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■+ 危険な香り +■
日差しのきついこの地方で、長時間外出することは、なかなかに大変である。
そうなると、紫外線対策は、彼にとって必須のこと。
外出時は、その紫外線カット──昔はUVカットと言ったらしい──の黒いコンタクトを装着し、更にサングラスを掛けて瞳を保護する。
いくらセフィロト内部であったとしても、やはりもしもの時を考えると、慎重すぎる程に慎重になるのだ。彼としては。
だから印象的な赤い瞳は、今は見えない。
ただ、光を弾く銀髪だけは、人々の目に焼き付いている。
彼、クレイン・ガーランドは、現在真剣な面持ちでお買い物の真っ最中であった。
「ああ、これなんかも良いかもしれませんねぇ」
ソファに凭れ掛かりぱらぱらと分厚い雑誌を捲りつつ、クレインは笑みを浮かべて呟いた。
彼の横では、やはりソファの上で、気持ち良さげに舌を出した黒猫が眠っている。時折、夢でも見ているのか、びくんびくんと動いていた。一緒に暮らし始めた当初、その身体の跳ねる様を見て、病気か何かなのだろうかと思っておろおろしていたが、実は病気とは無関係であると、今現在は知っている。安心して腹を出して眠っている猫をちらと見て、彼は微かに笑った。
クレインが見ていたのは、お菓子の本だ。
勿論、パンフレットと言うものではなく、その作り方が載っている。
スイーツ、デザート、ドルチェ。
色んな風に呼ばれるそれは、人の心に温かな気持ちをもたらしてくれるものだ。
「この前のパウンドケーキは、もう少し改善の余地がありそうですけれど……」
未だ目処が立っていない。
ならば少し目先を変える方が良いのかも知れないと、彼は思って本を見ていたのだ。
以前幾種類かのパウンドケーキを持って、とある診療所を訪ねたことがある。そのパウンドケーキは、何だか微妙な味と形であった為、クレインは再度お菓子作りに挑戦するつもりであった。
一緒に食した人物から、次回からは更に別の人間を紹介してくれると言って貰えたから、その人の為にも、そして勿論、彼の為にも張り切って作ろうと思う。
微妙にずれているのだが、当然の如く、クレインは気付いてはなかった。
パウンドケーキを食した彼は『二回目からのご相伴を希望』しており、新たに紹介する人物を毒味役として差し出すと言っていたのだ。けれど物の見事に、そのことはクレインの脳内でスルーされていた。
彼の中にあるのは、ただ『やはり食べてくれる人がいると、張り合いが出ますねぇ』と言う、ほのぼのとした気持ちだけである。
確かに、あまり外界と接することをせずに暮らしていた時には、作っても所詮自分一人で食べるのだと思うと、あまり楽しい気分にはならなかったことを思い出す。
食事は義務で、必要であるから摂っていた。作ることも、また同じだ。
けれどこうして誰かのことを思いながら作ると、何処かうきうきとして来るのだ。
「そう言えば、あの方は甘い物がお好きなのでしょうか?」
菓子を食うのだから、甘い物が全くダメと言う訳でもないだろうが、それにしても限度と言うものが存在することも当たり前の話ではある。
「これは甘過ぎますかねぇ…」
現在のページは、生クリームとカスタードクリームがこってりたっぷり入っているシュークリームである。
次のページをぱらりと捲る。
「フロマージュですか…。こちらも美味しそうですねぇ」
チーズがたっぷりと入ったふんわりフロマージュは、確かに美味しそうに撮れている。更に繊細な指先が、続きを捲った。
「アーモンドと黒スグリのケーキ……。これもまた……」
何だか自分の食べたいものになっている気がする。
「……ええと、そうではなく」
何が喜ばれるのだろう。
ぱらぱらとページを進めて、中身を眺めつつ考えていく。
ブランマンジェも美味しそうだし、ロールケーキも美味しそうだ。パリブレストだって、見目も豪華で良い感じだろう。
だが。
「ああ、これなんか、良いかもしれませんねぇ」
クレインの目に止まったのは、ティラミスだった。
「これなら、コーヒーにも合いそうですし」
材料に目を通して行くと、少々買い物に出なければならないことが解った。
「おや……」
最後の箇所に目を落とすと、何やら違うお菓子ともリンクしている様な書き方だ。
そのページを捲ったクレインの唇が、ほんのりと笑みを浮かべる。
「これにしましょう」
「ええと…。これで全部ですよね」
リストに纏めた材料名と、現在手にしているものを見比べた。取り敢えず、漏れのないようにと、購入したものには線を引いて解る様にはしていたのだが、やはり買い残しがないかは気になってしまう。材料だけでなく、家になかった調理器具も同じく買い足していた為、可成りの荷物となっていた。
