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<東京怪談ノベル(シングル)>


春に融けゆく夢の一片


 民主主義的な意見を取り上げてみれば、春から初夏にかけての今時期は過ごしやすい季節になるのだろう。気温の上昇は緩やかで、暑過ぎもせず寒過ぎもしない。太陽の日差しは夏ほど強くはないが冬のそれより遥かに優しく柔らかく、風も同様に心地良い暖かさで肌を撫で過ぎる。冷たく厳しい冬の王の後に訪れるは、全てを優しく祝福する春の女神だ。
 しかし、そんな春の女神の抱擁もクレイン・ガーランドにとってはあまり喜ばしい事ではなかった。生まれついての体質故に、その身を日光の下に晒す事は彼にとって毒にしかならない。
 珍しく日が高いうちに目が覚めてしまったクレインは、細く開いたカーテンの隙間から室内に差し込む光に誘われるように窓際に足を向け、雲一つない眩しい青空を見遣った。手を上げて日差しを遮りながら、あの空の下に自分の居場所はないのだと僅かに落胆する。
 一つ小さく息を吐き、窓際からソファへと移動しようと身を翻すと、足元に擦り寄ってくる影が視界の端を掠めた。外へ散歩にでも出ていたのだろう、彼の唯一の家族である黒猫が帰宅したようだ。
「おかえり」
 腰を屈め手を差し伸べると、猫は重力を感じさせない軽やかな足取りで床を蹴り、クレインの腕の中へと収まった。甘えるように顔を擦り付けてくる猫に微笑みを向けその背を撫でれば、黒い毛皮の間からは陽光の暖かさと新鮮な緑の匂いが溢れてくる。
「……あなたのように、私も外でのんびりと昼寝でも出来たらいいんですけどね」
 一言、ぽつりと呟きが漏れる。
 万人と違う己の身を嘆き悲しむ時期は当に過ぎ、叶わない望みに思いを馳せる事などもうすまいと思っていたが、飼い猫が運んできた春の欠片に忘れかけていた憧憬がふいに蘇ってしまったようだ。
 そんな主人の想いを感じたのか、腕の中で黒猫が誘うように一つ鳴いた。
「一緒に行こう、ですか? 無理ですよ。夜だとか、室内であればまだいいけれど…………」
 苦笑を浮かべ頭を撫でようとした手をふと止め、クレインは邸内のある場所の存在を思い出す。
「……あの場所なら大丈夫かもしれませんね」

* * *

 この邸で生活するようになってからかなり長い時間が過ぎてはいたが、その部屋に入ったのは片手で足りるほどの回数しかない。他にも使用していない部屋はあるものの、此処ほどクレインが必要としない場所はないだろう。
 クレインは数ヶ月、いや数年振りにその部屋の扉を開いた。
「……っ!」
 室内の明るさに思わず目を閉じると、瞼の裏に光の余韻が明滅する。
 暗い廊下からいきなり明るみに出た事で痛む瞳を押さえ、暫く立ち尽くした後ゆっくりと顔を上げると、四方をガラスに囲まれた空間が目の前に現れた。サンルームである。
 寒い冬に温室として植物を育て鑑賞したり、日光浴を兼ねて客人とティータイムを過ごす為のこの部屋は、日光を厭うクレインにとっては最も必要としない場所の一つだ。おかげでそんな部屋がある事すら忘れかけていたのだが、飼い猫に触発されて記憶の底からその存在を思い浮かべられたのは僥倖と言えよう。
 部屋の入り口に立ち、ゆっくりと室内を見回す。長い間忘れ去られていたその場所は、前の持ち主がもしかしたら有効に活用していたかもしれない痕跡などは一切取り払われており、今はただ光ばかりが満ち溢れていた。
 コツ、と室内に一歩踏み出すと、積もった綿埃の上に綺麗に足跡が残った。その下にうっすらと見えた色で床がオーク材のフローリングだという事が分かる。身体を動かす度に空中にも細かな塵が舞い、全面から差し込む光の中で踊る姿はいっそ幻想的な景色を生み出している。
 しかし、その光景に見惚れるより先に余りの埃っぽさに咳き込んでしまう。
「これは……まずは掃除からですね」
 口元をハンカチーフで覆い、眉を顰めたクレインの足元で、猫は新雪の上を歩くように埃で真っ白な床に自分の足跡を付けて回っていた。

