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<東京怪談ノベル(シングル)>


■+ 空へ続く交点 +■

 「なぁ、もうちょっと負からない?」
 そう言って、ピーマンと人参、その他諸々の食材を掲げて、彼は真剣な面持ちで、四十に差し掛かろうかと言う食品店の親父に言う。
 しかし親父も頑固だ。
 「びた一文、負からねぇ」
 腕組みをし、あろう事か値切りに入っている青年に向かって、これまた真剣に相対する。
 「解った。大根も買う。これで七掛けっ!」
 「安すぎるっ」
 「いやっ、もうこれ以上、負からない!」
 ちなみに負からないと言っているのは、先程から値切り倒している青年──ケヴィン・フレッチャーである。
 彼が『負けろ』と言う度に、その黒い馬の尻尾がべこんと揺れる。親父を見る緑の瞳は、闘志に燃え燃えていた。
 「兄ちゃん、ここの相場、マジで解ってっか?」
 「解ってる。それを承知で、おっさんに頼んでんじゃないか。な? この貧乏暇無し好青年の家計簿ってヤツを、真っ赤っかから真っ黒……とまでは行かないが、取り敢えず微妙な黒に変えてやってくれよ。おっさんが負けてくれるかくれないかで、俺の明日は決まってくるんだよ。なあ、前途有望な男前を見捨てるつもりか?」
 律儀に家計簿を付けているのか、いや、それほど切羽詰まっているのかと、実は義理人情に厚い親父は、溜息を吐いた。頑固一徹親父と言う者は、基本的に義理人情に厚いと相場が決まっているのだ。
 多分……。
 人と言うものは、金がない金がないと言いつつ、本当に切実にならないと収支管理を怠ってしまう。家計簿などは、うんとこさ喰い盛りを抱えた主婦の皆様であればともかく、こう言った年若い者が、普通は付けるものではない。付けているとすれば、一レアルでも節約したい場合にのみの話だろう。
 勿論ながら、個人差でもあるのだが。
 そしてケヴィンが家計簿を付けているのは、実は習慣……の様なものだ。確かに節約家ではあるのかもしれない。節約家でなければ、そもそもここで値切ることなどはしないだろう。
 節約。
 良い響きであると、ケヴィンは信じている。
 しかしただ単に、『良い響き』と言うだけではなかった。
 気が付くと、何故か毎月の収支を計算し、僅かばかり黒になると笑みが浮かんでしまうのだ。まるでDNAにインプリティングされているかの様に。
 「……解った。兄ちゃん、負けたよ。……七掛けでOKだ」
 「え? さっき、六掛けって言わなかった?」
 「………」
 「言ったよな?」
 にっこり笑うと、何故だろう、とても迫力があった。
 親父は再度、溜息を吐く。
 「参った。解った。それで良い……」
 「毎度ありっ!」
 親父の顔には『一体それは、どっちの台詞だ』と、心の超極太油性マジックで書いてあった。



 何処の店でも値切り倒し、一般の皆様よりは破格に安い値段で買い物を終了して家路を急いでいたケヴィンの顔は、けれど何故か暗い。
 「……ったく、たっけーよなぁ、マルクトの物価ってヤツは」
 値切られた店主達が聞けば、こめかみに青筋を作りそうになる台詞だ。
 今から帰るねぐらは、当然ながら仮のものだった。帰っても誰一人としていない。暗い部屋。
 今まで三年の間、そうして暮らして来たにも関わらず、何故か慣れない。
 元々自分は、人と馴れ合うタイプでもなかったから、本当なら一人で暮らすと言うのは、性に合っている筈だ。なのに、振り向いても誰もいない部屋と言うものに、可成りの違和感を感じてしまう。
 『ヘンだよなぁ……』と、心の中で呟いた。
 その時、何気なく見上げて見えたのは、やはり綺麗とは言い難いセフィロト特有の天井だ。
 「はぁ……」
 思わず虚しい風景を見てしまい、溜息が出た。
 「見える訳、ないのになぁ…」
 上を見上げるのは、何時の間にか身に付いていた癖だった。
 空を見よう、そう思って上を見るが、何故かそこには、何時も見えていたと思うそれがない。僅かに戸惑いを覚えるも、直ぐにここが空のないところであると理解する。その繰り返しだった。
 ケヴィンが胸に持つ空は、セフィロト内部、マルクトのそれではない。
 何処までも続くのは、こんな味気なく埃っぽいグレーではなく、清々しいまでの透明感を持つ青だ。
 例えこのセフィロトの外へと出て、どんな場所を訪れたとしても、お目に掛かることはないだろうと思ってしまう程の力強い青。
 そんな青い空を感じていると、何かを思い出しそうになる。
 けれど滲む青に手を伸ばしても、するりとした身のこなしで擦り抜けてしまい、何時まで経っても手にすることは出来ないままだ。
 きっとその答えは、手放してしまった記憶を勝ち取った時に解ることなのだろうが、それでも、記憶の残り香だと感じるからこそ、見えないと言うことも忘れて、上を仰いでしまうのだ。
 何時になるか、気の長い話ではあるが、焦っても仕方ないのだと、ケヴィンは自分に言い聞かせた。
 「そう言えば、もう三年にもなるのか……」
 ケヴィンが言う三年とは、彼がここで暮らし始めた時のことだ。
 「何つーか。色々、あったんだよな」
 彼の思考は、この三年の間を彷徨い始めた。



