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揺り椅子
彼は背後の塔を振り返り見た。
塔は天を貫いていた。
塔は『破滅』の象徴だ。
ここに長く居座る気にもなれない。
しかし、リュイ・ユウは、ここのところセフィロトの塔に――塔内部の都市マルクトの片隅に住み着いていた。彼はいつでもそこを出ることが出来た。義務も課せられていないし、稼がねばならない理由もない。目的も使命感も持ち合わせてはいない。それどころか、塔を出たいと考えていた。
この塔は不吉だ。
科学(医学も、充分に科学であるといえよう)の寵児であるはずのユウだったが、時折そうして唐突に、かたちも定義もないものに駆り立てられることもある。
彼は人間であったから。
ヘブンズドアの入り口前で、ある晩、リュイ・ユウの腕を見込んで頼みを押しつけた者がいた。ユウが知らない、乞食じみた男だった。昼と夜の区別がつかないマルクトであったし、周りには人が多かったから、ユウはそのとき、男の顔をよくあらためることも出来なかった。
「ちょっと前だ……ちょっと前なんだが……ゲートの向こうで一山当てたんだよ……これであんたに診察を頼める。リュイ・ユウさん……あんた、腕がいいんだろう。……このあたりじゃ、評判だ……。金は払う……おれの女房を診てもらえんか……」
雑踏の中で、依頼人の声はかき消されかけていた。ユウは眉を跳ね上げ、口をへの字に曲げて、ようやく男のことばを聞き取った。
金があるなら、とユウは頷く。
「この辺りは法も何もない状態ですが、俺は医師免許も何も持っていません。非合法の治療になります。代金はこちらの言い値になります。それでもよければ」
「かまわない。そこらのヤブ医者では……妻を任せられない。どうも、重いようなんだ……よろしく頼む」
依頼人は、うっすらと笑ってみせた。
そうして、ユウは男のおんぼろジープに乗せられ、塔を出ている。
男の自宅は、塔の外にあるという。
風が、男の顔を隠していたフードを剥ぎ取った。男の顔が、ようやくユウの目にとまった。ユウは眉をひそめる――診察が必要なのは、この男のほうではないのか。かさかさに乾いた肌にはびっしりと皺が刻まれ、男の年齢すらも覆い隠してしまっている。この男が年寄りなのか単なる皮膚病を患った壮年なのか、ユウにさえ容易には見分けられないほどだった。
しかし男は、自分の容態についてはなにも口に出さなかった。ただ、妻を診てほしい、妻を診せるだけで満足なのだと、言っていた。ジープを駆りながら、男はぽつりぽつりと楽しげに語る。
自慢の妻は、料理が得意らしい。
「しかしな……最近、台所に立つのもつらくなってしまったらしい……椅子に座ったまんまで、自分からは動こうとしないんだ。……動けないんじゃないかと。だが俺は……素人だからな。病気とか怪我っていうのは……素人判断がいちばん危ない。……そうだろう、先生」
「ええ」
「あんたと連絡が取れて……本当によかったよ。……ああ、あすこだ。あの家だ……」
言われて前方に目をやったユウは、またしても目を疑った。
病んだ夫婦が住む家というのは、バラックといったほうがいい代物だ。傾き、窓は割れ、錆びた屋根のところどころで毒々しい花が咲いている。
「きたないところだが」
男は、正直に言ったつもりなのか、謙遜したつもりなのか。あまりといえばあまりなあばら家に、ユウはいつもの毒舌を控えた。ただ、もう少しで「そうですね」と相槌を打ってしまいそうだったのは確かだ。
南米の暑さは、あばら家の中のものの臭いをかきたてているようだ。男がドアを開ける前に、ユウは覚悟を決めていた。
間違いなく、それは屍の臭いだったのだ――。
「ただいま」
男はそう言っていた。ごく自然に、口をついて出たことばだろう。
「先生を連れてきたぞ。昨日話しただろう、リュイ・ユウ先生だ……具合はどうだ、大丈夫か……」
