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<PCパーティノベル・セフィロトの塔>


第一階層【居住区】誰もいない街
『失くしたはずのまほろば』

ライター:MA

 ここいら居住区は、タクトニム連中も少なくて、安全な漁り場だといえる。まあ、元が民家だからたいした物は無いけどな。
 どれ、この辺で適当に漁って帰ろうぜ。
 どうせ、誰も住んじゃ居ない。遠慮する事はないぞ。
 しかし‥‥ここに住んでた連中は、何処にいっちまったのかねぇ。
 そうそう、家の中に入る時は気を付けろよ。
 中がタクトニムの巣だったら、本当に洒落にならないからな。

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――スタンっ!

 小気味良い矢の音が、シンとした空気を切り裂いた。
 音が空気を揺らしきり、また静寂を取り戻すまでの二秒間、兵藤レオナ(ひょうどう・れおな)は軽く緊張した面持ちで周囲を警戒し続ける。
「――どうだ白玲、何か面白そうな物は見つかったか?」
 レオナとは対照的に、どこか楽しげに好奇心に満ちた目で小柄な少女を見下ろすのは伊達剣人(だて・けんと)だ。
 けれど、見下ろされた少女――呂白玲(りょ・はくれい)は剣人の視線に応えない。弓を手にじっと遠くの一点を見据え、大きな瞳をそっと細めただけだ。
「おい白玲、何か見えたかって……」
「うるさい」
 焦れたような剣人の声をピシャリと言い捨てる間も、彼女の視線は微動だにしない。
「それにしても」
 不意に、レオナたちの少し後ろに控えていた美女、ジェミリアス・ボナパルト(じぇみりあす・ぼなぱると)が口を開きながら銀の髪をかきあげた。
「あれほど遠くに射られた矢の音が聞こえるなんて、分かっていても少し驚いてしまうわね」
「うん」
 ジェミリアスにの呟きに応えて、レオナが頷く。
 彼女の耳に入るのは、風の音と仲間の声、あとは首に巻かれた大きな鈴が、時折カランと鳴る音くらいだ。
「……ほんとに、静かすぎて怖いくらいだよ」
 彼女が周囲に向ける警戒の瞳にはどことなく怯えの色が含まれていた。ここに来るまでの道中、剣人からずっと聞かされ続けた怪談を思い出して震えてしまう。
「誰もいない街、か……」

 ――セフィロスの塔第一階層、居住区。
 ここに残されていたのは、ごく当たり前の日常だった。
 舗装されたアスファルトや綺麗に均された土の道路。その脇を飾る家々は、レンガや石のようなタイルでそれぞれの外壁を彩っている。
 窓の向こう、カーテン越しにちらりと見える屋内はどれも平和そのもので、やわらかそうなソファや木製のテーブルも見つけられる。
 とはいえ、完全に荒れてない平和な光景かといえばそうとも言えず、よくよく観察すると大きく裕福そうな家に限って荒らされているのが分かった。
「目的が分かりやすいな、あれは」
 おそらくあれは、心ないビジターたちによるものなのだろう。剣人はあさましく家屋にむらがる男たちを想像し、「ああはなりたくないもんだ」と軽く肩をすくめた。
 それを聞きとがめ、柳眉をわずかに歪めたのはジェミリアスだ。
「あきれた。剣人、好奇心たっぷりに品定めを始めてるあなたが言っても説得力がないわよ」
「あの荒らし様が俺の信条に合わないって話さ。スマートじゃないだろ?」
「あら、初めて聞いたわよ、あなたがそんなこだわりを持ってただなんて」
「ちょ、ちょっと二人とも! ほんとに白玲の邪魔になっちゃうから!」
 口元に人差し指をあてて沈黙を促すレオナだが、どう贔屓目に見ても彼女の声が一番大きい。
「――亀裂がある」
「え?」
 不意に下方から声がして、三人の会話がぴたりと止まった。
「え、なに? 白玲、今なんて言ったの?」
「亀裂があるって言った。矢を射った先の、家の床に大きな亀裂があるのが見えたんだ」
 白玲の言葉に、三人は思わず顔を見合わせた。
 弓の名手である白玲は不思議な力を持ち合わせている。そのひとつが、弓で射た矢の弾道や射終えた矢の周囲を知覚できるというものだ。諜報や探索に有用なこの能力は、居住区探索にやってきた今の四人にとって大きな信用を寄せられる重要な情報源になった。
 早速、情報をもとにした推理を展開させる。
「長く放置されているせいかしら。風化してヒビが入ってしまったとか……」
「ビジターに荒らされた結果ってこともあり得るな」
「いや、それはない」
 ジェミリアスと剣人の言葉を否定するように、白玲は軽く首を横に振る。
「家具も壁も少し埃をかぶってはいるが、特に小さなヒビなどは見当たらない。それに床の亀裂は、ヒビと言うには鋭く深すぎる。当然、荒らされてる様子もないな」
「地震があったとか……」
「それならこの辺り一帯、家具も床も壁も無事じゃいられないでしょう」
「あはは、やっぱそうだよね」
「白玲、家の中に何があるか見えるか?」
「ん、そうだな……シャンデリアに、木目調の家具。大きな絵画と女の彫刻も飾られてる」
「……随分裕福そうね」
「それでまだ荒らされてないってのも、変な話だな」
「何かあるのかな、その家」
「あるんでしょうね。何か……荒らされない理由が」
 ジェミリアスの言葉に、レオナの背がしゃんと伸びた。その黒い瞳からおびえの色が消え、代わりに明確な目的への執念が現れる。
「その『理由』が、シンクタンクの仕業って可能性は?」
「私は、あると思う」
「そうね、家屋を覗いたらタクトニムの巣だった、なんて報告も実際あるそうだもの」
「そうじゃなくても亀裂の正体ってのが気になるな、俺は」
 四人の視線がかち合う。意図せず、全く同時に頷きあった。
「よおっし! それじゃみんな、今日の目標はその家ってことで!」
「OK!」
 レオナの呼びかけに、三人は力強く唱和した。

