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■+ 忘れ得ぬ…… +■
その部屋は、一言で言ってしまえば何もない部屋だった。
いや、確かに、必要最低限のものはあるし、余程の特別室などでもなければ、この部屋の状態と言うのは一般のそれと大差ないのだ。花瓶に花が生けられている訳でもなく、果物が芳香を放っているでもないと言った、所謂『彩り・潤い』と言うものがないだけ。
少々クスリ臭いのは、当たり前と言っても良いだろう。
そう、ここは診療所なのだから。
端に寄せられたベッド、その横にある薬や機材などが詰め込まれた棚、ベッドの横にある簡素な椅子などなど。こう言った、所謂診療所ならではと言える。
ただ、一般のそれと大きく違う点もある。そこの窓が、見事に塞がれていると言うことだ。塞がれている理由は、シンプルである。
窓があると危険なのだ。以前ここは、何処ぞの誰かに襲撃を受け、それを切っ掛けに現在の主が居座ることになっていた。
言わば、昔の轍を踏まぬ様にと言うことだ。
「大分、良くなって来てますね」
包帯をきっちり巻き終えた黒い髪の医師が、現在患者となっている彼を、品定めするかの様に、夜色の瞳でちろりと見た。
普通の人間であれば、彼にそんな風に見られたのなら、萎縮してしまうだろう程に威圧感のあるものだが、緑の瞳を持つ目の前の青年は、全く以て平然としている。長い黒髪を五月蠅げに背中へと流すと、その彼、ケヴィン・フレッチャーは、医師であるリュイ・ユウに向かって、唇を歪めて答えた。
「解ってんなら、もう退院しても構わないだろ? このまま寝倒してたら、身体がなまっちまう」
深く落ち着いた色の緑は、けれどとても鮮やかな印象を見せている。それは恐らく、彼が持つ意思の力から生み出されるものなのかもしれない。そして彼が簡単に退院と言ってのけてはいるが、ユウ以外の医者が聞けば頭ごなしに巫山戯るなと言われることは間違いがなかった。
入院を要する程の傷であったのだ。いくら現在は塞がったからと言って、とても軽傷とは言い難かったのに、彼はまるで負った傷が切り傷でもあったかの様に振る舞っていた。
ちなみに一般人なら、これほど早く治る訳はない。では何故、通常の人間よりも治りが早かったかと言えば、それはケヴィン自身が気付いていない能力のお陰であった。
「全く、貴方と言う人は、無茶を仰いますね」
「何処が無茶だ?」
もう痛くないとばかり、彼は腕をぐるぐる回す。
「……」
ユウはあまりに自分の身体に無頓着であるケヴィンに向かって、呆れた様な視線を返した。
「解るまで、入院は続行ですね。俺も『あの診療所は、完治していない患者を放り出す様なところだ』などと言う、事実無根な風評は、立てられたくはないですし」
まあ、経過を見るに、退院して通院と言うことでも大丈夫だとは思うのだが。
「誰がんなこと言うんだよ。ったく…。あーあ、まーだこんな、クソ面白くもねぇトコに寝てないと行けないのか」
「文句があるなら、己の迂闊さと言うものを呪うんですね」
「言ってろ」
肩を竦め、ユウはキッチンへと入って行き、既にドリップが終了したコーヒーを手に取った。二人分をカップに注ぎ、更にミルクを入れようとしたが、一つ入れた時点でふむと考える。
「ま、今日は普通にコーヒーで良いですかね」
そう呟き、再度キッチンを出て、既に恒例となってしまっているタダ飲みコーヒーをケヴィンに出すと、え? と言う顔で返される。
「何ですか?」
「いや、カフェオレじゃないと思って」
「……。別にカフェオレにしても良いんですけど」
「いや、良い。サンキュ」
ずずっと啜り、その口が『ああ、美味い』と言っているのを確認し、唇へと笑みを浮かべてユウも啜る。
「そう言えば、前に記憶喪失だと、言ってましたよね?」
ケヴィンの飲む手が止まる。
怪訝な面持ちでユウを見るが、表情を一転。にやりと笑って返して来た。