 多分この地に自分が辿り着いたのは、いるのかいないのか解らない神様の気紛れである。
 そうケヴィンは思った。
 瓦礫の中で発見され、瀕死とは言えない怪我で済んだことはラッキー。
 その代わり何だかどうだか、今までの自分を失っていたのはアンラッキー。
 ラッキーだったのは、恐らく自分は運動神経と言うものを、人よりも多く持っていたからだろう。
 そしてアンラッキーだったのは、恐らく自分のことには、大して執着がなかったからだろう。
 そう結論づけた。
 けれど結論はそうつけたものの、現状からあまり前進した様には思えない。
 とにかく、この世界で暮らして行くには、働かなければ食べてはいけないのだ。
 だから、ラッキーの原因と思しき運動神経をフルに生かせる職業に就くことに決めた。
 けれど何故かそれは、順調とは言い難いものでもあった。
 もしかすると、アンラッキーだった執着心のなさ故に、上手く行かなかったのかもしれない様な気もする。
 いやしかし、それだけではない気がするのだ。
 「は? 悪いが、もう一度言ってくれないか?」
 「だからー、この目ん玉を運んでくれって言ってんだよ」
 少しばかり強張った表情であるケヴィンは、目の前の男が言ったことを、理解できなかった。
 それはどう見ても、機械の固まりである。
 義眼と言うものがあることくらい知っているが、これはどう見ても普通の義眼には見えない。いや、ケヴィンは普通の義眼を見たことは、多分ないと言えるのだが、それでもこの機械の固まりを目だと言われて納得は出来なかったのだ。
 こんなむき出しの機械を、生身の人間に付けたならどうなるのだろう。
 「……目玉?」
 そうケヴィンが問いかけると、何を言ってるんだとばかりな視線が返った。
 「そーだよ。サイバーアイ。これをサイバーのヤツらに取り付けるんだ。まさか、見たことねぇとは、言わねぇだろ? ま、これはちょっと特別製だがよ」
 『サイバー……アイ?』
 全く以て、初めて聞く、そして初めて見る代物だ。
 しかしそれを素直に言う訳にはいかなかった。
 何故なら、その男の雰囲気から、これは知っていて当然の知識であると言うことが見て取れたからだ。
 ケヴィンが第二の生を得たのは、弱肉強食、つまりのところ、強者が弱者の上に立つ世界だ。どんな小さな弱みでも、見せることは出来なかった。ここで常識であることを知らないと言ってしまえば、もしかすると今後の仕事の際、大きくボラれてしまうかもしれない。
 疑心暗鬼と言う名の敵が、ケヴィンの心を歩いている。
 「ああ、……そうだな。ちょっと気になったところがあったから……」
 可成り苦しい言い訳に聞こえるが、全ての感情を閉じこめる様な顔で見ると、男は何故だか解らないが、納得をした用だ。
 「お前さんの言うのは、ここんとこだろ?」
 サイバーアイとか言う機械にある突起物を指さされるも、本当のところはさっぱりだった。
 だから否定も肯定もしない。
 この男が親切なヤツであるのならともかくとして、もしも狡猾なヤツなら、ケヴィンにカマをかけているかもしれないのだ。迂闊に頷くことは出来ない。
 黙り込んだままのケヴィンに、肩を竦めた男は溜息混じりに口を開いた。
 「あのなぁ、K。こう言う運び屋ってのも客商売なんだぜ? そこんとこ、解ってるか? もっとな、愛想と言うもんを付けねぇと、クレーム来るぞ」
 愛想と言われ、ケヴィンの顔は引きつった。
 「こ、こうか?」
 無理矢理笑みを作るも、相手の男は、やはり溜息を吐くだけだ。全くダメと言われているのが良く解る。
 何度かやってみるが、芳しい答えは返らず、結局その仲介屋の元を後にした。
 お届け先は、やはりと言うべきか、当然と言うべきか、少なくともたおやかな淑女や品の良い紳士が、護衛も立てずに歩くことの出来ない様な場所である。
 こう言う時は、何故か備わっていた気配を察知する能力や、それを叩き伏せることの出来る技術が有難い。そこそこ考え事をしていても、不意に何か、アンテナに引っかかった時の様に、危険を知る事が出来るのだ。
 荷物を小脇に抱えつつ、ケヴィンは先程言われた愛想と言うものを考えてみる。
 どうやら愛想と言うものは、昔から持ち合わせていなかった様だ。けれど現状では、持っていなかったから仕方ないと言う言い訳は通用しない。
 違う仕事に転向しようかとも考えるが、この世界では、他に一体どんな事が出来るのか、皆目見当も付かなかった。
 人として生きて行く上での一般常識はあったとしても、この世界の一般常識と言うものが欠落している……いや、最初から全くなかった様な気がするのだ。
 記憶の様に『失った』と言う話ではなく。
 サイバーと言う知識然り、タクトニウム・シンクタンクと言う存在然り、レアルと言う通貨然り。
 ともかく今までの欠落は、他人の見よう見真似で何とか凌いで来たのだ。今度の愛想と言うヤツも、誰か知り合いでも参考にしよう。そう思う。
 だが。
 「……いないな」
 悲しいかな、第二の人生を歩み始めて三ヶ月前後。
 知り合いと言えば、先程の仲介屋程度しかいない。いや、仲介屋は数名いるのだが。
 所謂仕事の関係しか、知人と呼べる者がいない。そしてその数少ない知人の顔を想像するも、愛想笑いのお手本にするには、あまりに品がなさ過ぎた。それも仕方のない話ではある。出来るだけ人と関わり合いにならない様にと言う姿勢が、仇になっているのだ。
 「どうしようもないな、俺は」
 ふと。脳裏を横切った青い風。
 何故か懐かしく感じるそれに、ケヴィンの顔から自然に笑みが零れた。
 「あいつは、良く笑って……。──?!」
 全身が鳥肌立ち、ケヴィンの瞳が見開かれる。
 迫るのは曇りなき晴天を思わせる、青。
 『思い出したっ?!』、そう思うも束の間。
 その像は、即座に霧散してしまった。



