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鈴音先生の日常――通勤編
夜という静寂の薄黒いヴェールが次第に薄れていくように、街もまた目覚め始める朝。深緑に彩られた清清しい空気と爽やかな風が吹くなんとも素晴しい朝は誰の心にも優しく微笑み、そして人々も自然笑みを浮かべていた。
だが、そんなこっちゃ彼女の心には入る隙間はないらしい。
「ち、遅刻だぁ〜!!」
昨夜確かに『7:00』にセットした筈の目覚まし時計は何故かタイマーが解除され、しっかりと平たい……じゃない、未発達な胸に抱いていたのが8分前。カーテンの隙間から差し込む陽光に目を覚ました現在の時刻は7:32。
顔面蒼白、頭の中真っ白パニックの状態でも教師としてあるまじき行為『遅刻』という状況を回避すべく、響月・鈴音の脳はフル回転を始める。
始業時刻は8:00。普通コースで行けば学校までは30分。ショートカットコースは15分。
(まだ、間に合う!)
器用に着る物着ながら、トースト頬張り鈴音は大慌てで玄関を飛び出した。
朝の光に目を細めながら、鈴音の住む棟に一基しかないエレベーターへとマンションの廊下を走った。
下降のボタンを押し、表示パネルを見上げれば運が悪い事に鈴音のいるすぐ下の階から誰かが乗って下降し始めたところらしい。じりじりと焦る気持ちを抑えつつ、一定のリズムで階を降りていく表示パネルを見上げていた鈴音は悲鳴に近い声をあげた。
「なんで止まるのよぉ〜?!」
2という形のランプが光ったまま動かず、早く動けと念じるが一向にエレベーターは動く気配が無い。
「あーもう!遅刻しちゃう〜〜」
痺れを切らし、鈴音は非常口と書かれた外階段の扉を勢い良く開け、一段抜かしで階段を駆け下りていく。
オールサイバーではあるが、普段の運動能力は外見同様子供並み。だが、今は遅刻できないという緊張感からいつも以上の集中力が発揮され、快調に階を降りていく。
「今日遅刻したら……遅刻したら……廊下に立たされちゃうよ〜!」
そう……遅刻するわけにはいかないのである。
「てぇぃ!」
「きゃ!?」
最後の4段を大きく跳び、上手に着地した鈴音だが、いつも外掃除をしているおばさんと危うくぶつかりそうになり、おばさんが小さな可愛らしい悲鳴をあげる。
「あ、あなたはまた〜!階段は駆け降りてはダメだといつも言ってるでしょ!あ、コラ待ちなさい!!」
「ご、ごめんなさ〜〜い!!」
目を吊り上げ怒るおばさん。鈴音は泣きたい気持ちになりながらも、階段からのリズムを失わないようにすぐさま走り出しその場を後にした。
「ふぇ……ごめんなさいー」
学校では教師である自分が注意をする立場なのに、情け無いと思いながらも今はそれどころではない。
マンションの敷地内を出た鈴音は一瞬だが、思案する。普通コースとショートカットコース、どちらに行くべきか?
一分でも早く着きたい。なら、勿論……
「ショートカットコースっ!」
マンション前の道路を駆け、すぐさま脇道へ飛び込んだ鈴音は背の低いアルミ製の柵を越え、植木の隙間を無理矢理突っ切り、小さな公園を横切る。公園を抜けると目の前は民家の塀。何の躊躇いもなくその塀をよじ登ると、軒先があり盆栽の並んだ棚がありと古典的な日本の民家らしい庭が見下ろせる。
そこへひらりと飛び降りた鈴音は庭を横切りながら、軒先で日向ぼっこをしながらお茶を啜っていたおばあちゃんに元気に声だけで挨拶をした。
「おはようございます、おばあちゃん!」
「あぁ、おはよう〜……もう、45分かぇ。どれ、朝のドラマでも見ようかねぇ」
ずずっと茶を啜り、よっこいしょとおばあちゃんは立ち上がり家の中へと戻っていった。
おばあちゃんの庭を出た鈴音は朝の商店街を駆け抜ける。途中で魚屋のおっちゃんやら天ぷら屋のおばちゃんやらが走る鈴音に、また遅刻かい?とか声をかけてくるが、返事を返す余裕はない。
ちらりと腕時計に目をやれば時刻は7:49。
なじみの駄菓子屋の犬が鈴音の姿を見つけて嬉しそうに尻尾を振って吠えるが、それに声だけで答え、駄菓子屋へと入る鈴音。
「おはよう、タロ。おはようございまーす!」