散らかった居間らしき空間には、古いラジオがあり、揺り椅子があった。椅子には、誰も座っていなかった。男は確か、妻は椅子に座ったまま動こうとしない、と言っていたはずだが――。
ユウが無言で椅子を見つめていると、奥の部屋に行っていた男が戻ってきた。
「ああ……昨日、椅子からベッドに移してやったんだ……。横になっているほうが楽だろうと思ってね……。女房は奥だよ……よろしく、頼む……」
「――わかりました。ここでお待ち下さい。診察しましょう」
「……コーヒーでも、飲むかい?」
「いえ、お構いなく」
ユウと男の間を、ぶうん、と蝿が飛んだ。かさかさぱりぱりという呟きは、蛆と鼠が餌をあさる音か。こんなところで淹れられるコーヒーは、たとえミルクたっぷりでも、遠慮したいところだった。
死臭に満ちている。
ユウは今さらその臭いに顔をしかめることもない。
だが、この臭気が日常を構成する要素のひとつに組み込まれてしまったなら、それはそれで哀しいことだと――ユウは思い、こっそり嗤った。
嘲笑ったところで、気分を害する人間はこの場にひとりもいない。
垢じみた不潔なベッドに横たわっているのは、屍以外のなにものでもなかった。蝿はたかっていたが、腐敗はさほどひどくもない――彼女は、ミイラ化している。おそらく腸閉塞を起こしていたのだ。食べたものを身体は吸収せず、彼女はただ痩せていくばかりだったにちがいない。皮膚は変色し、すっかり干からびていたので、なんとも言えないが――きっと、依頼人と同じような肌で死んでいったことだろう。
ものの5分の『診察』で、リュイ・ユウにはさまざまな過去と真実が読み取れた。しかし、解せないのは――男のこころである。
男は、椅子に座ったまま動かず、蝿とキスをしているだけの妻が、まだ生きていると思っているのだ。
――信じたくなかったか……それとも、思い込んでいたいのか……。
どちらにせよ、金を取ることは出来ない。
検死は診察とは呼べないからだ。
ユウは手術用のゴム手袋をしたまま、居間に戻った。男は揺り椅子の前に置かれていた木箱に腰かけていた。
ユウの姿をみとめるや、男は、乾いた不安が浮かんだ顔で立ち上がった。
「どうだった……あいつは、良くなるのか……」
「俺が治療するまでもありません。すぐに良くなりますよ」
(治療するどころの騒ぎではありません。すぐにこの家ごと、焼いてしまって下さい)
「本当か……そうか……よかった……ありがとう……!」
「ただ、なるべく清潔にしてあげて下さい。シーツも洗うか、取り替えるかして……部屋の中も掃除したほうがいい。空気もまめに入れ替えて下さい」
「わかった。気をつけるよ……」
男は懐の中から、汚れた財布を取り出した。中から金をすべて取り出し、のろのろとユウに差し出す。
彼は、「一山当てた」と言っていなかったか。とても「一山」と呼べるような額ではない。
――それとも俺の基準が、高くなっただけか。
わずかばかりの金を差し出されて、リュイ・ユウは笑みを浮かべ、首を横に振った。
「俺は『診察』も『治療』もしていません。お代は結構ですよ」
「ほ、ほんとうか……?」
「はい」
男がユウを見上げる目は、医神を見る目だった。
ユウはその視線から目をそむけた。
その男の皮膚から目をそむけ、
飛びまわる蝿からも、這いずる蛆と鼠からも、澱んだ空からでさえ、目をそむけた。
ただ視界には、緑色の葉だけをおさめておいた。
「よかったな……よかったな、すぐよくなるそうだ……頑張るんだぞ……おれも頑張って一山当ててみせるから……なあ、よかったなあ……」
半年後――いや、3ヵ月後か――ともかく近いうち、自分はまたここに来た方がいいかもしれない。それともヘブンズドアで暇人に頼んでみようか。
あの不浄は、幸福なまま焼きつくさねばならない。
あれはそのうち、『破滅』を呼ぶ。
ああ、使命が出来た、と彼は思った。そうして、嗤うのだ。
とりあえず根城にもどったユウは、全身をくまなく消毒した。
<了>
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