PSYCOMASTERS TOP
新しいページを見るクリエーター別で見る商品一覧を見る前のページへ


<東京怪談ノベル(シングル)>


日常生活の過ごし方。





 彼女は空腹だった。
 何も食べずに、夜が二回通り過ぎて行った。しかし、彼女は獲物を獲る事に恐怖のような感情を覚えていて、動き回るそれらから必至で目を離していた。
 廃墟、とただその一言で済むような街並み。廃墟との違いを上げれば、そこで生活している存在がいる、ということだけだ。彼女はその廃墟の直ぐ隣にある林の中に潜伏していた。
 泥で汚れても尚、艶やかな銀の髪を鬱陶しげにかき上げる。同じ色の瞳が、ギラギラと輝いていた。少しだけ尖った耳は、辺りの気配を敏感に探り続けている。
 何もかもどうでもいいから、空腹を癒したいと思ったとき。その偶然は彼女に訪れた。
「まったく。酷い女だな」
 足音も気配もさせず、何かが後ろに居たのだ。彼女は条件反射で振り向く。重心を低く保っていつでも飛びかかれるように、目を凝らした。
「この弁当はどうしろっていうんだ」
 淡々とした声である。その方向から、何かおいしそうな匂いがした。赤い記憶が彼女を苛んだが、それだけだ。空腹には敵わなかった。
 ふらり、と覚束ない足取りで匂いに引き付けられて行く。
「お腹が、すいた」
 ぽそ、と呟きながら彼女は足を勧めた。もう、姿を変えて走る気力も体力もない。やがて、林が開けて白い光が彼女の目を焼いた。次いで、独特の潮の匂いを感じ、青い空が目に入った。開けた丘からは廃墟が一望できる。そこに、何かが居た。彼女はそれが、人間だと知っていた。
「誰だ?」
 低い誰何の声を上げた人間は、彼女を目にするなり絶句する。目を見開いたまま瞬きもしない。そんな相手を構うことなく、彼女は空腹を刺激する香りが、その人間の手元からしている事を知った。
 黒い箱が幾つも重ねてあり、何かが詰まっている。本能的に、食べ物だと判断した。
「お、おい」
 ふらふらと近寄っていく彼女に、人間はあからさまに怯んだ。そのまま逃げてくれれば良いとも思ったが、そうはならなかった。が、彼女は別段落胆もせずに、精一杯の速度で近づいていく。空腹なのだ。
「太陽が真上にあるってのに……」
 人間は訳の解らない事を言っている。やがて手が届く場所まで行くと、彼女はその場に崩れ落ちる。後一歩だというのに、とうとう体が言う事を利かなくなった。
「おぉ!? だ、大丈夫か?」
 倒れた彼女を、人間は上から見下ろしてくる。手を伸ばせば届くかもしれない、と思って必至で手を伸ばしたが、それだけしか出来なかった。
「お腹、すいた……」
 声が、漏れる。泣き声のように喉に痛い声。
「はぁ?」
 後になって思えば、喜劇的なほどに間の抜けた声で、その人間は彼女をまじまじと見やったのだった。






「なぁ、あんた、名前は?」
 流し込む、というに相応しい勢いで彼女はその「弁当」と呼ばれる箱の中身を平らげた。非常に美味だった為、名残惜しくその蓋に舌を這わせていた所、その人間に尋ねられる。
「白神空」
 それが自分の名前だと認識していた為、彼女―――空はそう伝える。人間は頷いて何やら名乗ったが、食事で頭が一杯だった空には届かなかった。
 人間から無理矢理押し付けられた「服」というものが肌に刺さる為、彼女はそれを何度となくいじる。その様子を見ながら、人間は呆れたように息を吐いた。
「空は何でこんな場所で、その、服も着ないで、腹減らしてたんだよ?」
 「服」は一般的に着るものらしい、と彼女は認識する。他にも何か得るべき知識がないだろうか、と空はまじまじと人間を見た。そして、その目元が何か違う事に気がつく。彼女が過去眺めてきた人間たちとは少し違う、赤い光を放っていた。
「って、おい、なんだ?」
 手を伸ばしてみる。爪は伸ばさないようにした。人間は驚いたように腰を引いたが、空は気にしない。触れたそれは、何かが違っていた。あの時引き裂いた肉とは、何かが微妙に違うのだ。