店の奥。住居となっている部分へ大きく声を張りながら、靴を脱ぎそのままズカズカと中へと入っていく。案の定というか、お約束。家の中では朝食の真っ最中である。
「皆さん、おはようございます。お邪魔しました」
住人も慣れたもので、早足で居間を抜ける鈴音にのんびりとおはようと言葉を返していたりするのだから、鈴音がいかにこのルートを使っているのかが分かるというものである。
縁側へ出た鈴音は靴を履き、裏戸から外へでる。そして見えてきた目指す校舎! 学校へ辿り着くにはあと一件人の家の敷地を突っ切り、川を渡れば裏門に着く。
駄菓子屋の裏戸から真っ直ぐに伸びる細い裏路地の先はT字路になっており、分岐点に建つ家の裏戸を鈴音は開け中へと飛び込んだ。
「ここは通さん!!」
「お、おじさん?!」
鈴音を待ち構えていたのはこの家の大黒柱。裏戸のすぐ前で仁王立ちし、手には竹箒を持っている。
「お前さんがいっつもいっつも勝手に家ん中通るお陰でおちおち飯も食ってられねぇ!ちゃんと公道を通って行きやがれ!!」
「そ、そんな〜!おじさんのこの家を通る方が近いんですぅ〜お願いします!」
「駄目だ駄目だ!さ、帰った帰った」
「そんなぁ〜!?」
まさか通行拒否されるとは思いもせず、鈴音の目の前で無情にも扉は閉められた。
がっくり肩を落とし、アスファルトの上に座り込む鈴音。だが、今は落ち込んでいる時間もない。
よろよろと大通りへ出た鈴音は半べそかきながら遠くなった学校へと一生懸命に走る。
が、道とは到底呼べない道を走り続けた鈴音は荒い呼吸をしながら重たくなってきた足にどんどんと絶望感が募りはじめる。
「ふぇ……このままじゃ遅刻ですぅ……」
鼻を啜った鈴音はふっと後ろを見た。
そこには鈴音と同じ学校に通う男子生徒の姿。彼もまた遅刻するかしないかの瀬戸際らしく、必死な顔で自転車をこいでいる。
「へいへい、タクシー!」
「誰がタクシーだ!」
親指をびっと立てる鈴音にやって来た男子生徒は大袈裟に顔を顰めて止まった。
「いいじゃないですか。それより、はい。行って」
ちゃっかり自転車の後ろに乗った鈴音は男子生徒の肩を叩き学校を指差す。
「げっ!降りろよ、鈴音〜お前オールサイバーだから重いんだよ」
「呼び捨てにするんじゃありません。響月先生と呼びなさいって言っているでしょう。ほらほら、早くしないと遅刻しちゃうから!」
「うげっ!そうだったー」
慌てて自転車を漕ぎ出す男子生徒だが、オールサイバーの体重は体格と身長から予想される数量の2倍。つまり、鈴音の場合は軽く成人男子の体重くらいはある訳で、一漕ぎするだけでも相当な労力がいるらしくヨロヨロノロノロと自転車は動き出した。
「ほら、もうすぐ始業時間だぞ。走れ」
のんびり登校してくる生徒達にそう声をかけながら、生活指導教諭は腕時計を見た。あと1分でチャイムが鳴る。
「ん?」
「ほら、頑張ってください!あと少しで学校ですよ。ほらほら!」
「う……る、せぇ〜分かってるっての〜〜」
ゼーハー荒い息をしながら自転車をこぐ男子生徒を急き立てる鈴音は腕時計を見た。
「あぁ!あと30秒!!…………20秒…………10秒!……8……7……」
「だぁぁぁあ!!」
最後の体力を振り絞り、男子生徒は校門へと自転車を漕ぎ入れた。
「やったぁ!良く頑張りました。偉いですよ♪」
ぐったりと荒い呼吸を繰り返す男子生徒の頭を撫で、遅刻を免れ上機嫌の鈴音は校舎へと歩き出そうとしたが、その襟首を誰かが掴む。
「待ちなさい、響月先生」
「あ、安岡先生。おはようございます♪」
「おはようございます、じゃない。なんですか、教師ともあろう者が生徒が漕ぐ自転車で登校してくるとは!しかも、遅刻ギリギリに。あれほど余裕を持って登校しなさいと言ったはずです!もう今日という今日は許しませんぞ!」
「ふぇ〜そ、そんな〜〜!?」
ズルズルと生活指導教諭に引き摺られ、響月先生の情け無い声が校内に響いた。
それから一時間――両手にバケツを持って廊下に立たされている響月先生の姿が見られたそうな。
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