「そうだよ。……あんた医者だろ? 記憶喪失とかも解るよな? 記憶喪失って、何でなる訳?」
「……それは俺も知りたいです」
その声が、何時もとは違った様に聞こえたのだろうか。疑問の色を、ケヴィンが浮かべている。
ユウは僅かに逡巡。
しかし、瞬き一つ分の時間を得ると、彼は躊躇いつつも口を開いた。
「俺も、貴方と同じ、記憶喪失なんですよ」
「………え?」
きっと、今の自分はとても間抜けなツラをしているのだろう。
ケヴィンはそう断言できる。
けれど、まさか自分と同じ様な境遇の人間がいるとは。いや、こんなに近い位置にいるなんて……と、そう思いつつ『近いって何だよ』と、溜息を吐きそうになってしまった。
『ああ、知った奴がそうだったってことだよな』
そんな風に、無理矢理自分を納得させた。
何となくバツが悪いなと思いつつも、何故か視線を外すタイミングを失い、ユウと見つめ合う様になってしまう。
だがそんな沈黙を、彼が破った。
何かを思い出そうとしている様に。
「目が覚めた時、周囲にあったのは瓦礫と埃と……そんな感じでしたねぇ。まあ埋まらなかっただけ、マシなんでしょうけど」
マシと言えるのが凄い。自分は一体どうであったのか。
瓦礫の中で目覚めることがなかったのだから、一概に比べることは出来ないだろうが、それでも病院で目覚めた時の、あのいい知れない浮遊感、全てをなくしてしまったと愕然とした気持ちを忘れることはないだろう。
「あのさ、何か覚えてることとかないのか?」
少しでも何か覚えていることがあると言ってくれるなら、こうして何だか訳もない焦りに見舞われて来た自分の救いになるかもしれない。彼が覚えていると言うなら、きっと自分も気が付かないところで、何かを手放していないかも知れない。
そう期待する。
「ありましたよ」
思わず心が躍った。
けれどそのケヴィンの跳ね上がった心臓は、次の瞬間にとどめを刺されそうになってしまう。
「生きるに当たって必要最低限のことなんかですけどね。ああ、大昔の映画のタイトルとかの、言ってみればくだらないことも。ただ、自分のことだけを、すっかり忘れていたんですよ」
「……」
何処か自嘲した様に言う彼は、日頃の嫌味なくらいに自信満々の彼とは少し違う気がする。
「取り敢えず、直ぐに身体状況を確かめましたよ。まあ、命に別状はありませんでしたし、動けない様な怪我もしてませんでしたから、特に不自由はしなかったですね」
『まずはそれか?』
ケヴィンは脱力しつつ、会話を続ける。
「あのさ、起きて直ぐがそれ? てか、不自由しなかったって……」
不自由するだろう。自分が何者かを忘れ果てていては。
そう思う。
「自分の状況を確かめるのは、とても大切なことだと思いますけど?」
当然だとばかりに言うユウが、ゆっくりカフェオレを啜っている。
「いやまあ、そうなんだけど…」
「それに起きた場所は、あまり治安が良いところとは思えませんでしたしね。直ぐに移動出来て、良かったと思いますよ。道々、ちゃんと生活必需品も、有難く頂くことが出来ましたから」
「有難くって、それ、勝手に頂いて来たんだろうが……」
身体の力が抜けそうだ。落としては不味いと、ぐいと飲み干してから、マグカップをゆっくり下へと降ろす。勿論シーツの上に置くと言う愚は犯さない。
「まあ、そこからは、一応医者に診て貰ったりはしましたけどね。途中で有耶無耶になりましたけど……」
その有耶無耶と言うヤツを聞いてみたい気はしたが、どうせロクでもないことを『ユウが』しでかしたのだろうと思ったケヴィンは、聞くことを止めた。
黙ったまま、何とはなしにカップを弄っていると、更に彼が口を開く。
「ところで、貴方はどうだったんですか?」
不意に話を振られ、はっとして顔を上げると、やはり黒い瞳とぶつかった。
その時ケヴィンは、その瞳に引かれる自分を感じる。理由など解らない。けれど、何故か見ていたい、そう思ったのだ。
もしかしたら──?
