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<東京怪談ノベル(シングル)>


海の死


 あの一件以来、あたしは海にあまり近づかなくなった。それに、あたしが行こうが行くまいが、海は死にっぱなしに決まってる。行っても何の得もご利益もありゃしない。人間は神さまを怒らせちまったのさ。それも、たくさんの神さまを。あの海のざま、見てみるといい。
 海はいつだって死んでいる。海はまっ平らな一枚の板。灰色の板だよ。
聞いた話じゃ、年がら年中大時化のところもあるらしいし、呑気にバカンスを楽しめるところもあるらしいけど、あたしが知っている海は、いつだってどこだってこのざまだ。ぴくりとも動かない、死体なのさ。
 けれど、この何にもない海原ののど真ん中には、きっとこの死体にお祈りしてる輩もいるんだ。このお先真っ暗なご時世、何かにすがらなくちゃ生きていけない人間はべつに珍しくもなんともない……。
 実際、あたしは遭っちゃったからね。そういう輩に。


 あー、思い出したくもない。だからあたしは海を避けてる。あの島に着いたいきさつだって、情けない話なんだから……。


 こんな海で魚獲りなんて、我ながら、バカじゃないかね。
 海に入ってから3日くらい経って、あたしはようやく後悔した――死んだ海を泳ごうなんて考えたことも、本当にバカげてるなんて考えた。海水浴気分で3日前海に飛び込んだあたしは、文字通りの人魚姫になった。
 海流がすっかり死んでることが、こんなに厄介なことだったなんて――気がついたのは、泳ぎ始めてから丸一日後。
 あたしは本当にバカだった。
 地磁気も海流も『審判の日』でめちゃくちゃになってる。そんな世界に、写真やデータで見たきれいなサンゴや魚なんているはずがないし、味がよさそうな生き物だって見かけやしない。魚獲りは得意だったのに、あたしはまともな魚を一匹も獲れないまま、くたくたになって、結局一週間くらい海をさまようことになった。

 今が何月何日で……何時なのか……いつも気にしちゃいないけど、そのときのあたしは、本当に時間というものがわからなくなっていたよ。死ぬ、とまでは思わなかったけど……すっかり腹ペコで島に辿り着いたときは、助かった、って思ったさ。

 へんな島だった。妙にザワザワしてるみたいで、しいんと静まりかえってるんだ。死んでるはずの海だったけど、その島の周りの海には波があって、青い色がついていた。
しかも、奮発して買ったワールド・ナビが機能しなかったんだ。その島が地球のどこにあるか、今でもわからない。ナビはしっかり防水対策をしてたし、電源自体は入ったから、海水でいかれたわけでもなさそうだった。
 そんな場所は、大抵、ろくな場所じゃないもんさ。
 わかってはいたんだけれど、とにかくそのときのあたしは餓死寸前。動くものなら虫でも人でもいいから食いたかった。そこに、だよ――肌の浅黒い人間たちが、森の中からおずおず出てきたのは、さ。

 島民たちはなんだかみんな魚くさかったけれど、あたしにはすごく親切だった。普通、よそ者っていうのはこのご時世あんまり歓迎されないものだから、あたしは拍子抜けした。言葉も向こうの訛りがひどいだけで、わりとすんなり通じた。はた目から見てもあたしは随分やつれてたらしい。最初は胃にやさしいものばっかり食べさせてくれたし、好きなだけ寝かせてもらえた。
 それからは……古の満漢全席も真っ青さ。むしろ、酒池肉林ってやつだった。キレイなコもご当地料理も美味しくいただいたけれど……そう……あたしの獣の勘はいつだって頼りになる。ゆっくり休んで満腹になってから、あたしは、その島でただの一時もこころが休まることがなかった。ま、よっぽどのバカでない限り、あの厚遇、何か裏があることぐらい感づくだろう左。今じゃ、タダ飯より高いものはないんだからね。

 あたしは誰かの思い通りに動かされるのはまっぴらなんだよ。あたしは最初から最期まで自由なんだ。
 あたしはいつだって抵抗する。あたしは……レジスタンスだ。

 いつも食事を運んでくる女のコがいた。気が弱そうで、声も小さくて、行動もトロい。でも、体型と顔は正直、あたしの好みだった。
 あたしはそのコに狙いを定めて、その夜の伽は、彼女ひとりだけにした。
誰も彼もが寝静まって、寝屋にはあたしとそのコのふたりきり。なにをしたかはふたりだけの秘密ってことにしとくよ。ただ、まあ、目的の話を聞き出すのは簡単だったのは確かさ。


 彼方から聞こえてくる、霧笛みたいな音……。
 あたしのこころを常に騒がせて、休ませてはくれなかった。
 魚くささと、波の音。
 ぼおおおおおおう……うおおおおおう……るおおおおおう……ってね。
 あの音……。音じゃなかった……。声だったんだ。ザワザワしてるようでしずまり返ってるあの島……島民たちだけの息吹が、そこにあったわけじゃない。
 死んでるはずの、海なのに。
 ああ、でも、人間にとっちゃ地獄でも、神さまにとっちゃ、何でもない場所なのかもね。神さまに居心地も何もあったもんじゃないだろうさ。
 あいつらは、どこにだって住めるんだ。
 人間が居ても居なくても、あいつらはこの星にとどまり続ける。
 この星はあいつらのものなんだよ。
 あたしだって、ちっぽけなものなのさ。――悔しいけれどね。
 あたしはまれびとと読む異人、やつは異神。異人はあの声に捧げられるんだ……。そうして、あの島は、『審判の日』でも乗り越えることが出来た。もしかしたら、『審判の日』があってから生まれた風習なのかもしれない。どっちにしたって、あの島は平和だった。青い海の中に、静かに浮かんでた。
 そうさ、あたしは確かに異人。変わった怪物だから、末永く神さまとやらのご機嫌を取れる、いい贄かもしれない。島は崩壊して、死んだ世界の外にあり続け、ずっと平和でいられるかもしれない。
 けれどね、あたしは、まっぴらさ。

「あんたはあたしの好みだよ。こうしていろいろ話してくれたから、命の恩人でもあるわけだ。あんたをここから連れ出して、地獄を見せてやろう。地獄は好きだね?」
「は、はい。わたし、地獄が好きです。空さまと一緒にいられるのなら、地獄だって天国です」
「ようし、いいコだねえ。じゃ、この地獄からさっさと逃げようか」
「で、でも……船は長老たちが全部おさえてます……それに、このお館だって、いつもたくさんの防人に囲まれて……」
「あたしを誰だと思ってるんだい? あたしはね、ただの異人じゃないんだよ」
「は、はい、そうです。も、申し訳ございません!」
「ふふふ……素直だねえ。はぐれるんじゃないよ。あたしは風と同じくらいの速さで動けるんだから」

 神さまなんかとケンカする気なんて、さらさらなかった。あとは島の連中に任せておくことにした。神さまが怒り出す前に、また誰かが島に流れ着いて、あたしの代理を務めることになるかもしれない。結局いい異人を用意できなくて、神さまが島に罰を与えるかもしれない。
 逃げ出すあたしには関係のないことさ。あたしは鳥になった。抱え上げた女のコは、やっぱりちょっと魚くさくて、空から島を見下ろしたときからずっと、何だかわけのわからない言葉でお祈りしてた。
 ずっとずっとお祈りしてたさ。
 あの、声に合わせるようにして。


 海は、まっ平らなままのほうがいい。
 青い海なんか、もう、二度と見たくはないよ。


 女のコはどうしたって?




 フフフ。




<了>