 沈黙した空に何を思ったのか、人間はからりと笑って見せた。それが綺麗だと、彼女は唐突に思った。
「解るのか? すげぇな。オレはオールサイバーなんだ」
 医療用だけどな。人間、否、サイバーはそう笑う。
「もう何年もこのガキの姿をしてんだけどな。あんたと年はそう変わらないと思うぜ?」
 少年の姿をした医療用オールサイバー。それが、空を一番初めに拾った相手だった。
 空が更なる空腹を告げると、彼は自宅へと招いた。彼女に振られて待ちぼうけを食ってたところだ、と説明してくれたが詳しいニュアンスは解らなかった。
「その辺に座ってろよ。直ぐに作ってやるから」
 廃墟の一室に招かれ、空は見たこともないその景色にぼんやりとする。ごちゃごちゃと物が詰まれたその部屋は、足の踏み場もない。崩せば歩く場所がなくなる事は解ったので、空はそろそろと足を進めた。その辺、といわれて素直に指を指された場所に座る。素肌で座りこむと、何かが刺さった。直ぐにそれらを退けて、居心地をよくする。
 空腹はましになっていたが、それでも鼻を利かせて匂いを探ってしまった。彼は言ったとおり、すぐさま何かを用意してくれるらしい。
 何かが焼ける匂いがして、小気味良く何かを叩く音がした。頭に手をやってみる。そこに生えていた管はなくなっている。視界はクリアで、青く滲んでいる事はなかった。何より、窓からさんさんと降り注ぐ真昼の太陽光が気持ちいい。
 ここは、確実にあそことは違う場所だ。空はじんわりと実感する。
「とりあえず、これ食っとけ」
 小部屋から顔を出した彼は、手の平大の何かを差し出した。美味いぜ、と促されて食いつく。柔らかな歯ごたえだったが、口に広がった甘さが確かに感じられる。がっついていると、彼は笑いながらまた引っ込んだ。
 それを食べ終わって次を待つ。彼は何度も小部屋と空の所を往復し、何かと食べ物を与えてくれた。
 全身を満腹感が満たし、彼女は微笑む。
「もう良いのか?」
 頷くと、彼は手に持っていた肉の塊を自分で平らげた。
「うちの冷蔵庫はすっからかんだぜ」
 楽しそうに笑いながら、彼はその辺りの箱を探る。後姿を眺めていると、やがて何やら取り出した。
「これ、着てろよ」
 服だろうと予想はついたが、彼女は服など着た事もなかった。どうしようか、と思案していると、彼は情けなく眉根を下げる。
「服の着方もわからねぇのかよ……」
 額に手を当てて大げさに嘆息すると、彼は天井を仰いで呻く。そして、やおら覚悟を決めたように「よし!」と拳を握った。
「教えてやるから、立ってくれ」
 こくんと頷いた空は立ち上る。
「これがズボンだ。二つ穴が開いてるだろ? そこに足を通す」
 やってみろ、と渡されて、彼女は素直に受け取って足を通した。その肌触りは案外悪くなく、するりと穿く事が出来る。
「わり、前と後ろが逆だ」
「前? 後ろ?」
 思わず尋ねた空に、彼は一度脱ぐように言った。不自然に視線が逸らされているのが気になる。横顔をまじまじと見ると、やはり綺麗だ。真正面から見れば、もっと綺麗に違いない、と空は思う。
「こっちが前。で、こっちが後ろ。解るか?」
 前と後ろはわかりやすかった。彼女は頷いて足を通してみる。先ほどより断然居心地がいい。外気に曝されていた肌が、暖かくなった。
「これがシャツ。こっちが前で、こっちが後ろ」
 今度は先に前後を説明してくれる。
「で、こうやって」
 彼は空の眼の前で実演して見せた。
「頭から被って、手を通す、と」
 着てみて、直ぐに脱いで空に渡す。空は彼がした通り、前後を確認して被ってみた。穴が開いている所に手を通す。
「よし。で、さっき渡したジャケットを羽織っとけよ」
「じゃけっと? はおる?」
 空が立った拍子に落とした服を拾い上げ、彼は「これがジャケット」と指差して言う。