「……で、早速かよ」
 疲れ顔でしゃがみこむ。
 ガリガリと後頭部をかきながら、剣人は深く長いため息をついた。
 彼らが目標の家について数分。見た部屋数は三つ。そう、たった三つだ。
「この状況で、どうやったら行方不明になれるんだ?」
 三つ目の部屋を四人で見て、さあ次はどこを見ようかと話しながら廊下を歩いているうちに女性三人の姿が消えた。天井の様子を観察している間のことだったので、そこの扉の中に入ってしまったのか、階段を上がっていってしまったのか、引き返されてしまったのか、皆目検討がつかない。
(白玲やレオナはともかく、ジェミリアスまでとはなぁ)
 もっとしっかりした女だと思ってたんだが、と、唸りながら立ち上がる。この場合、自分の方がぼんやりしていて三人に遅れを取ったのだ、という可能性は考慮しない。それがあまりにも分が悪い想像だからだ。
 ともかく適当に探して早めに合流すべきだろう。剣人は三人を探すべく、とりあえず手近な扉に手をかけた。
 普通の扉だ。木製の、白いペンキでコーティングされた洋風の室内ドア。軽くノブをまわす。ドアはたいした抵抗もなくすっと開き――潮の香りがした。
 
 ラリッサ、と呼ばれた気がした。
 白玲はきょとんと目をしばたかせ、周囲を見渡す。
 館に侵入し、レオナたちと離れて早十数分。自分の方向音痴はいつものことだから、皆とはぐれたこと自体はそれ程不思議に思わなかった。さすがに屋内で迷子になるのは初めての経験だが、同じような部屋が続くうちに混乱してしまったのだろうと白玲は結論付ける。
(今の……)
 耳は鋭い方だ。弓を得物とし実戦に出る者として、音がもたらす情報を無視することはできない。
 だけど、今の声は。
(……まさか)
 まさかそんなはずはない。
 白玲は小さく首を振って、自分の想像を否定した。
 もうあの名前を知る人などいないんだから。
 もうとっくに、自分はあきらめたんだから――
「――ラリッサ、こっちよ」
(!)
 びくん、と白玲は体を奮わせる。
 聞こえた。確かに聞こえた。
 懐かしい名を、懐かしい声が、懐かしい優しさで呼んでくれた。
 白玲の大きな瞳が抑えがたい感傷に揺れる。
(Мать……)
 かつての母国語が胸に浮かぶ。
 彼女の足が無意識に動いた。

