行くのだ。
 夢の中で幸せであればある程。現実には届かないものである事を刻み付けられる。
 更なる傷が穿たれる、だから。
 どんな夢も見たくはない。
 だが望まずとも夢は訪れて、クレインに憂鬱を置いて行く。
 どれだけ日々を重ねても、どれだけ時間が過ぎ行きても、去らない胸の内の哀しみを。
 引き擦り出すのだ。
 最悪の目覚めに、カップは空のまま。まるでクレインの内を映したかのよう。全てを奪い去られて、虚ろを宿したこの身体。
 銀で叩けばカップの様に、高く悲鳴を上げるだろうか。
 クレインは空のカップをそのままに、椅子から立ち上がった。


 運の悪い事に、こういう時に限って仕事が無い。常に暇を持て余しているのではない――、偶々、予定が入っていなかった。こういう時こそ仕事に没頭して、仕事と言う音に埋没してしまいたかったと言うのに。だからと言って自ら仕事を探す為に労力を割く程に気力があるわけでもなく。
 クレインは暇を持て余して、読み途中だった本を手に取った。栞を挟んであった部分から、と本を開く。白い紙に並ぶ文字。いつもならすぐに心に浸透して、様々な世界を見せてくれる。自分のものでない誰かの感情を聞かせてくれる。
 だが今日に限って、文字はいつまでも文字のままだった。幾ら頁を捲っても、文字は語りはじめない。
 クレインの周囲の光景をそのままに。
 本の世界に入って行けない――。
 ただただ文章を流し込んで行く作業に気が滅入って行く。そうでなくても朝から下降気味だと言うのに。
 とうとうクレインは本を閉じた。
 これでは読む意味がない。
 クレインは閉じた本を膝の上に置いて、瞳を閉じた。顔を仰のかせて、天井へ向ける。
 そうして、今迄読んだ内容を声に出さず復唱した。それでも、世界は近付いて来なかった。
 何処までも、此処はクレインの世界だった。
 そしてそれは、いつもと同じ。

 たった、独り。
 静かなしずかな。

 心の片隅で、思う。何時迄同じ所を廻るのか、と。このままではいけないのだろう。喪くしたものを思い続けて、繰り返し繰り返し。何処にも行けずに蟠る。
 足下ばかり見ていては、他に何も見えはしない。
 そう、判ってはいる、のに。

 ――何処に行けばいいのかも、判らないのです。

 立ち止まらずに歩けと、叱咤する己に、そうと言う。
 判らない、どうすれば、良いのか。
 如何にすればこの苦しみから解き放たれ、真直ぐに前を向いて進む事が出来るのか。
 何時になれば悲しみが去り、目の前が開けてくれるのか。

 クレインの膝から、本が滑り落ちる。
 本が床に落ちて音を立てた。厚さのままの重い、音。
 それに反応を起こす事も出来ず、クレインは瞳を閉じたまま、両の手を組んだ。


 どれ程そうしていたのか。
 閉じていた瞳を開けた時には、窓から薄紅の夕陽が差し込んで、家の中を染め上げていた。
 恩恵に預かる事の出来ない、昼の日射し。それなのに、去って行こうとする太陽を思えば置いて行かれるような感傷が過る。
「まさかずっとこのままでいる訳にも行きません、か……」
 長い間同じ姿勢でいた身体は固まって、動かそうとすればきしりと痛んだ。
 それでもどうにか立ち上がって、足下に落ちた本を拾い、暗くなりつつある室内の明かりをつける。調度は揃っているものの、生活感の薄いがらんとした空間は、まるで。
 ――私の内と、同じ。
 空のティーカップ。人の気配の無い、家。
 その全てがクレインに、虚ろな胸の奥底を見せつけるようで。
 瞳をそっと伏せた。