 「ホント、後は記憶だけなんだけどなぁ……」
 あの頃と比較して、格段に愛想は良くなった。少なくとも表面上は。
 そして当然のことながら、この世界の知識と言う物も可成り増えている。
 言葉通り『後は記憶のみ』の状態なのだ。
 ケヴィンは大きく溜息を吐き、苦笑した。
 溜息分だけ幸せが逃げる。
 そう言う言葉は、一体何処で聞いたのだろう。
 荷物を抱えなおしたケヴィンは、下を向いたまま、溜息を吐くのも飽きたとばかりに歩き出した。
 が。
 一瞬、黒いそれに視界を覆われる。
 「──わっ?!」
 間隙に見えたのは、ここにはない筈の晴天。
 手に抱えた荷物が、思わず飛んでいきそうになり、ケヴィンは慌ててそれをしっかり確保する。
 「俺の一週間分のメシ!」
 袋から零れ落ちそうになっているピーマンを、出て来るなとばかりに押し込んだ後、怒り心頭で怒鳴っていた。
 「このっ! 詫びもなしかよっ!!」
 しかしそう言ってももう遅い。
 既にケヴィンにぶつかって来た男の姿はなかったのだ。
 路地から出てきたのは、軍用コートを羽織った自分より僅かばかり高い背で、鮮やかな金の髪、鋭い青の瞳を持つ、小麦色した肌の男だった。
 「ったく…。何だよ、あいつは! 今度あったら覚えてろ。後ろから蹴り入れてやるからなっ!」
 まるで負け犬の遠吠えだと言われそうな台詞を吐くも、彼の心は落ち着かない。
 ちらと捕まえた、あの青い瞳が、何故か。
 何故か。
 ──心に残った。
 「…ったく」
 どうかしてる。
 心でひっそり呟いたケヴィンは、ぶるると頭を振ると、彼のねぐらへと帰って行った。


Ende