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■時の抱擁■
この手から砕け落ちて行ったものは、二度とは戻って来はしない。
大切にしていたのに。
大切に思っていたのに。
大切に抱きしめていたのに。
それは全て、欠片すら残らない程に壊れてしまった。
そして。
思い出したくはないこと程、そしてそんな記憶程、鮮明な色と香りを手土産にして蘇る。
いっそ自分もなくなってしまえば良いのに──。
そう考えたことは、もう既に数えることが出来ないくらいになってしまった。
暗闇の中に凛と輝くクリスタルの様な銀の髪に、永久に眠らぬ炎の様な赤く赫い瞳を持つクレイン・ガーランドは、自身にある内なる過去へと旅している。
彼には最愛の妻と、千年永劫の時ですら奏でることの出来る指先があった。
けれど今は、そのどちらも持ち合わせがない。
二度とは掴むことの出来なくなったその二つは、こんな風にぽっかりと開いた空白の時間にこそ強く感じらられる
そう。
想い出は過去の出来事として薄れていくのではなく、時を経れば経る程に、より一層の鮮やかさで咲くのだ。
まるで、馬鹿になってしまったマシンが、延々と同じ箇所を読み込み続ける様に、クレインの思考が繰り返される。
もう増えることのない共有された想い出と、指先からは生まれることのない音色。
彼はもう独りだし、指先は既に音を忘れているかもしれないのだ。
そうだ、これはもう、二度と手に入らないものなのだと、彼は心で独りごちた。
洗練された家具が絶妙な位置にセッティングをされていても、なお、がらんどうであると感じる部屋。その窓から少し離れた長椅子上で、クレインはぼんやりと寝そべる様にして瞳を閉じている。窓から射す柔らかな光が、閉じた瞼の上でワルツを踊っていた。
しかしその光すら、クレインの思考のループを断ち切ることは出来ない。こうして一人でぼうっとしつつ、日当たりの良い部屋で微睡んでいると、そのまま深い眠りに落ちていきそうになってしまう。
だが、眠ってしまえば夢を見る。
夢は嫌いだった。
何故なら、想い出である筈の過去が、現在となってしまうから。
けれどその現在は、夢の中での現実であって、目覚めてしまえば、泡の様に消え去ってしまう、やはり過去へと戻るのだ。何度もこの手から零れて行くと言う絶望感など、絶対に味わいたくない。
そんなことを考えていた時だ。
甘ったれた声が、耳に響く。人の声帯でも似た声は出せるだろうが、この猫と言う小さな生き物よりも素晴らしく鳴くことは出来ないだろう。
クレインの足下には、少し前から一緒に住むことになっている黒猫が頭をすり寄せて来ていた。
『ああ、貴方がいたのですよね』
何処か安堵を覚えつつ、クレインは足下を見ると囁いた。
「どうしたのです?」
クレインが長椅子から降りてすっとしゃがみ、抱き上げようとするがするりと逃げる。
悪戯な子猫の様にとは、形容で良くある言葉だが、正にその通りなのかも知れない。
尻尾をぱたぱたとさせ、振り向いて媚びる様に小さく鳴く。
どうしたのだろうと小首を傾げつつ、まるで『来て来て』と言っている様なその仕草に、クレインはそのまま黒猫の方へと歩み寄った。
すると。
手を伸ばそうとした時、またもやするりと逃げていく。そして更に、先程と同じく、少し離れた位置で鳴いている。
二〜三度それを繰り返し、流石に不審に思ったクレインだ。
「……どうしたのでしょうね」
その言葉と共に、黒猫の先を見ていると…。
「もしかして、外に出ようと言ってるのですか?」
答える様に、更に甘えて鳴いている。
既に窓付近まで来ている黒猫は、外とクレインの両方を見ていた。
「外、ですか……」
ちろりと窓を見やる。
寒々しい景色だが、クレインはその方が都合が良い。今は暑い盛りではなく、雪降る季節でもある為、照り返しさえなれば日中であっても日差しは柔らかだ。
風邪を引かない様に気を付けていれば、出ていっても大丈夫だろう。無論、自分のことだけでなく、この黒猫にも気を配る必要がある。
「……。何だか……」
そう考えている自分に驚いていた。
黒猫を見ると、またもや一声可愛く鳴く。思わずクレインの口元がほころんだ。
「外がそんなに好きなんですかねぇ」