(これで完成、ね)
 ジェミリアスは自分で描いた館内の簡易地図を片手に周囲を見回す。コンクリートむき出しの窓ひとつない暗い部屋だが、特別な目を持つ彼女にとって、明かりのなさなどたいした障害にもならなかった。
 おおむね一階の間取りは把握した。透視を行いながらのマッピングだったから、見落としでもしていない限りは、すべての部屋を確認したと思っていいだろう。
(なのに誰も見つけられないというのは、どういうことなのかしら……)
 他のメンバーとはぐれてから既に三十分は経過している。いくらこの家が大きいとはいえ所詮民家だ。これだけの時間かけてなお発見できないことなどあり得ない。
(あり得るとすれば、私以外の全員が二階にいるってことになるわね。それでも私に無断で三人ともが移動したという点が解せないけど)
 そこで彼女の柳眉が一時的に歪んだ。
(……一番分かりやすい可能性は、三人がタクトニムの手にかかったというもの)
 これはあまり気分のいい想像ではない。
 とはいえ、今のところ仕掛けめいたものや例の亀裂なども見つかっていないのだ。希望的観測にだけすがって行動するなど愚の骨頂。ここは最大限の警戒をすべき場面だろう。
(とにかく二階も確認して……あら?)
 ふと視界に入った小さな影に、ジェミリアスは軽く驚き目を見開いた。
(ネズミ? ……どうしてこんなところに)
 誰もいないはずの、生命らしきものが残されていない街に、何故こんな小動物がいるのだろう。
(こんなところに、どうして――)
 そういえば、と気づいて顔を上げる。
 目の前にはコンクリートの壁。タイルや壁紙のような装飾もない、むき出しの、普通の民家では見られない部屋だ。
(――どうして、こんな部屋――)
「――いいかい、嬢ちゃん」
 男の骨ばった指が、ジェミリアスの顎をいやらしく撫でた。ザラリとした乾いた感触が少女の不快感を煽る。
「少しばかりここでおとなしくしてるんだ。ああ、間違っても声なんか出すなよ? 可愛いあんたの顔に傷なんかつけて、商品価値を落とすような真似なんざ、俺ぁしたくないんだからよ」
「おいおい、物騒なこと言ってんじゃねぇよ。見な、お嬢さんがガタガタ震えちまってんじゃねぇか」
「そりゃこんないい男を前にしたんだ、興奮して震えちまうのも仕方ねぇってもんだろーが」
「よく言うぜ、この豚。目ぇつぶれてんじゃね?」
 げひゃげひゃと下品な笑い声がコンクリートにぶつかってこだました。
「まあ、安心しな。あんたの優しいパパとママが嬢ちゃんの命の値段をちゃんと知ってさえいりゃ、すーぐ楽になれるんだから」
 男の顔が鼻先まで近づき、その表情がにい、と歪む。
(いや……っ!)
 すぐ目前に差し迫った濁った眼球の奥に底知れない悪意を見た気がして恐ろしくなり、ジェミリアスは反射的にぎゅっと目をつぶった。
 閉じた視界の向こうで、舌なめずりの音がする。
 恐ろしくてどうしようもなかったのに、声はずっと出なかった。