「んで、さっきみたいに手をとおしてみ?」
 後ろから服を持ってくれているので、空は開いている穴に両手を通す。断然温かくなった。先ほどは肌がちくちくしたが、この「シャツ」を着ていればそうではない。服とは重ねて着るものらしい、と空は学習した。
「いいな。あー、でも、ちょっと袖が短いか」
 ようやく空を真っ直ぐに見た彼は、オレのだからな、とからりと笑う。その笑顔が、妙に空の心を騒がせた。
「まぁいいや。それ、やるよ」
 真っ直ぐ立つと、空の方が背が高く、彼の頭が見えるばかり。空の銀の髪とは違って、深い緑の髪だった。手を伸ばして触ってみる。
「うわっ! 今度はなんだよ?」
 一瞬驚いた彼は、直ぐに落ち着いて空を見る。声を発さない彼女の動きを、一つ一つ見て理解しようとしてくれるようだった。
 彼の髪はさわり心地が良く、指で梳くとさらさらと流れる。空は自分の髪を触ってみて、粘ついているのに眉をしかめた。どうして違うのだろうか。
 彼が手を伸ばして、空の髪に触れた。そして、あぁ、と納得の声を上げる。
「大分汚れてるな。風呂入って来いよ―――って言っても解らんよな……」
 空はこくんと頷く。彼は途方にくれたように嘆息した。
「どうしろってんだよ……」
 心底困り果てた様子の彼に、空は放り出されるかもしれない、と思った。咄嗟に彼の服の裾を掴む。彼は空腹だった彼女に食事をくれた。温かい服をくれた。色々と教えてくれる。愛想を尽かされたかもしれない、と彼女は必至の思いで裾を掴んだ。
「いや、そんな目で見るなって……空に合ってから試練の連続だぜ」
 彼はうそぶいて、また「よし!」と気合を入れる。
「風呂を説明してやるよ。着いてきな」
 見捨てられない、と理解して彼女は微笑んだ。いっそ妖艶な笑みであったが本人に自覚はない。彼は「凶悪だぜ」と呟いて目を逸らす。空はそんな彼を、不思議そうに見ていた。
 風呂の作法を教わる間中、彼は決して空を見ようとはしなかった。風呂から上がって、服を着る。今度は独りでもできた。
 すると、急に体の動きが鈍くなってきた。瞼が重く、視界が霞む。目を擦ると、ようやく空をみた彼が「そんな時間か」と呟いた。
 空が暗くなっている。
「今日は寝ちまおう。で、明日は街を案内してやるよ」
 明日もここにいていい、といわれて空は再び微笑む。夜は怖かった。森の中で空腹を抱えながら、一晩中闇を見据えているのは辛かった。だが、ここなら目を閉じても大丈夫だと、彼女は思っている。
 そして、そのとおりだった。








 翌日は、空腹で目覚めた。けれど、今までのように抉られるような空腹ではなく、優しいもの。
「はよ」
 軽く言ってよこされた言葉の意味が解らない。彼は直ぐにその事に気がついてくれた。
「朝起きたら、おはよう、って挨拶するんだ」
 空は頷く。
「おはよう」
「あぁ、おはよう」
 寝ぼけたまま空は体を起こす。肩から毛布が落ちて寒くなったので、昨日寝る前に脱いだジャケットを羽織った。彼は既に身形を整えており、空を手招きで呼んだ。
「昨日のでうちの食い物は底を尽いちまったから、外で食べるぞ」
 外、というのが良く解らなかったが、ここからでるのだろうと辺りをつけて頷く。彼は扉を開けて空を外へと導いた。
 ノブに、何かくすんだ銀色のものを突き刺す。
「あぁ、これは鍵。オレらがいない間に誰か別の人が入ると困るからな」
 よほど空が興味深く見ていたようで、彼は苦笑しながら鍵を渡してくれた。
「まわしてみるか?」
 頷いて、彼が先ほどしたように穴に差し込んでみる。入らなかった。
「逆だ」
 言われて、服を引っ繰り返したように鍵も引っ繰り返して見る。今度は簡単に差し込めた。彼がしたように、回してみて―――
 ベキ、という破壊音が響く。風が粘り気のなくなった彼女の髪を梳いていった。何だか凄く気まずい気がしつつも、空はねじ切れた鍵の半分を掲げてみた。
「あぁ……」