まあ、日頃は彼に付き合って、日がな一日家の中で寝ているのだ。偶には出てみたいと思うのも仕方ないかもしれない。この仔は元々、外で生活していたのだし。──そう思った。
猫と共に暮らしているのが長い人間なら、ここで互いの駆け引きタイムが始まるところだ。
了解したフリをして、ドアの方へと向かいつつもまた部屋の中へと戻ってみたり、外へ出るのかと見せかけては、違うことをして焦らしてみたり。それを数度繰り返すと、猫は人の後ろを駆け足で着いて行っては、鳴いて気を引く。その回数を更に増やして行くと、お終いには、実力行使の猫パンチと猫キックをお見舞いされることだろう。
それを上手く交わし、または怪我をしない程度に受けつつ、駆け引きを楽しむ様になれれば──もっとも、猫にしてみれば良い迷惑であろうが──、一人前の同居人だと言える。
だがしかし、まだ同居人一年生未満のクレインには、流石にそれは思いつかなかった様だ。そもそも以前は、音楽一辺倒な生活だったから、それは仕方のない話なのだろう。
「では、ちょっと待っていて下さいね」
そうクレインが話しかけると、漸く黒猫に手で触れることが出来た。
その毛触りは、黒い手袋を通してもなお、柔らかくふわふわと、とても気持ちの良いものだった。
何処へ行くアテもなく、ただ抱いて外へ出たは良いが、日頃からそれほど出歩かないクレインは、少々途方に暮れて来た。
猫を抱いている腕も、可成り疲れてきている。だが降ろすことは考えられない。
相手は猫だ。
人の通る道を歩くとは限らない。もしも見失ってしまったら、いや……。
もしもいなくなってしまったら──。
そう考えると、クレインは猫を自分から放すことが出来なかったのだ。
かと言って、ハーネスやリードなど付けようとも思わない。
元が野良であったこの仔に、そんなものが受け入れられようとは思わなかった。
クレインの腕の中で、黒猫はあちらを見ては身を乗り出し、こちらを見てはクレインの肩に爪を立てる。久々である外の世界に、刺激を受けている様だ。
くんくんと空気の匂いを嗅いで、次ぎに彼の匂いを嗅ぎ、そして安心している。自分の匂いとクレインの匂いしか着いていない、そう思っている様だった。
そんな様を見ていると、クレインは疲れて来てはいても、もう少し外で頑張ってみようかと言う気になって来る。
とまれ、彼には休憩するところが必要だ。座っていれば、猫を膝に乗せる事も出来るだろう。本当は地面を思い切り駆けさせてやりたい、実は木にも登れると言うらしいから、それだってさせてやりたい。
「でも、済みませんね」
クレインの声に、猫が小首を傾げてニャーと鳴く。どうしたのかと言っている様だ。
「私には、貴方がいなくなることは、耐えられないのです。だからここでこうしていて下さいね」
人は貪欲であると、そう思う。自分の身勝手な気持ちのまま、小さな同居人の自由を奪っているのだ。
そう思うと申し訳ない気がするが、それでもクレインにとって、この猫は、もう既に離れがたい存在となっていた。何時か、そう、それほど遠くはない未来に、別れなければならないと解っていてもだ。
「そう言えば、公園がありましたね」
ここは家から十分くらいの距離だ。その間を行ったり来たりしていた彼は、漸く公園のことを思い出す。
公園なら、きっとベンチもある筈だ。
腕に微かな力を込め、猫毛の感触を頬で味わいながら、クレインはゆっくりと歩き出す。程なく、公園の入り口が見えた。中へ入るとベンチを探し、目当てを見つけて向かって行く。
幸い、そのベンチには先客がいなかった。
流石にこの気温では、外に出たいと思う者はあまりいないのだろう。周囲にいたのは、少し先にある常緑樹の木陰で、ティータイムと洒落込んでいる家族だけだ。この寒いのに、子供達は元気に騒いでいる。その家族を見て、少しだけクレインの胸は痛んだものの、すぐに足に掛かる重みと暖かさが、沈み込んで行きそうになる彼の意識を現実へと止めた。丸くなっていた猫を撫でつつ、周囲にじっくり視線をやる。冬枯れている木もあれば、ティータイムの時間を楽しむ家族がいる木の様に、葉を茂らせているそれもあった。
長閑だと、クレインは思った。
部屋から見るのとは違った風景が、ここにある。
瞼を閉じ、膝と手で猫を感じ、その久々の心安らかなる時間に彼は安堵していた。