 小さな商店街に優しい風が吹き抜けた。
 色とりどりのレンガの道を、老若男女にかかわらず多くの人が行き来する。
 その中に、不安そうな顔できょろきょろと周囲を見回す少女の姿があった。
「お父さーん! どこー!?」
「レオナ! こっちこっち!」
 少女の幼い声に応えて、青年が大きく手を振る。その姿をみとめた瞬間、彼女の表情がぱあっと晴れた。
「お父さん!」
 少女がすれ違う人の間を抜け、青年に向かって一生懸命駆けて行くと、柔和な笑顔が迎えてくれる。
「もう、先行っちゃわないでよー!」
「はは、ごめんごめん」
 レオナは青年に軽々と抱き上げられ、優しく頭を撫でてなだめてもらった。それだけでレオナの不安が霧散し、緊張が解けていく。
 少女の表情が笑顔になるのを見計らって、青年はすっと目の前を指差した。
「ほらレオナ、見てごらん」
「え、なに?」
 青年が指差したのは小さな露店だ。青いビニールシートの上に、色とりどりのアクセサリーや小物が並べられている。
「うわあ、きれー……」
「だろう?」
 シルバーの指輪やネックレスも美しかったが、よりレオナの目を引いたのは花柄の扇子や色ガラスの小瓶、それに、小さな鈴がついた可愛い髪ゴムだ。
「ん? レオナ、これ、気に入ったのかい?」
 ――チリン
 青年がそれを手にしたとたん、鈴は小さく揺れて音をたてる。それがあまりにも可愛らしくて、レオナは反射的にこくんと頷いていた。
「よし、それじゃ買ってあげよう」
「本当!?」
「ああ。その代わり、お父さんが先に行ってしまったこと、許してくれるかな?」
「え……」
 きょとん、とレオナの大きな目が瞬いた。
 簡単な言葉なのに、妙に胸に引っかかった。
 さきにいってしまったことを、ゆるしてほしい。
 ただそれだけの短い言葉が、どうしてこんなにも気になるのだろう。
「ほらレオナ。鈴、つけてあげような」
「う、うん――」
「よーし、すごく似合うぞ」
 レオナの顔を覗き込んで、青年は穏やかに微笑んだ。それだけで、戸惑いがちだった瞳が簡単に笑顔を取り戻す。
「お父さん、ありがとー!」
「はは、どういたしまして。さあレオナ、帰ろうか。お母さんが家で待ってるぞ」
「うん! ボク、お父さんと一緒に帰るー!」
 青年の生成りのシャツに包まれた胸にレオナはきゅっとしがみつく。そのしぐさをどう受け止めたのか、青年はもう一度彼女の髪を優しくなで、言い聞かせるようにささやいた。
「安心しなさい、レオナ。もうお父さんは、お前を置いていったりしないんだからね。これからはずっと一緒だ」
「うん。約束だよ、お父さん」
 レオナが嬉しそうに頷くと、小さな鈴が追いかけるようにちりりと鳴る。
 穏やかで暖かな風が、もう一度吹いた。

 機械的なリズムに、韻を踏んだ歌詞が乗る。
 深夜の波止場。それも本来なら静寂に包まれてるはずの倉庫前だが、夏の間は異様な騒がしさに満ちることになる。穏やかな波の音も、時折混じる汽笛も、鳴り響く音楽の中では効果音も同然だ。
 たくさんの人間が雑然と並んで人垣を作っている。その中央にいるのは並外れて体格のいい黒人の男たちだ。彼らは楽しげに音楽にのせて踊り、歌い、時折奇声を上げたりして周囲を沸かせていた。
(おーおー、盛り上がってるねぇ)
 人垣を遠巻きにしながら、剣人はゆったりと煙草をふかしていた。
 真夏の深夜はいつもこうだ。彼らの踊りを楽しみに、様々な人種の若者たちが集まって、ヒップホップやトランスの音に酔いながら朝方まで騒ぐ。ただそれだけの集会がもう何夜続いてるだろう。
(ま、大学生の夏休みなんざ、こんなもんだろ)
 抱えているはずの夢や目標なんて輝かしい存在も、この楽しい馬鹿騒ぎの前では等しく無力だ。ひたすら朝まで踊り狂い、しがない現実をすっかり忘れてしまうことしかできなくなる。
(いやぁ、我ながら見事なボンクラだね)
「……ント、ケント!」
「あ?」
 低い声に呼ばれていることに気づいて、剣人は声の方向を探るように視線をさまよわせた。声の主はすぐに見つかる。名前は知らないがここでは馴染みの、黒人ダンサーたちのリーダーだ。
「ケント、何こんな隅でシケた顔してんだ?」
「見て分かんねぇか? おいしー煙草を楽しんでいるんだ」
「こんな真夜中の波止場まで来て、やることがそれか? ほら踊れよ、みんなケントのダンスを待ってるんだぜ」
「だーから、俺は煙草をだな……うわっち!」
 男の太い手で強引に腕をとられて、剣人は軽くバランスを崩しかけた。それでも男は力を緩めず、そのままケントを輪の中に引き込もうとする。
「煙草なんていつでも吸えるだろ? 今夜のノリは、今この瞬間にしか楽しめないんだ!」
「おいおい」
 苦笑いを浮かべた剣人だが、こうして強引に誘われるのもいつものことだ。だから男の腕を振り解こうとは思わなかった。
 ――男の背中から、殺意を感じるまでは。