 かたん、と固いものが倒れる音に顔を上げて見た先には、何時の間にかクレインの生活の一部に溶け込んだ、猫。

 デミルーンテーブルの上に幾つかのフォトフレームが並ぶ、その一つを倒した悪戯っ子は咎められると思ったのか、後ろ脚を引っ掛けた形のまま動かないでいる。それとも、何処を見るでもなく上方に据えられた瞳は、フレームを倒した事などには気付いてもいないのか。凝っと一方を見たまま、微動だにしない。まるでそこに何かがあるとでも言うように。
「そこは危ないですよ」
 クレインは穏やかに声を掛けた。フォトフレームには硝子が嵌まっている。下手な事があれば硝子が割れて猫を傷付けないとも限らない。
 テーブルへと近寄れば猫は、ようやくそこでクレインに気付いたとでも言うように一点を凝視していた顔を向けて来た。
 首を傾げて小さく一声。それからとん、と軽い音を立てて床へと降り立った。
 クレインの言葉を理解したのではなかろうが、その意は汲んだのか。猫がテーブルから離れた事にクレインは安心して、倒れた一つを手に取った。
 そこには、今は亡き両親と。
「……貴女は、今の私を見て……どう、思うのでしょうね」
 大切だった、女性。
 指先でそっと、フレームの表面を辿る。硝子の冷たさが指に寂しい。彼女の柔らかさも、あたたかさも、伝えてはくれない。笑顔でいるのに、こんなにもあたかな笑顔であるのに。
 その笑顔は、昨夜の夢を思い出させた。
 写真に写った笑顔は、夢の中に出て来た彼女と同じ表情だった。声はなく、ただ思い出をそのままに映すだけの、笑みと。
 クレイン居た堪らなくなって、手にしたフォトフレームを元の場所に置いた。
 身を翻して、室の出口まで真直ぐに進み、足を止めた。
 椅子の背に掛けてあったコートを羽織る。扉を開けると猫が、足下に擦り寄って来た。
「ついて来てくれますか」
 猫が、鳴く。
 両手を伸ばせば自らその中に収まって来た。
 クレインは猫を抱いて、夕闇に包まれた街へと足を踏み出した。


 其処は、クレインの自宅から歩いて数キロもない街外れの小さな森近くにある。
 両親と、彼の女性が眠る――墓地。
 点在する白い墓石は蒼闇に包まれ、草木が生え、その根元には小さな生物が息づいているのであろうに、命を、生を感じさせない静謐さが降りている。
 春とは言え、クレインが身を置く場所は暖かさには未だ遠く、ただでさえ寒々しい墓所は日が落ちた事もあって他所にいるより更に凍える心地がした。
 身を震わせて、猫を抱く手に力を込める。小さな温度が酷く暖かく思えた。
 足が止まる。見えない鎖に戒められたかのように。
 急に思い立って出て来たものの、墓に刻まれる名前を思った瞬間に足が竦んだ。
 そこにある名は今はもう、現実で呼ぶ事の出来ないものだ。
 当たり前の事を、と。今更、と己を笑おうにも、口許は凍ったように動かず笑みを上らせるのに失敗した。
 何故、こんなにも自分は。
 ――私は、あまりに弱い。
 彼等の死を、受け入れられないのではない。だが、彼等がクレインの傍にない事が苦しい。彼等の上に起きた悲劇が悲しい……その、感情が和らがない。
 悲しみと言う苦痛はいつまでもどこまでもクレインを追って来て離さない。
 逃れられない自分に憤りさえ感じる事もあるが、それも苦痛を振り払う起爆剤には足りなかった。
 腕に更に力が籠る。それに抗議の声が上がった。
「ああ、すみません。痛かったですか」
 猫の声に腕を緩めれば、猫はクレインの腕からするりと抜けて走り出した。
「何処へ……!」
 猫はすぐに墓の間に姿を消した。
 そのまま戻らないのでは、と思った瞬間に背筋が凍えた。彼も行ってしまうのか、と。
 誰もクレインの傍には残らなかった。
 誰も。
 小さな姿が消えた方向へ足を向ける。焦燥に突き動かされるように、身体が動いた。だが、胸にある危惧を裏切って、猫は一つの墓の前にちょこんと、脚を揃えて座っていた。
 クレインの姿を見ると一声上げて、墓石に身を擦り付ける。いつもクレインにそうするように。
 その墓は。
「……案内有難うございます」
 自然と口許に微笑みが浮かんだ。単なる偶然だろうが、猫が居たのは目的の墓前だったのだ。
 猫は何度も身を冷たい墓に擦り付ける。まるでそこに誰かがいるかのように。
 クレインは墓前に片足を付く。石に触れればやはり冷たい。
「ここは……寒いですね。次に来る時は明るい色の花を持って来ます」
 だから今日は、赦して下さい。
 石に口付ける。彼等は生きていればクレインに口付けを返してくれただろう。
 それが無いのにきり、と胸が痛む。
「また、来ますね」
 痛みは棘のようになくならない。刺さったままのそれにどうする事も出来ないまま、クレインは墓地を後にする。ただ、元の通りにクレインの腕に収まった猫が手を舐めて来る感触が、僅か痛みを和らげてくれた。