作り始めてから、足りないと言うことが解っても、直ぐに手に入れることが出来るとは限らないのだ。
クレインは、休憩がてら入ったカフェで、じっくり中身を確認した。
はっきり言って、この時代、お菓子の材料を忠実に買い揃えるとなると、可成り大変である。物資が有り余っている訳ではないのだから、当然と言えば当然であるが。
だからクレインも、出来る限りは書かれている材料を購入しているものの、少しばかりは代用品で済ますこととなっていた。
「一応、余分に買ってもいますし、大丈夫ですね」
漸く安堵したクレインは、冷たいアイスティに口を付けた。
『パネットーネのティラミス風ケーキ』
クレインが作ろうとしていたのは、これであった。
元々…と言うか、昔であればパネットーネとは、イタリアでクリスマス用のケーキとされていた。けれど現在、そんな風習はあってなきが如くである。
食べる余裕のある者は、何時であろうと食べたい時に食べ、しかし余裕のない者は、その名すら知らないだろう。
そんなケーキだった。
まずは下に引くパネットーネ作りからだ。
パネットーネ菌と言う物が、マーケットに存在しなかった為、イースト菌を使用しているので、パネットーネとは言い難いかも知れないが。
とまれ、クレインは本をじっくり読みつつ、計量カップとキッチンスケールにて、分量を量る。……取り敢えず、強力粉と砂糖は。
「水と牛乳は一対一ですか……。でも、牛乳が多い方が、まろやかになりそうですね」
何故か初っぱなから、自分テイストな方向である。
取り敢えずは自分基準のそれを計量カップできっちり量ると、少しだけ暖め、分量を量り置いていたイースト菌と混ぜ合わせた。これは泡立ってくるまで放置だ。
次ぎに卵と塩と砂糖を泡立て器を使ってクリーミーになるまで混ぜ合わせる。
「……やっぱり砂糖は少なめの方が、良いのかも知れませんね」
きっちり計ったそれを、何故か少なめに入れている。
ここにかの人がいれば『……ちょっと待って下さい』と、ストップが入るのだろうが、生憎クレインの他にいるのは、牛乳の香りに引かれて足下でじゃれついている黒猫のみである。
流石に猫は、突っ込みを入れない。
鼻歌交じり、泡立ってきた牛乳多めの材料に、強力粉を加えて混ぜ合わる。更にクリーミーになっているそれを加えて混ぜて、バター、レーズン、オレンジピール、ナッツなどを加えて捏ね合わせた。
「綺麗に混ざりましたね」
満足げにそう言ったクレインは、まず一回目の発酵を待つことにする。その間に、ティラミスのクリーム作りだ。
卵黄のみを混ぜ合わせ、白くなった時点でマスカルポーネと言うフレッシュチーズを加え、更にふんわりとなる様に混ぜ合わせる。残った卵白に砂糖を入れ、角が立つまで泡立てた。
「ここで混ぜ合わせると、発酵までの時間が空いてしまいそうですねぇ…」
通常なら、卵黄+マスカルポーネ組と、卵白+砂糖組をそっと混ぜてから生地の上に乗せ、冷蔵庫で冷やすのだが、今回生地となるパネットーネがまだ出来てない。
どうしようか思案するが、取り敢えず今のまま冷蔵庫にいれることにした。
一回目の発酵はまだである。
その間、クレインは足下にいる黒猫に、ちょっとだけですよと言い含めて、牛乳を注いでやる。喜んで飲んでいる猫を、ぼんやりと見ていると、時間はあっと言う間に経ってしまうのだった。
「出来ました……」
甘いけれどほろ苦くもあり、何処か大人の香りのするケーキだ。
見た目も、以前のパンケーキと違い、完璧である。
出来上がったそれは、上がココアとコーヒーの粉が模様を描いており、それ自体がまるで一つの絵画の様に見えた。
一番下にはパネットーネの生地が敷かれ、その上にティラミスクリーム、フルーツ、もう一度ティラミスクリームと言った具合で、横から見ても見目良い出来となっていた。
ただ。
「これは、……味見をするのが勿体ないですねぇ」
そう。
彼は、あまりに出来映えが宜しくて、味見をする気になれなかったのだ。
出来るなら、この綺麗なまま見て欲しい。
そう思った。
「まあ、これだけ綺麗に出来ているんですから、きっと味の方も大丈夫ですよね」
クレインは完全に忘れていた。
きちんと計っていたのは、『自分テイスト』での分量であった為、必ずしも本の通りの出来になってはいないことを。
しかし。
大層満足したクレインは、エプロンを外していそいそ外出の準備を始めたのであった。
Ende
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