 暖炉の火が揺らめくのをずっと見ていた。
 瞬きを忘れたかのように、首をめぐらすことすらせず、その淡い色の眼差しを固定している。
 静寂の中、ただパチパチと木炭がはぜる音だけが少女の耳に届いていた。
 幼い少女の脳裏にあるのは、ただの空白。
 漠然とした虚無が浮かぶばかりで、それ以上はなにも考えることができない。
 だから、ただ見ることしかできなかった。
「――ラリッサ」
 そう、呼んでくれた優しい声が断末魔に変わるのを。
「こっちよ、おいで」
 そう、伸ばしてくれた優しい手が血に濡れていくのを。
(Мать……)
 ただ、見ていることしかできなかった。
 赤く染まった母親の体が意思を失う。大きな刃物を持った人影にしなだれかかるように倒れ、次の瞬間蹴飛ばされた。
 ごろりと不自然な方向に首が曲がり、壁際の少女と対面する。けれどその目はにごっていて、少女を見ることすらしなかった。
 それを悲しいと思うことはない。自分はたった四歳の子供だ。生死の意味すら分からないほど幼いのだ。
 思うことはない、はずなのに。
(Мать……!)
 視界が少しずつぼやけていく。不意に、頬を濡れた感触がすべった。
 それが何かを認識するよりはやく、母を殺した人影がこちらを見る。
 ああ、私も死ぬのだと、何も分からないはずの心がつぶやいた。

 黒く塗りつぶされる。
 心が、どうしようもなく黒く塗りつぶされる。
(どうして、こんなことに)
 ジェミリアスがどれほど全身に力を込めても、太い麻縄に縛られた手足ではまともに動くことはできない。
 臭い息を吹きかけられても、汚い指で触れられても、悪戯に殴られ侮辱する言葉を投げかけられてもだ。
「へえ、ガキの癖にいい体してんじゃねぇか」
「おい、あまり商品価値を落とすような真似すんなよ。まだ交渉中だぞ」
「分かってる、ちょっとだけだって……ん? なんだいお嬢さん、その顔は。この俺にこれだけ可愛がってもらって何の不満があるってんだ、ええ?」
 強い力で顎を捕まえられ、言い返すことすら出来ない。
 こんなにも痛くて苦しくて気持ち悪いのに。いっそ吐いてしまいたいくらいなのに。
 それも、できない。
(どうして……私が、何をしたって言うの……?)
 黒く塗りつぶされる。
 憎悪と、吐き気と、怒りとに、塗りつぶされる。
 黒く深く、折れてしまいそうなほど細く。
 少女の心は、完全に潰されそうになっていた。

 柔らかな日差しの下、手をつないでゆっくりと歩く。
 家までの道のりは平坦で、町並みは美しく、風も変わらず優しかった。
 見上げると穏やかな青年の眼差しに出会う。レオナも青年も口を開くことはなかったが、二人の間に流れる空気が気まずくなることはなかった。
 ただ、レオナの心だけはどうしても穏やかにならない。
『これからはずっと一緒だ』
 嬉しいはずの言葉が、ずっと胸に引っかかっている。ずっともやもやした霧に包まれているような気分だった。
(ずっと一緒――)
 どうしてなんだろう。なんでなんだろう。この言葉に、強い疑問を感じてしまうのは。
(――だって、そんなはずないのに)
「あっ!」
 不意に足を取られて、レオナは膝から地面に倒れてしまった。
 考え事をしていたせいで、周りがよく見えてなかったのだろうか。
「いたた……」
「レオナ? 大丈夫かい?」
 青年の声は相変わらず優しかった。レオナがこけてしまったことに慌てる様子はない。
「う、うん。大丈夫だよ。ほら、ボクちゃんと立てる、し……」
 立ち上がりながら自分の体を見下ろして、気づく。
 アスファルトの上に倒れて擦り剥けたはずの膝が、一度分解され粒子となって宙に浮かび、次の瞬間美しい皮膚となって再びピタリとはりついたのだ。
「これ……」
 漆黒の瞳を驚きに見開くが、全く同時に胸のうちで「ああ、そうか」と呟いてもいた。
 この胸に渦巻く不安の理由がやっと分かった。
 だって、ずっと一緒にいられるはずがないんだ。
 今のボクはこんな体で。
 こんな傷なら簡単に治ってしまうような身で。
 小さくて綺麗な生身の手や足なんて、もうとっくの昔に捨ててたんだ。
 だから。
「そうだ……そうだよ」
 レオナは、幼さを失った女性の声音で呟いた。
 ふと顔を上げる。
 あんなに遠かった父の顔が、今はすぐ横にあった。
「レオナ、大丈夫かい」
 変わらない優しい声音で、父親は繰り返し問いかけてくれた。その声に情を感じないのは、きっと自分が、この人を優しい人としか覚えていないせいだ。
 優しい声しか、優しい表情しか、優しい腕しか覚えてない。
 穏やかな風しか、柔らかな日差ししか、美しい町並みしか覚えていない。
 それほどまでに輝かしく懐かしい思い出の中にしか、父は……家族はいないから。
「レオナ、大丈夫かい」
「……うん、大丈夫」
 繰り返された問いかけに、レオナは力強く頷いた。
「大丈夫だよ、お父さん。だって」
 腰に下げた二本の刀に手を伸ばす。一度唇を噛み、小さなため息を落としてから柄を握り振り上げる。
「だってボク、こんなに強くなれたもの」
 幻影だとわかっても、父親に刀を振り下ろすのは胸が痛かった。