* * *

 掃除をするにしても、まずは日光を遮らなければクレインは動けない。しかし、サンルームはそもそも日光を取り入れるように作られているのだから、光を遮る為にカーテンを引こうにもカーテンレールなどあるわけがない。
 クレインは暫くの思案の後、寝室へ戻りクローゼットから何枚かシーツを取り出してその端と端を結び大きな一枚を作り上げた。それを手に二階へ上がると、サンルームの真上に当たる部屋の窓から少し身を乗り出し、眼下にガラスの天井がある事を確認する。
「上手く被ってくださいね、っと」
 クレインの手から離れたシーツは、空中でふわりと大きく広がってそのままゆっくり落ちていく。サンルームの屋根にシーツがかかり、両端が側面にも垂れ下がる。クレインが即席で作った大きな日除け用のカバーは無事に役目を果たしてくれそうだ。
 上手くかかったのを見届けてサンルームに戻ると、部屋の上半分がシーツに覆われ室内の光は大分緩和されている。これなら大丈夫そうだ。なんとも突飛な思い付きではあったが、中々良い成果を得られた事に思わず笑みが浮かぶ。
「さあ、やりますか!」
 部屋の隅に用意しておいたモップを手にしたクレインは、普段の自分らしからぬ浮かれた声音に気付き、くす、と笑みを漏らす。
 こんな風に自分から忙しなく動き回り、更にそれを楽しく感じる事などもう何年もなかったように思う。
 大切な人達が次々と自分の前から消え去り、自分の身にもまた不運が重なっていった事で、感情は沈み、ただ暗い静寂の中に自分を置いてきた。
 小さな家族が増えた事で闇に包まれた心の中に少しは灯火も戻ったけれど、未だ凍えている事に変わりは無い。
 しかし、春の暖かさは固く閉ざした心を融かすきっかけを与えてくれた。自分の心と同じような味気なく寒々しい家の中に、家族と共に過ごす暖かい場所を自らの手で作る事で、記憶と感情に刻まれた歪な傷も少しずつ癒えていくのかも知れないと思う。
 風に揺れるシーツの端をガラス越しに追う黒猫の姿に目を細め、クレインは床にモップを滑らせた。

* * *

 気が付けば西の空は赤く、宵闇が迫る時刻になっている。肉体労働に向いていないクレインの身体はそろそろ悲鳴をあげ始めていた。
「はぁ……疲れた」
 埃がなくなった床の一部分に腰を下ろし、ガラスの壁に寄りかかるとクレインは大きく溜息を吐いた。夜の訪れを告げる冷気がガラスを通して布越しに背中を冷やしていたが、汗ばんだ肌にはむしろ心地良い程だ。
 室内を見回すと、結構綺麗にしたと思ったのだがそれほど進展は無いように見える。部屋自体はさほど広くはないが、積年の汚れがたった一日でゼロになる訳もない。作業に慣れていない人間が少しずつやっているので尚更時間もかかる。この部屋で快適に過ごせるようになるのはまだ数日先の事だろう。
(明日は床の残りにモップをかけて、そうそうこのガラスも磨かないと。その後は観葉植物を見立てて。日陰が作れるような大きな物を一つ二つ、後は小さ目の物をいくつか用意しましょう。小さなテーブルとロッキングチェアなんかも持ち込んで……)
 目を瞑り今後の計画を頭に思い描きながら、クレインの意識は心地良い疲れに誘われ、眠りの中へと落ちていった。
 
* * *

 クレインの予想を一週間ほどオーバーし、長年誰も踏み入れなかったサンルームはやっと本来の使用に値する空間へと蘇った。
 床にはオーク材の温かな木目が並び、曇り気味だったガラスは陽光を照り返しながら晴天の空を鮮やかに映し出している。室内に並べられた観葉植物も瑞々しい葉に光を浴びて、どこか嬉しそうに天を仰いでいる。
 クレインは腕に抱えていた最後の鉢を置くと、全体を見回し嬉しそうに目を細めた。
「ちょっと時間はかかりましたけど、我ながらいい出来です」
 それに賛同するように足元で鳴く猫に微笑みかけ、一際大きな鉢に囲まれた日陰へと足を運ぶ。影の下に置かれたロッキングチェアに腰を下ろすと、背を預け、軽く床を蹴って椅子を揺らした。ゆっくりとした揺れのリズムに合わせて靡くクレインの銀の髪が、葉の間から差し込む幾筋かの陽光を浴びて不規則に輝いた。
 日陰の心地良い涼しさの中、穏やかな春の日を感じ、ロッキングチェアの揺れに任せて見る夢は、どれほど優しいのだろうか。
 静かな夜の静寂の中で思い出せば辛過ぎて目を背けてしまう傷も、この温かさの中でならば少しは悲しみも薄れる気がする。
 膝の上に乗ってきた黒猫の背を撫でながら眠りに落ちるクレインは、どこか安心したような笑みを浮かべていた。


[ 春に融けゆく夢の一片/終 ]