 彼は呻いてその場にしゃがみこむ。何か良く解らないながらも、空もそれに従った。
「どんな腕力してんだよ」
 悲しい声で彼は呟く。
「大丈夫?」
 昨日から彼が何度となく呟いた言葉を真似してみた。それは心配の表現で在る事を彼女は学んでいる。
「いや、いい。最初に説明しなかったオレが悪かった」
 すっく、と彼は果敢に立ち上がった。
「よし、こうなったら勝負だ! オレの常識が勝つか! そっちの力技が勝つか!」
 やはり良く解らないまま、彼女も立ち上がる。
「っしゃ、そうなればまず腹ごしらえだ!」
 行くぞ! と彼は空の手を引いて走り出した。少し体に意識をすると、直ぐに作り変えて走り出す事もできそうだった。もっと早く走れる。しかし、手を引いてくれる彼の手が暖かかったので、空はあえて人の形のまま走った。
「これはフォーク。こっちがスプーン。んで、これが箸」
「フォーク。スプーン。箸」
 指を指して復唱する。大体の事は一回で頭に入った。彼はそれを「空はすっげぇな」と嬉しそうに笑って誉めてくれる。その事が嬉しくて、彼女はますます色々な事を尋ねた。
 彼は面倒くさがらずに一つずつ答えてくれる。
「あれは?」
「服を売ってる店」
「あれは?」
「食い物の元を売ってる店」
「あの人は?」
「あの人は――あー」
「は?」
「娼婦だよ」
「娼婦?」
「金を貰って男の喜ぶ事をする女の事だ。こっちの道は駄目だな。こっち行こうぜ」
「あれは?」
「武器を売ってる。銃とかナイフとかな」
「あれは?」
「ジャンクショップだ。怪しげなもんばっか売ってる」
「怪しいとは聞き捨てならねぇな」
 別の声が返ってきて、彼は「聞こえちまった」と罰の悪そうな顔で呟いた。
「おいおい。お前さん、彼女に振られたんじゃなかったのか?」
「何で知ってるんだよ」
 嫌そうに、彼は言う。顰めた眉が彼の表情を険しくした。空は、彼は笑っているほうが良いと思う。
「街中の評判だぜ。で? 次はその―――」
 野卑な人間が空を見た。そして、口を開けたまま呆然とする。彼は空を背に庇ったが、あまり意味はなかった。
「こりゃぁ、お前にもったいねぇくらいの別嬪じゃねぇか」
「うるせぇな。行くぞ」
 空の手を無理に引いて彼が歩き出す。が、後ろから制止の声が掛かると同時に、肩を掴まれる。抵抗する間もなく、空はその人間の腕に捕まえられた。
 いつの間にか出来た人だかりが、やんやと騒ぎ立てる。彼がますます表情を険しくした。何か、良くない事が起きているらしい。
「そいつを放せ」
 ゆらり、と立ち上がった彼に、男は面白がって殴りかかった。空を横抱きにしたまま、彼を人垣まで殴り飛ばす。殴られた彼を、野次馬たちが男の所まで押し戻した。また殴られる。
「医療用サイバーなんて、脆いもんだなぁ」
 なぁ? と男は汚い顔で覗き込んでくる。たまらなく不快になって、空は男を突き飛ばした。あっさりと束縛が解かれて、彼の元に走りよる。
「へへ、なっさけねぇ」
 おどけて笑った彼の顔が、赤くはれ上がっていた。痛そうである。
「大丈夫?」
 尋ねたのはそんな事。彼は笑って頷いてくれた。
「ったりまえだろ」
 空に突き飛ばされた男が立ち上がる。今度は空が彼を背中に庇って、立ちはだかった。彼は優しかった。空腹を満たしてくれて、色々と教えてくれる。何も知らなかった空に、生きる為の基礎知識を与えてくれたと解った。だからこそ、彼女は立ち向かった。
 ざわ、と体が変わるのが解る。意識すれば、爪が引き裂く獲物を求めて鋭さを増した。全身を不思議な違和感が駆け抜ける。
「な、なんだ、こいつ……っ!」
 誰かが叫んだ。
 それを皮切りに、野次馬たちが作っていた人垣が崩壊する。最後まで立ちはだかっていたあの男も、「化け物っ!」と捨て台詞を吐いてジャンクショップに引きこもった。すぐさまシャッターが下ろされる。
 空が振り返ると、彼は驚いた顔をして。それから。
「ありがとな」