 カラン、カランと鈴が鳴る。
 幼い少女の頭上ではなく、戦士として成長した女性の胸元で――力強く。

――バシィっ!
 力強い男の上段蹴りを、腕でしっかりと受け止めた。
「……このやろう、隙狙ってきやがったな」
 ニヤリ、と剣人の口元が軽く笑みの形に歪む。振り返った男も、似たような表情で剣人を見ていた。
「Kent. Les's dance!」
「……OK!」
 男の声に頷くのと同時に、剣人の足が軽やかなステップを踏む。だが視線は油断なく男に向けていた。
 遠くの喧騒とリズムに乗って、男と剣人、二人の影が夜の波止場に舞い踊る。
 男から次々と放たれる打撃を受けとめ、流し、隙を狙って逆に打ち返す。たったそれだけのことを、命がけで繰り返していた。
(くそ、こいつ強ぇ……)
 ほんの少し気を抜けばその瞬間に殺される。揺らぐことない刺すような強い殺気を感じて、攻防の手を休めることができない。
 音楽が盛りあがるにつれて男の動きは多岐にわたり、剣人は防戦一方にまで追い詰められる。
(っかしいな、カンフーには自信があるんだが)
 何故だろう。充分な力が発揮できていない気がする。
 こんなものじゃないはずだ。俺の力はこんなものじゃ……
――カラン
(あ……?)
 音が聞こえた。耳慣れた、高くも低くもない乾いた音が。
 音楽や喧騒にまぎれることなく、はっきり明確に鳴った音。
(なんだ、今の……)
 反射的に音の意味を探ってしまって、剣人の動きが遅くなる。
「yea!」
 好機と見たのか、男が奇声をあげながら懐に飛び込んできた。
 そのスピードは音楽のリズムから外れてこそいたものの、神速と呼べる速さだ。
(……ああ)
 だが、それでも遅かった。
(あれだ、でけぇ鈴。レオナの)
 すべてを取り戻した剣人にとっては、愚鈍と呼べるほど遅く感じられた。
「なあ、あんたには聞こえたかい?」
 必殺だったろう男の突きをあっさりとかわしながら、剣人は男に問いかける。
 答えを期待したわけじゃない。
 そもそも聞こえるわけがないのだ。こんな過去の幻想に、今の仲間の存在を知らせる音など。
 この身に宿る力の存在も、その使い方も、あの音の意味も。
 分かるのは、自分とその仲間だけ。
 わずかに目を細め、腰を落とす。手のひらを開けば、それだけで簡単に炎が浮かび上がった。
 防御を考える必要はもうない。この炎を剣に変えて叩きつけてやれば、それで決着はつく。
 その確信が現実のものとなるまで、そう時間はかからなかった。