背を撫でる手に、リズムが宿る。
事故の為、萎えてしまった右手と、左半身のサイバー化に伴い同じく機械と化してしてしまった左手は、けれど瞳を閉じたクレインの心の世界では、形は変わらずとも自由自在に動いていた。現実には、撫でる力具合が微妙に変わるだけだが、今の彼には関係ない。ゆっくりと唇が動いて行く。
知らずの内、ハミングが唇を吐き、クレイン内部のメロディが、現実の世界へと現れる。それは今まで奏でてきた、どんな音色でもない。
何処か軽快で、けれどしっとりと艶やかな音色だ。
彼から溢れ出ているのは、過去を振り返る音色ではなく、今この時の音色だった。
未来を築くものでもないのは、未だ一歩前に踏み出すことに躊躇いがあるからなのかもしれない。けれどそれもまた良いのだろう。人の心と言うものは、スイッチ一つで切り替わることが出来る訳ではないからだ。
『審判の日』から約四十年が過ぎ、変わり果ててしまった世界の中で、大地を駆け抜けて行く風の足音、そこに住まう人達の強かで撓やかな命の息吹、そして自分の手の中にある、小さな鼓動が感じられる。
それらがクレインの中で、見事な調和を以て生み出されて行ったのだ。
どれほどそうしていたのかは解らない。
ふと気が付くと、先程まで木の下で楽しんでいた家族は、帰り支度を終えていた。そして父親らしき人物は、木から少し離れた場所に陣取っているのが確認出来る。その父親が、カメラを構えていた。
「家族写真、ですか……」
家にある、彼の家族達と共に撮った写真が、クレインの脳裏に浮かぶ。もうあれも増えることはないのだと、溜息を吐きそうになった時だ。膝の上で猫が鳴く。今まで伏せていたその猫が、もぞもぞと動きだした。器用に膝でお座りをし、小首を傾げて更に鳴く。
瞬間、大きくなった瞳孔が、すぐさま細く縦長のそれへと代わり、クレインをじっと見つめていた。その様は、まるで彼の心の動きを読み取ったかの様に、何処か不満げに、見える。
『私達、家族じゃないの?』
そう言っている様に見えるのだ。
「そう……ですよね」
クレインの面に、微笑みが浮かぶ。
『今は貴方が、たった一人の私の家族です』
瞳で語ると、猫は満足げに瞳を細めた。
もう増えないと思っていた家族写真は、この猫と増えて行くのだろう。
「今度、一緒に写真を撮りましょうか」
沢山沢山、想い出に残そう。
悲しいそれではなく、楽しい想い出。
多分きっと、それはまた何時かの想い出の様に、この身を切り裂く凍えた刃になってしまうのかもしれない。
けれどそれを恐れては、何も変わらないのだと言うことくらいは理解できる。
心暖まる過去を振り返り『あの時に比べ、今は何と不幸であることか…』と嘆くより、『あの時、幸せを知ったからこそ、今の自分は生きていけるのだ』と考える方が、恐らくは良いのだろう。
一度失うと言う痛みを知った者は、その恐怖を耐え難いものとして記憶に止めている。だからこそ、全てが暗闇に塗りつぶされたかの様な思いに襲われるのだ。
振り切ろうとして、けれど何度もその痛みと恐怖に捕まえられる。そうして自分を捕まえているのは、誰でもなく自分自身であるのだと知りつつ、一生逃げることの出来ない自分の影は、まるで永劫の闇で成された、悪魔との契約の様でもあった。
それ故、失った幸せを肯定することは難しい。
それでも──。
「ずっと変わらないことなど、ありませんよね……」
一度に変わることなど出来なくとも、少しずつ少しずつ変わって行けば良いのだ。
楽しかったことを、嬉しかったことを、そして何よりそれを与えてくれた人を忘れないでいれば、きっとそれが迷路の中の標になるだろう。
今はもう通り過ぎてしまった過去と、これから作り出していく未来は、全て自分の手の中にある。
今すぐには無理であっても、何時の日か、そう強く思える様になれば良い。
瞳を細め、黒猫が鳴く。
「まだまだ時間もかかりそうですけれど、貴方がここにいてくれるのなら、そんな時間も楽しむことが出来るでしょう」
そう呟いたクレインの姿は、すぐ側まで訪れて来た夕闇の中に融け、落ちることなき星の様に見えたのだった。
Ende
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