 そういって、微笑んでくれた。その笑顔はとても綺麗だった。この町であった誰よりも。立ち上がった彼が、ふわり、と背の高い空に腕を回す。
 背中をぽんぽんと叩かれて、高揚していた気分が一度に収まった。
「案内はこの辺にしとく。戻ろうぜ」
 彼はそう言ってから、顔をしかめる。
「痛い?」
「いや、鍵が壊れたままだったな、と思ってな」
 彼が声を上げて笑ったので、空も笑った。二人は人通りの少ない道を通ってもとの建物に着く。彼は器用に窓から侵入して、中から扉を開けた。
 たっぷりと買い込んだ食材で料理をしてもらい、彼女は満腹になった。しかし、彼は先ほどから落ち込んだ顔をしている。
「大丈夫?」
「あぁ。気にすんな」
 言われても、気になる。彼女はどうすればいいかを考えた。彼は食事と服を与えてくれたのだ。今日は服も買ってもらった。下着はぴったりとしていて着心地がいいし、全体的にぴったりとした服は動きやすい。
 その優しさに報いる方法を色々考え、やがて、空は結論した。
「娼婦は、男を喜ばせる人?」
「何をいきなり」
「答えて」
 強く言うと、彼は渋々頷いた。
「あたしも、できる?」
 今度こそ、彼は完全に絶句する。唖然とした彼の顔もやっぱり綺麗で、彼女は四つんばいになって彼の傍まで近寄る。また、彼の眼が赤く瞬いた気がした。そこに手を伸ばす。
「あぁ。最近メンテナンスしてないからな」
 彼は自嘲気味に笑った。サイバーはメンテナンスをしないと生きていけない。そう聞いたばかりだったので、空は驚く。
「どうして?」
「もういいんだ。いいんだよ」
 何が、と聞く事はできなかった。多分聞いても解らないだろうから。ただ、彼の頬に手を伸ばして、その顔を覗き込む。
「大丈夫?」
 空の手を、彼が握り返した。ふわり、と不思議な浮遊感で後ろへ倒される。顔の横に彼の手がつかれて、上に被さってるのだと理解した。
「大丈夫じゃないつったら?」
 時々明滅する赤い光。それは、彼女に記憶を思い出させる。だから、目を閉じた。
「あたしに、できる事がある?」
「慰めてくれよ」
 耳元で囁かれて、唇が触れる。彼女は甘い声を上げていた。






 暗いうちに目覚めた。しかし、空腹はなかった。
「おはよう」
 何か満たされた気分で、彼女は彼を探す。狭い部屋の中に彼の熱を感じる事はできなかった。
 彼が呼んでくれたように名前を呼ぼうとして、それすら知らなかった事に気がつく。
 何か言いかけた口を閉ざして、立ち上がる。最後眠る前に、彼が言った言葉を思い出していた。
『オレは居なくなるから。ここは好きに使えばいい』
 その瞬間は理解できなかったのに、こうして誰も居ない室内を見渡せば、じんわりと理解が彼女の思考を覆った。
 何でも教えてくれて、与えてくれた優しい彼は、もう居ないのだ。
 髪が汗でべたついていたので、彼女は下半身を覆う気だるさもあって、ゆっくりと風呂に向かった。全身を洗い流し、服を纏う。
 どっさりと買い込んでくれていた食材は、どうしていいか解らなかったがとりあえず、彼がしていたように包丁で細かく切って、フライパンで炒めてみる。塩だけを振って、作って見たがあまり美味しくなかった。一応最後まで食べて、彼女はこの家にある金を集める。彼から、何をするにも金が必要だと聞いていた。
 窓から垣間見えた月が、牙のように細く光を落としている。それを見ながら、空は昨夜の彼が触れてきた事を思い出す。与えられる刺激は彼女の思考を奪い、繋がった瞬間に癒されぬはずの空腹が満たされた。
 本能的に、彼女はその行為が空腹を満たすこと。つまり、彼女の活動する為のエネルギーを補給できる事を知った。
 この世界でどうやって生きていくかを、空は見つけた気分になる。もう、林の中で震えている必要はない。
 そう思ってから、空は不意に思った。また、ああいう事をするなら、彼のように綺麗な相手がいい、と。







END