 その鈴の音を聞いた瞬間、ラリッサと呼ばれた少女は白玲としての自分を取り戻していた。
「は……」
 乾いた笑いが口から漏れる。
「はは、あははは……」
 こぼれた涙をぬぐう気にはなれなかった。
 私はまだ、この幻影にとらわれているのか。どれほどの年月を重ねても尚、逃れることができずにいるのか。
 血に汚れた、懐かしい我が家。
 見ていたのはほんの一瞬だったはずなのに、まだ心はここに囚われたままなのか。
「馬鹿だな、私は……」
 本当に馬鹿だ。
 あれからどれだけの修羅場を、生死の境を乗り越えてきたと思っているのか。
 塗り替えることの出来ない悲しみを抱えて生きることしか出来ない自分の、なんと弱いことか。
 小さく足を開く。軽く手に力をいれれば、そこに力強い弓の感触があった。
 たった一度、鋭く深く息を吸う。呼吸を整えなければ、矢をつがえても絶対に当たりはしない。それに気づくだけの余裕が自分にあることに安心できた。
 涙はまだはらはらと流れている。
 家族の死はどこまでも深く、少女の心を蝕んでいる。それを彼女自身の涙が癒すには足りていないから。
 だけど両の目ではっきりと獲物を捕らえてもいる。
 彼女の矢は、家族を殺した相手ではなく、彼女の心を蝕み続ける幻――母の遺体に向けられていた。

「……私を馬鹿にしてるのね」
 口元を緩める。
「嫌になるわ。よりによってこんなことを見せられるなんて」
 ゆっくりと立ち上がる。長い腕を軽く広げ、そのまま髪をかきあげた。
 額が汗ばんでいるのが指に感じられて、それがどうにも屈辱的だった。
 力などいれる間でもない。束縛の縄からして幻なのだから。
「まったく、こんな単純な罠……」
 足元に落ちていたサングラスを拾い、優雅なしぐさで鼻先にかける。
 見下ろせば醜い男たちがうごめいていた。それらをいつまでも視界にいれておくことも許せなくて、ジェミリアスは思い切り目をそらす。
 ああ、なにもかもが腹立たしい。
「……私にこんな思いをさせた報い、受けてもらうわよ」
 色硝子の向こうで、ジェミリアスの目つきがより剣呑なものになった。

 皓々たる光。
 渦巻く煙。
 大きな衝撃と、地響き。
 その中で鳴り響く鈴の、カランカランと転がる音。
 そのすべてが誰もいない街を振るわせた。
 光が影を、煙が風を、衝撃が家々を、地響きが道を、音が空気を、それぞれに振るわせ続け――そして、ゆるやかに静寂を取り戻した。

「……よお」
 最初に呼びかけたのは剣人だった。
「なんだか久しぶりって気がするわね」
 応えたのはジェミリアスだ。どこか複雑な面持ちで、それでも余裕を見せ付けるようにゆったりと腕を組んでいる。
「私は、もう少し落ち着いてから顔合わせしたかった」
 ごしごしと目のあたりをこすりながら、白玲はかすれた声でそう告げた。
「みんな、元気だった?」
 小さな笑みを含んだ声でレオナが三人を見渡し問いかけた。
 同じ部屋の四隅に、それぞれの態勢で立っている。この状況で幻を見続けていたのかと思うと気恥ずかしくて、四人はなかなか視線を合わせずに言葉だけを交わしあっていた。
「……残念ながら、あまり」
「元気ではないわね。けど、特に問題はないわ」
「俺はわりと。楽しく踊れたしな」
「……あなた、どんな幻見てきたのよ」
「気にするな」
 一人だけ妙にいい汗をかいた様子の剣人にジュミリアスの冷たい視線が降り注ぐが、剣人は軽く肩をすくめて見せただけでそれ以上答えようとはしなかった。
 本当は大学生時代のひと夏の思い出を見てきたなんて言葉が浮かびはしていたのだが、それではセンチメンタルすぎて自分には似合わないだろうと飲み込んでしまう。
「あんたこそ何を見たんだ? 珍しく汗なんてかいてるけど」
「それこそ気にしなくていいわ」
 ジュミリアスも剣人の問いかけをすっぱりと切り捨てた。自分の経験中最悪の記憶を掘り返されたため、出来る限り同じ目にあわせてやったんだ、などとと報告する気になれるわけがない。
 そんな意味のないやり取りに二人が興じている横で、じっと床を睨んだままの白玲がぽつりと呟いた。
「この亀裂……さっき見つけたのと同じだ」
 彼女の視線の先に、深く大きな亀裂が走っている。
「あ、最初に矢を撃って見たのってここだったんだ? 白玲」
「うん。確かにこの部屋だった」
「木目の家具に、シャンデリア。それに大きな絵……確かに条件は揃ってるな」
「そう? 一つ足りないように思うけど」
「足りない?」
 部屋全体を見渡して、レオナはジュミリアスの指摘の意味を悟った。
「ほんとだ。彫像がないんだ」
「彫像ねぇ」
 ぼりぼりと首のあたりをかきながら床にしゃがみ、剣人が亀裂の中を覗き込む。
「……もしかして、あれじゃないか?」
「え、どれ?」
 三人も同様に、亀裂の中を確認した。
「あ、あれか……」
 確かに彫像はあった。剣人の言葉に嘘はないだろう。――だがしかし。
「……後ろ、こげてる」
「右側が見事に砕けてるわね」
「綺麗に心臓貫いてるな。あの矢」
「それよりなんで、所々にかじられたみたいな跡があるの?」
 その無残な様子から四者四様の、見事な戦いの跡が見てとれた。
「じゃ、あれが今日探してたシンクタンクなの? ボクたちが見た幻の原因が、あれ?」
 大きな目をしばたかせ、レオナは何度となく首をかしげる。シンクタンクといえば人間型やそれに準じた可動型のイメージがあっただけに、この彫像のあり方に大きく驚かされたようだ。
「あら、レオナは納得いかない? 侵入者向けのトラップと考えれば非可動型の方がむしろ効率的だと思うけど」
「そういうわけじゃないけどー……」
「あの彫像にささった矢の周りに、機械部分が見える。識別名もあるな。だからこれもシンクタンクで間違いないと思う」
 自分の能力で深々と突き刺さった矢の周囲を確認した白玲が、彼らの想像に強い説得力を生む。
 だから自然に、剣人は問いかけてしまう。
「識別名? なんて書いてあるんだ」
 それを受けて、白玲は静かに顔を上げた。
「……『マホロバ』だって」