その思いを振り切る様に、彼は自分のことを話し出す。
「……あんたと殆ど似た様なもんだ。俺は瓦礫の中から、掘り出されたらしい。起きた時には、もう病院だったけど、やっぱり何にも……あんたみたいに自分のことだけは、綺麗さっぱり思い出せなかった。もう、三年も前の話だ」
内臓を絞り上げられる様な焦燥感。熱い何かが胃の底から吐き出される様な、そんな痛み。コーヒーカップを握りしめ、何とか平静を保とうとして、ケヴィンは口を開いた。
「医者から名前を聞かれたな。でも、そんなん解る訳ないだろう? 自分のことは、すっかり記憶からなくなってる。名前だけ思い出せったって、無理な話だ。だから、言われるまま、自分で名前を作った」
あれから、ケヴィンは新しい自分を手に入れた。それが前と比べて上等なものであるかなど、誰にも解らない。
だからこそ、聞く。
「記憶、思い出したら、何か変わると思うか?」
そのケヴィンの顔は、何処か頼りなく見えた。
まさか自分に縋っているのだろうか、そう考えて否定する。
「まあ……、記憶の内容にも依りますが」
だよなと、彼が呟いた声が聞こえる。
何だかユウは、面白くなかった。
まるで昔の記憶が、とても素晴らしい物だと言って欲しい様に聞こえたのだ。
当たり前ながら、ユウにはケヴィンがなくした記憶のことなど解らない。ユウが知っている彼は、既に『ケヴィン』であったから。
だからこそ、いや、もしかすると、過去を振り返って、そして懐かしんで、……今のこの現状を悲観されるのがイヤだったのかもしれない。
そう、悲観することが、哀れではなく、イヤなのだろう。
目の前で、自分の知らない過去を懐かしむことが許せない。
「ま、俺の記憶は、きっと良い記憶だと、そう思ってますが」
これはホンの意地悪だ。
そしてあまりに天晴れに言い切るユウに、ケヴィンは心底呆れた顔をする。
「そのご立派な自信は、一体何処から来るんだか……」
「当然、日頃の行いですよ」
捨てられそうな子供の様な緑の瞳を向けられ、ユウの心がざわついた。
そのざわつきを隠す様に、彼はケヴィンの頭をポンポンと叩く様に撫でる。
「貴方の記憶も、取り戻したくなる様なものだと良いですね」
少しの罪悪感。
けれどそんなものが、自分にあったのかと言うことに関して、ユウは驚きを否めない。
『きっと、何時もみたいなリアクションが返って来ないから、調子が狂ってしまったんでしょうね』
そう思う。
尤も、珍しくケヴィンが大人しいのは、やはり彼にとって一番気になることだったからかもしれない。
通常なら、こうして頭を撫でていると、まるで人に慣れない山猫の様に、飛び退っては毛を逆立てるのだ。
ぽむぽむと撫でていると、ふと気が付いたことがあった。
「……。貴方、染めているんですね」
暫く入院していたのだ。一人で出歩き出来ているならばともかく、こうしてここで大人しくしている為、根本の色が変わっている。
黒より可成り薄い為、上から見ると良く解った。
「勿体ないことをしますね。それに、そうやって染め続けていると、今にハゲてしまいますよ? 昔と違うとは言え、そうやって染めるのは、あまりお勧めできる様なことではないと思いますね」
途端にユウの手を払いのけると、ケヴィンはむっとした様に答えた。
「ほっとけっ。この髪は、前から染まってたんだよ。気付いた時には、……既にな」
その気付いた時と言うのが、記憶を失ってからだと解らない程、ユウも間抜けではない。
そしてだからこそ染めていると言う、ケヴィンの気持ちが解らない程、ユウは鈍くもなかった。
