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<東京怪談ノベル(シングル)>


雨の日サバイバル

 暗い診療所内に灯るのは蛍光灯使用の懐中電灯。災害時やキャンプなんかで、光の指向性は必要ないが、とにかく周囲を明るくしたいときには便利な奴だ。
 閉め切った窓や戸からは光は入ってきていない。もっとも、今の状況を考えるに、窓や戸を全開にしていたとしても、光は入ってこなかっただろう。
 今、外は凄まじいまでの豪雨だった。
 幸い、元は軍の弾薬庫か何かだったのか、やたらと頑丈な診療所は、内に雨音すら伝えないほどに分厚いコンクリートで出来ている。雨くらいでどうと言うこともないだろう。
 もっとも、「どの方向からアプローチしてもスリル満点という素晴らしいロケーション」だ等と言わしめる立地条件にあるこの診療所。雨で川は水量を増し、泥地は底なし沼に変わり、行き来できる状態ではないだろう。
 だからリュイ・ユウは、ここは籠城するより他無しと決めていた。どうせ、外に出ていかなければならない理由はないのだし‥‥と。
 普段、忙しさを理由に全く手を着けてなかった部屋の掃除を‥‥と、言う事を考えつつも、結局はそんな事はせずに暗がりの中で半日、蔵書の整理の名目で積み上げていた本の類を斜め読みしつつ、ただ場所を変えて積み替えて時間を潰す。
 蔵書が何やらただ散らかっただけのような惨状になった頃、リュイ・ユウは今までに百度は読み返したような愛書から手を放し、適当にそこへ置いた。
「そろそろ、お腹がすきましたね」
 一人暮らしの診療所。リュイ・ユウが作らなければ、誰も食事は作らない。
 面倒ではあるが、食事を抜こうという考えには達せず、リュイ・ユウは本の山の中から歩み出すと、台所へと向かった。
 何があったか‥‥と、考えつつ、燃料電池式の冷蔵庫を開ける。そこで、リュイ・ユウの思考は停止した。
「これは‥‥‥‥」
 冷蔵庫の中には、チリソースの小瓶が鎮座ましましており、それ以外の物はチリソースに遠慮してどこかに行ったかのように何もなかった。
「!」
 リュイ・ユウは身を翻すと、今度は台所に置かれた戸棚を開ける。乾物や、穀類の袋などが置かれている筈のそこには、コーヒー豆が置かれていた。
 南米は、産地だけ有って良いコーヒー豆が手に入る。いや、それは良い。問題は他だ。
 袋からこぼれたらしい豆が三つほど落ちている。しかし、それ以外には何もない。
「ああ、そう言えば買い出しに行く予定でしたね‥‥」
 思い出す。予定はしてあったのだ。いつも買ってるマフィア経営のマーケットに連絡して、幾つか希少な物も含む食材の類を集めておいてくれるよう頼んでもいた。
「仕方がありませんね。買い物に行くしかないですか‥‥」
 苦々しげに言ってリュイ・ユウは、作業道具を詰め込んだ倉庫に足早に突入し、ゴム長靴とゴム合羽を引きずり出して装着した。
 そして、そのまま迷いもなく外への扉を開け放つ‥‥

「‥‥ダメですか」

 直後、見えたのは水の壁とでも言うべき雨のカーテン。
 あんな所に踏み込めば、たちどころに溶けてしまう。本当はそうはならないだろうが、そう思わせるに十分な量の雨だ。
 リュイ・ユウはドアを閉じ、忌々しげにゴム合羽を脱ぎ捨て、ゴム長靴を脱ぎ、台所へと戻った。
 そして、残された物資を確認する。
 チリソース。コーヒー豆。豆が3粒。
 水‥‥これはまだたっぷりと備蓄があるし、無くなっても雨水を使えば何とかなる。しかし、食料がないのはいかんともしがたい。
「落ち着きましょう。現状、作れるメニューは‥‥」
 考えるも、答は二つ。チリソースをお湯で薄めたスープ。コーヒー。以上。
 豆は、チリソーススープの具として花を添える程度が関の山だ。
「私の頭脳を持ってしても、この壁は超えることが出来ませんか」
 後は、医療用の薬品を食うぐらいしか道はない。ブドウ糖の錠剤なんぞは食えそうだが、他の薬は食うべきじゃないだろう。
「サバイバル開始と言うところですか」
 言いながらリュイ・ユウは、何の気無しにその場にあったメッセージボードに線を一本書き加えた‥‥


 そして、三日目‥‥メッセージボードに線は3本。
 ここに至り、思い知った。コーヒーとチリソースだけだと胃に悪い。覿面に来る。
「‥‥‥‥」
 テーブルにつき、スープ皿の上の赤い液体をスプーンですくう。そして一口。
 コーヒーに荒れた胃に、チリソースがしみた。
 食欲なんかはないが‥‥それでも、じっと我慢で機械的にスープ皿と口の間をスプーンに往復させる。
 食欲はとっくに失われていたが、医者として、必要カロリーに遠く及ばない生活をしている自覚がある以上、乏しいカロリーを確保するためにも目の前の液体を胃に収めなければならない。
 何のために、こんな事をしてるんだか‥‥
 遠い国の修行僧達は、悟りを開くために苦しい修行を積んだという。
 なるほど、OK。悟りの日は近い。
 思考は回る。スープ皿の赤い液体と、コーヒーカップの中の黒い液体は減らない。
 しかしその苦しみも、何にも食えなくなってからは懐かしく思えるようになった。