 レオナたちは元来た道を歩く。
 四人それぞれ違うペースで、けれどつかず離れず、本来の生活域を目指して歩いていく。
(……まほろば、か)
 それはレオナの故郷、遠き異国の地の言葉だ。
(なんか今日は、ずっと懐かしい気持ちにさせられてるなぁ)
 家族を失い、一人で生きることになってからもう何年になるだろう。
 様々な経験を経て、立派な戦士となり、多くの仲間を得てこのセフィロトの塔までやってきた。
 今日のような出来事がなくても、寂しく悲しい気持ちにさせられることはある。
 どうしても敵わない敵を前に、死を覚悟したことだってある。
 それでも逃げることなく、立ち止まろうとも思わなかったのは、レオナから家族を奪ったシンクタンク「ノスフェラトゥ」に復讐するためだ。
(お父さん、ボクは大丈夫だよ)
 誰もいない街へ振り返り、レオナは切なげな視線を投げかけた。
(絶対、みんなの仇をとるまで、戦い続けてみせるから)
 新たな覚悟を胸に、目じりに浮かんだ涙を拭う。
 帰るべき過去は既にない。あるのは、今日から明日、そして未来へと続く戦いの日々だけだ。
 レオナはまっすぐ前を向き、いつもより少し早足で歩きだす。
 未練がないと言えば嘘になるけれど、もう一度振り返りろうとは思わなかった。

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■登場人物紹介

0536/兵藤・レオナ(ひょうどう・れおな)
0351/伊達・剣人(だて・けんと)
0529/呂・白玲(りょ・はくれい)
0544/ジェミリアス・ボナパルト(じぇみりあす・ぼなぱると)

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■ライター通信

 お待たせしました。パーティノベル『誰もいない街』での出来事をお届けいたします。
 これまで『自由に書いてください』という依頼が続いていたので、詳細な内容に踏み込んだご依頼は新鮮で、とても楽しく書くことができました。
 できるだけ依頼をくみとって書いたつもりですが、いかがでしたでしょうか。
 惨殺とか誘拐とか、ついつい暴走してしまいそうな言葉が並んだご依頼でしたので、年齢制限がついてしまうような描写にはならないよう抑えるのが大変でした。我ながら未熟なことです。
 少しでも皆さんのご期待に添えていたなら幸いです。
 またご縁がありましたら是非よろしくお願いいたします。失礼いたしました。