「こうやって染めてたのは、何か意味があってなのかもしれないだろ」
そこに見えるのは、失われた過去への懐慕か。
「……そうですね。俺の眼鏡も、そうですからねぇ」
虚を突かれた様に、ケヴィンの顔がユウに迫る。
「これも、そうなのか?」
じっと、そして密やかに、二人の視線が、重なった──。
脳髄を犯す様に広がるのは、緑──。
怒濤の様に押し寄せるそれは、全てが鮮やかな緑だ。眩しい位、瞳を焼く位、冴え冴えとした緑。
けれどそれは懐かしい。
思った刹那。全ての色は、変わり果てた。
ドクンと、彼の胸で、何かが唸る。
すり替わる映像は、何処かで見たことのある……。
まるでサイレントムービーの様に、セピアの唇が言葉を紡いだ。
『何? 何を──?!』
問う声すら聞こえない。
視界全てにノイズが入り、その唇が消える。何も、見えない……。
熱く冷たい衝動は、背筋を這い上がって、けれど消えない。
脳の片隅にこびり付いた不安は、けれど増すばかり。
このまま抜け出すことが出来ないのかもしれない。
このまま『また』置き去りになるのかもしれない。
そう感じた彼は、瞬間、クリアになった視界に見つけた。
緑の瞳を、ただただそれだけを、見つけた──。
「おいっ、って!」
肩を揺すられ、漸く取り戻した意識。
「何だよ。黙るなよ……」
びっくりしたじゃないかと、唇を尖らせるのは、ケヴィン。
そう『ケヴィン』だ。
まるでもう一度、記憶喪失になったかの様に、ユウはゆっくりと認識した。
「ああ、……済みません」
怪訝な面持ちで彼を見ると、どうしたとばかりに促している。
まさか今見えたことを話す訳にはいかない。
「いえ、最近困った患者がいましてね。ドクターストップを解除しろと、本当に五月蠅いんですよ。お陰で俺も、ちょっと疲れ気味なんです」
「嘘つき」
即座に代える返事を聞き、ユウはにやりと口角を上げる。
「おや、俺が疲れるのは可笑しいですか?」
「別にっ!」
ぷいと横を向くケヴィンの手から、マグカップを取り上げた。
中身は空だ。
「このまま放ったらかしにしていると、不衛生ですからね」
そう言ってユウは、そっぽを向いたままのケヴィンをじっと見る。
瓦礫に埋まっていた彼と、その瓦礫の中で目覚めた自分。
以前の習慣を持ち続けるケヴィンとユウ。
記憶喪失と言う現状。
そして。
そして、──緑の瞳。
「まさか、俺たちは……」
口に出してしまったユウは、慌ててその次を続けることを止めた。
ケヴィンが、何だとばかりにこっちを見ていたからだ。
けれど確実に、彼の思考に残ったことがある。
『まさか、俺たちは知り合いだった……?』
奇妙な符号。そして共通点。
そう考えても不自然ではないのかもしれない。
「何だよ、黙り込んで。言いたいことがあるなら、言えば?」
焦れているらしいケヴィンに、ユウは言う。
「退院、しますか?」
その言葉に、目を見開く彼が、即座に嬉々として日頃から身につけている服を着、靴を履いた。手早く荷物を纏めると、そのまま外への扉へ歩き出す。
『ああ、還って行くのですね』
何処へ?
不意に襲う不安は、ユウらしからぬ台詞を生んだ。
「名前だけでなく、今度は誕生日を作ってみましょうか?」
僅かな、そして気まずくなる間だ。
けれどそれは、ユウ自身の錯覚なのかもしれない。
「なーに言ってんだか」
呆れた様なケヴィンを見て、この顔を『知っていた』、そんな気がした──。
Ende
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