 戻った家はやはり静かで。墓所と変わらぬ静寂が、今のクレインには締め付けられるように苦しく、音が恋しくなった。
 レコードプレーヤーの傍へと歩み寄る。随分と古い品だが、今でも正常に動く。
 現在ではレコード等は貴重品に等しく数はあまりない。見付けると値も考えずに手に入れている。
 古い物が良いと言う懐古主義ではない。ただ、レコードの音色の方がデジタルな音源よりも人の音に近いように思えるのだ。
 音色と共に微かに聞こえるノイズも、古く傷のあるものが起こす音の飛びも。不要なものを一切取り払った音よりも、耳に馴染む。
 クレインは棚に立て並べられたレコードのケースを指で繰る。特別聞きたい曲があるではないが、兎に角耳を慰める音が欲しかった。
 中の一枚を指にかけて引こうとした……そこへ。
 足下を何かが駆け抜けた。
 驚いた拍子に、指を掛けていた一枚が床へと落ちた。
 咄嗟に拾い、中をあらためればレコードは無事だった。
「あなたでしたか……驚かさないで下さい」
 微苦笑を向けた相手は、猫だ。猫は柔らかな咎めに鳴き声を返して、クレイン愛用の椅子に飛び乗ると、大きく伸びをしてから眠りの体勢に入る。これ以上は聞く気がない、と暗に言っているのか。前脚で顔を覆うように丸くなった。
「仕様のない……」
 言う声は笑み含み。クレインは彼が何をしても憎めない。言葉はなくとも雄弁に語るしなやかな身体と、その瞳。猫らしく気侭で読めない行動も、出会った当時は時に戸惑いもしたが、今では日常の風景の一つ。なくてはならぬものでもあった。
 夢を恐れて眠れぬ夜も、明るい日射しを厭うて微睡む昼も。
 何を言うでなくするでなく、クレインに望むでなく。
 ただ、傍らに在る。
 それに、時折酷く泣きたい程の愛おしさすら覚える。
 今は身を丸めて眠っているだけだが、それすら見ているだけで何やら和む景だ。彼の何気ない行動が、特に今のクレインの心には救いですらある。
 クレインは微苦笑を微笑みに変えて、手にしたレコードを見た。
 3つのバイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ――パッヘルベルのカノン。
 特別何が聞きたかったわけではなかったから、クレインは手にしたそれをそのままプレーヤーにかけた。
 僅かなノイズの音に続いて、曲が流れ出す。
 クレインは、プレーヤーから離れて、猫が眠る椅子の傍に腰を降ろした。椅子の端に腕を乗せて、それに凭れて目を閉じる。
 繰り返されるメロディに、自分の日々が重なる。
 訪れる悲しみが去るまで、それに身を浸す、その繰り返しが。
「……そう、言えば」
 ふと日本にあると聞いた曲を思い出した。
 それはパッヘルベルのカノンを題材にした合唱曲だと言う。
 教えてくれた人物は、この曲を歌って聞かせてくれた。

 ひとはただかぜのなかを

 歌詞がクレインの中に蘇る。一度聞いただけのそれをクレインは憶えている。

 まよいながらあるきつづける

 流れるカノンと合唱曲とでは勿論違う曲ではあるのだが、クレインの中に聞こえる歌は、部屋に満ちる曲に重なる。
 柔らかなバイオリンのハーモニーと絡み。声が。

 そのむねに はるかそらで
 よびかける とおいひのうた

 いつか、自分の中に沈んでいる嘆きは昇華するのだろうか。
 思い出しても柔らかに微笑む日が、来るだろうか。
 ――遠い日の、歌を。