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<東京怪談ノベル(シングル)>


「そして一時の安らぎと共に」


「また、ですか…」
 悪夢の一歩手前のような夢の波間から、日の光の救いと共に目覚め、クレイン・ガーランド(くれいん・がーらんど)は、けだるげに額に腕を置いた。
 過去の残像がこれほどまでに自分の許を何度も訪れ、息苦しさを伴っては去って行くのを目の当たりにして、いささか眠ることすら放棄したくなってくる。
 それでも。
 眠らないと生きられない以上、たとえ痛みを味わうことになっても眠らなければいけないのは必定で。
 だからこそ苛立ちもするのだ。
「…?」
 ふと、クレインは部屋の隅にある、古風な造りの電話用テーブルを見やった。
 あれが鳴るのはどれくらいぶりだろうか。
 普段は携帯電話に事務的な用件でかかって来るだけで、あの電話が鳴ることはほとんどないのだ。
 あの電話につながる番号を、知っている人間自体がもう稀なのである。
 クレインは通常の彼らしくもなく慌てて、その電話を取りに行った。
「ええ…そう、ですね…はい、ええ…」
 驚きが入り混じった声で返答を続け、クレインは窓の外を見やった。
 見事なまでに晴れ渡った初夏の日。
 昼間は温度が上がることは必至で、彼は少々迷惑そうに眉をひそめた。
「ランチ、ですか…ええ、確かにその場所へはここ数年行っていませんけれど…」
 困った、と表情で告げて、クレインは髪を無造作にかき上げる。
「…わかりました、それでは、1時に、その場所で…」
 ややため息混じりにクレインはそう答え、静かに受話器を置いた。
 それから再度外を見やって更に深いため息をつく。
「仕事とはいえ…こんな日に外に出なければいけないなんて、ね…」
 クレインはそのまま、クローゼットに手を伸ばし、今日の太陽から、少しでも自分を隠すための準備を始めた。
 それは彼にとって、とても億劫な作業で、いくつもの服を出してはしまい、出してはしまううちに、すっかり意気消沈してしまった。
 一度など、本気で受話器を取り上げ、断りを入れるためにその相手の番号を回しかけたりもしたのだが、ふと、今日会う予定をした場所を脳裏に浮かべた瞬間、霧が晴れるようにその不機嫌さがすうっと引いて行ったのだ。
 彼にとっての、甘い、そしてやさしい記憶の残る場所――はしりの苺に似たその思い出は、今だからそう思えるような場所で。
 そこを知っている数少ない相手に、その場所で会えることに、何だか小さな満足に似た気持ちが芽生えてきたのだった。
 いつの間にか、彼が楽しい気分で服を選び、時計を選び、靴を、タイを選びしているところに、最初に気付いたのは、部屋の隅の籐の椅子に座っていた黒猫だった。
 猫はしのび足で主人に近付き、ぱっと前足を閃かせると、クレインの足にがしっとしがみついた。
「今日はあなたと遊ぶ暇はありませんよ?」
 そっと両手で猫を引き剥がし、再度床にトン、と置く。
 だが、猫の方は主人が楽しそうにしていることが、自分には関係がないなどとは思っていないらしい、今度は主人の椅子の後ろにかけられた緋色のタイに飛びついた。
 しかし、滑る素材で作られていたので、見事に空振り、またもや猫は果敢にもそのタイにジャンプを試みた。
 それに気付いたクレインは小さく笑って、猫のジャンプと同じタイミングで、反対側にタイを揺らす。
 またしても、猫はタイを仕留められず、数歩下がって低く唸っていた――「意外に手強い敵だ」とでも言いたげに。
 そんな黒猫の様子を見て、クレインはジャケットを肩に羽織り、ちがうタイを手に取って声をかけた。
「それは今日一日、あなたに貸しますよ」
 そう言いつつ、その部屋を後にする。
 ドアが閉まり際、猫がまた緋色のタイにアタックしているところを目にして、吹き出しそうになりながら。
「そうですね…」
 玄関から外へ出て、まぶしい太陽の下で、クレインははやる気持ちをおさえられずに、つぶやいた。
「この気持ちを、あの猫にも分けてあげなくては不公平ですよね…」
 そうして、門へと続く小道を歩きながら、クレインは帰りに、あの黒猫のために、何か目新しい遊び道具でも買って帰ろうかと、楽しい想像を巡らせて、ゆっくりとその場所を歩み去って行ったのだった。


〜END〜