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<東京怪談ノベル(シングル)>


櫻舞



 春という季節を忘れてしまうくらいに、地面は強い日差しを受けている。
「――…………」
 土を撫でるように風が吹いた。
 黄緑色の草と、私の赤い裾を揺らして――私は足を止めて空を仰ぎ見た。
 真っ青な空の中に、淡いピンク色をした櫻の花びらが散っている。
(まるで)
 日の当らない湖に、花びらが浮かんでいるようだった。
 途端、衣類の中に水が入り込んできたかのような涼しさが胸元に広がる。
(気持ち良い)
 朝早くから動きまわっていたせいで、背中や胸に汗をかいていたのだ。立ち止まっている今では、布と肌の間から、草と花と肌が交じり合って蒸れた匂いがした。

 櫻は、美しかった。
 私の視界を優しく塞いで、風に乗った匂いで鼻をくすぐる。
 ……くしゅん、と小さなクシャミをして。
 愛でる。
(ただ美しいだけではありませんから)
 これは審判の日を超えて、今も咲く花。
 以来、消えていった命を纏って咲き誇っている。
(そのお手伝いをするために)
 私は舞う。
 ――少しでも櫻が、綺麗に咲けるように。
 ――鎮魂の花びらを、静かに広げられるように。
 でも本当は、私はお兄様のお役に立ちたいから――静かに舞う。

 これは、お兄様が私におっしゃったこと。
 強い口調ではないけれど、私には断れない――断る気にさせない――内容だった。
(霊を慰めるために、櫻舞をすること)
 私はお兄様に操られるまま、肢体を動かし、舞いを踊る。私が右の指で空に触れても、それは私の意思ではなく、お兄様のもの。
(私の心はお兄様で埋まって)
 人形のように、動く。
(……いいえ)
 ただひとつ、人形とは違うところがある。
 それは全く感情のない人形と違って、私は喜びを感じている、ということ。
(お兄様のお考えの通りに)
 私の意思の上から、お兄様が覆いかぶさって――意のままに私の身を操る。
 それが、とてもとても、心満たされる時だということ。

 緊張と微かな不安と、隠れている喜びがある。
(もうすぐ――)
 そのような私の感情とは関係なく、時間は刻々と迫ってくる。

 やがて、雲が去って空が青に埋まる頃、儀式が始まった。
 境内の中央に設置された舞台は、青い光に照らされて、まるで取り残された島のよう。
 その島を囲むように集まった人々の群れが、大きなひとつの影となっている。引くことのない黒の波だった。
(大勢の方々が、お集まりになっていると言うのに)
 境内は水を打ったように静まり返っている。
 そこに響いてくる、鼓の音。低い、小さな音が耳の中から入り込んで、思考に溶け込んでいく。
(お兄様……)
 ピントが外れて滲んだ景色の上から、お兄様の影が見えた。勿論幻だろうけれど、お兄様の肌の匂いも香った気がした。
 私の首筋に、濡れた砂がへばり付いているような感覚がある――その砂が、ピチャピチャと肌を透かして心に侵入してくるようだった。
 左手の小指が、ピクリと震えた。小動物のように。
 ……私は夢を見ているような目で、舞い始める。

 鼓の音以外に何も聞こえない程静かに、私は動いていた。
 身体はお兄様に預け、心は音とお兄様の間で踊る。
 そうして、柔らかく水の中に沈み行くような気持ちでいると――ゆっくりとお兄様の意思と私の僅かな感覚が重なり合っていくのだ。
(きっと、次は――)
 空へ向けられた腕を緩やかに下へ降ろす。
 想像出来る。
 お兄様が私をどう動かすのか、どう操りたいのか。
(お兄様が“入って”いる、今だから?)
 それでもいい、お兄様のお傍に心を置けるのなら。
(このままでいたいです)

 強い日差しを受けて熱を帯びた髪が、風に揺れる。
 先程までの静けさとは打って変わって、境内は音に満ちていた。舞台の代りに屋台が出ているせいだろう。
 歩く音、誰かの声、服と肌が擦り合う音、そして、私の声。
「宜しいのですか?」
 見上げた私に対して、お兄様はいつになく穏やかな口調で誘って下さった。
 ――せっかくだからいくつか屋台を巡ってみよう、と。
 それは予想外だっただけに、もう一度聞き返す程に嬉しくて。
(本当に……)
 一瞬息が詰まって言葉を飲み込んでしまったから、肯定の意味で、小さく三回頷いた。

 並んで歩いているために、ふとした拍子に腕が触れ合ったりするとドギマギする。
(お兄様は気にしてらっしゃらないでしょうけど……)
 私は二人でいると、胸がくすぐられる思いがするのだ。
「食べるか?」
 お兄様が分けてくれたタコ焼き。
 私は猫舌だったから、熱がりながら食べた。柔らかい触感と、少し硬めのタコ。そのタコは何故だかわからないけれど、三つも入っていた。
 甘いわたあめも半分こにした。
 私が食べていたのを、お兄様が手で千切ってご自身のお口へと運んだのだ。
 もっとつまみたい、とお兄様。
(どうしよう)
 本当は私が直接、手でお兄様のお口へ持っていきたかったけど――出来る筈もなく。
 仕方なく、そっとわたあめを棒ごとお兄様に手渡したのだった。
(勇気がないから)
 それでも、美味しそうにわたあめを食べているお兄様を見上げていると、無意識に口元がほころんで来る。
(いつもとはギャップがあって、何だかお兄様が可愛らしいです)
 そんなことを口にすれば、叱られてしまうかもしれないけれど。
 同時に寄り添いたくもなったけれど――それも我慢。
(私はお兄様の恋人ではないのだから……)
 針で刺されたように、胸が痛んだ。
 ――わざと考えないようにしているのに。

(そう)
 お兄様がどう思ってらっしゃるかは、わからないけれど、私は妹としてご厄介になっている身なのだ。
 ――私はただの妹でしかない。
 だからこそ、想いを表に出さず、櫻舞をするだけで幸せを感じるのだもの。
(今の私にとっては、それだけで)
 充分過ぎる程に幸せなのだ――そう自分に言い聞かす。
 今までも、これからも。

 …………。

 屋台をぐるりと周って、最後にお兄様がくれたものは林檎飴だった。
 薄茶色の棒に、真っ赤で丸い、可愛らしいこの飴。
 夕暮れ近い日の光を浴びて、ビイだまみたいに綺麗だったのを、私が目に留めて――「いいです」と首を横に振ったけれど、お兄様は私に買ってくれたのだった。
(嬉しい)
 舌で絡め取るのが勿体なくて、矯めつ眇めつ眺める。
 一分程そうしてから、ようやく舌先で味わった。
 ……ベタベタして、甘い甘い味。
 一口一口が、嬉しくて、嬉しくて。

 今はこれだけで、幸せなのだと――。



終。