 新たな線をメッセージボードに加える。線の数は7本‥‥途中、わかりやすく線が短くなってから4本目だった。
 全ての食料がつきてから4本目。そろそろ、線を引く気力すら尽き、遭難の二文字が脳裏をよぎりだしている。
 自分の家で遭難というのも笑えない。だが、雨の止まない限り、遠からず自分はここで死ぬ。水だけなら一ヶ月は持つだろうが‥‥それは、一ヶ月は安楽でいられて、ある日ぽっくり逝くような安易な死ではないだろう。
 苦しんで、苦しんで、苦しんで死ぬのだ。
「ろくな死に方しないとかは、言われたもんですが‥‥」
 大当たりするとは思っても見なかった。いや‥‥そんな事で死んで溜まるかと思う。こんな所で‥‥と。
 リュイ・ユウは、ふらつく体を無理に立たせ、歩き出した。このままでは死ぬ。ならば、最後まで足掻いて生きようと。
 雨に泥濘と化したであろう道を歩けるだけ歩き生にしがみつく。それで倒れたならば、そこでくたばってやろうと。
 診療所の中で死んでいた日には、きっとミイラか腐乱死体になって発見され、「ああ、先生も、ああ見えて倒れれば死にもする人間だったんだなぁ。無愛想な人だったが、死んでしまえば哀れなものだ」なんて同情されるに決まってるのだ。そんなのは許せない。
 死ぬなら、外で死んでやる。外で死んで、ケモノのエサにでもなって、皆には夜逃げしたかのように思わせて「ああ、あの野郎、溜めたツケを溜めっぱなしで逃げやがった」とくらいは言わせてやる。皆の中で、元気のいい自分は生きるのだ。実に小気味よい。
 空腹は思考を鈍らせる。リュイ・ユウはふらふらとドアに歩み寄っていった。
 思考がまとまらない。体はそのまま、ドアに手を伸ばす。その手がドアに触れる直前‥‥ドアは、向こう側から開いた。
 光が、ドアの向こうから溢れ出る。
 ああ、これは何処かで見た。これは、子供の頃、いや、もっと遠く母から生み出されたその時に確か‥‥
 生誕直後の記憶にまで意識を飛ばすリュイ・ユウ。が‥‥直後に駆けられた声に、リュイ・ユウの意識は現実に引き戻された。
「先生ひさしぶりっす。取りに来ないんで、配達しにきましたよ」
 ドアの前に間抜け面を晒して立つのは、近所の離村を拠点とするマフィア組織の下っ端の若者だった。
 とは言え、物流を支配しているマフィアが経営するマーケットの店員と言った程度の奴であり、特に危険のある相手ではない。
 そう、彼はいつも利用しているマフィア経営のマーケットの店員なのだ。
 鈍った思考は、其処に至るまでにも数秒を要した。
「どうしたんすか? もう5日も前に取りに来るはずだったのに店の方に顔も出さないで。急患か何かで? あ、生鮮品は新しいのに取り替えといたんで、ご安心を。待ってたら、くさっちまうところでしたからねぇ」
 若者は勝手にベラベラ喋りながら、両手に抱えた木箱を診療所内に運び込み、適当に置く。
 中には、食料品と消耗品の類が詰め込まれているようで‥‥
「‥‥って、先生?」
 次の瞬間、若者が見たものは、木箱の脇に座り込んで、中の物を食い荒らしているリュイ・ユウの姿だった。
「どうしたんすか、先生?」
「雨は‥‥ぐっ!? ごほ! ぐはぁ‥‥」
 がっついてたパンを喉に詰まらせ、リュイ・ユウは多少苦しんだ後に、木箱の中からミルク瓶を引っぱり出して中身をあおり、パンを胃に流し込む。
「‥‥しまった。もっと噛むべきでした。空腹が続いて胃が弱っている時に、急に食料を詰め込むべきではなかったですね」
 何はともあれ、食料を胃に入れた体‥‥特に脳は再びの活性を見せていた。
「いや、気にしないでください。それより、雨はどうしたんですか? 嵐が来ていた筈なんですが‥‥」
「嵐? ああ、一週間前の? すぐやんだけど凄かったっすね」
 若者は、アホ面を下げて言う。が、リュイ・ユウは、今の自分はこの若者のアホ面を通り越した間抜けだと思っていた。
「そう‥‥ですか、と言う事はすぐに雨は止んだんですね」
 空腹に‥‥ではなく、何か精神的に体から力が抜けていくのを感じながら、リュイ・ユウの中で一つの決意が固まりつつあった。
「翌日にはスッキリっすよ。それがどうかしたんすか?」
「何でもありません」
 萎えそうになる気力を振り絞り、何とか努めて冷静を装い、リュイ・ユウは答える。
 そうだ引っ越ししよう。こんな、頑丈なのは良いが、外の事が全くわからない診療所なんて。
 そうだ、引っ越すのだ。
 それはとても素敵な事だと思えた。