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<東京怪談ノベル(シングル)>


 『差し伸べられた手』


 射抜くような日差しが、身体の表面をちりちりと焼く。
 どこかから、蝉の鳴き声が聞こえる。
 そっと目を開けると、逆光で影となった――

 怒号。
 銃声。
「逃がすな!一人残らず殺せ!!」
 悲鳴。
 血飛沫。
 倒れる――嗚呼、倒れていく。
 世界が。
 そこにあった世界が、崩れる。
 たった今まで、手の届く範囲だった世界が、陽炎のように儚いものとなる。
 ガラスの板で仕切られたような感覚。
 目の前で起こっているのは、現実だろうか。
 夢なら良かったのに。

「あまり遠くまで行っちゃ駄目よ。夕飯までには帰ってきなさいね」
「はーい」
 人口が百人にも満たない、小さな村。
 周囲を鮮やかな緑に覆いつくされた山々が囲み、小川が流れている。
 のどかで、美しい風景。
 穏やかな日常。
 少女は、日よけの麦わら帽子を目深に被り、元気に走っていく。
 景色が、ゆっくりと後方に流れていった。
 やがて、友人たちが川で水遊びをしているところまでたどり着く。彼女も、それに加わった。
 誰かが、水をこちらに向かって掛けて来たので、負けじと彼女も仕返しをする。
 無邪気な笑い声が、辺りに響いた。
 飛び散る水が、日の光を浴びて、キラキラと輝く。
「つめた〜い!きもちいい!」
『熱い……苦しい……』
「あははははっ!」
『助け……て……』
 川の清らかな水が飛び散り、髪を、顔を、服を濡らす。
「あ〜あ。びしょびしょ〜」
「すぐにかわくよ」
 濡れたTシャツをパタパタとさせると、水に濡れた部分が赤く染まる。
「あれ?なんで?」
 顔についた水を、手の甲で拭う。
 そこには、べっとりとついた赤いもの。
 少女は、訳が分からないまま、呆然と立ち尽くした。
 水飛沫が跳ねる。
 血飛沫が跳ねる。
 飛んできた鳥が、友人の胸を貫いた。
 悲鳴。

「ほら、そんなところで寝てないで。もうご飯よ」
 目を開けると、見慣れた部屋だった。
 さして広くはない空間。
 ダイニングルームで、父が新聞を読んでいる。
 母が、テーブルに料理の皿を並べている。
 何だか、凄くホッとした。
「ほら……こっちに来なさい」
「え?」
 言葉の一部が、どうしても聞き取れない。
「どうしたの?……ほら」
「おかあさん?」
「……?」
「おとうさん?」
「ん?どうした?……」
 何故。
 何故父も母も、自分の名を呼んでくれないのだろう。
 自分には、名前がないのだろうか。
 そんな、いいようのない不安が、胸に込み上げてくる。
「ねえ、あたしのなまえは?」
「どうしたの?……」
 母も父も、怪訝そうな表情で――否、表情が読み取れない。それは、まるで影絵のように朧げだった。
「おねがい!あたしのなまえをよんで!」
「……?何があったの?」
 聞こえない。
 聞こえない。
 母の腕に縋ると、それがぐにゃり、とあらぬ方向に曲がった。そして、母は糸の切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちる。
「いやっ!おかあさん!」
 思わず後退ると、手が、テーブルの上のスープ皿に当たり、それをひっくり返してしまう。
 血のように赤いスープが、テーブルクロスを汚し、そして、床に滴り落ちる。
 血のように。
 血。
 異臭。
「やぁぁぁぁっ!おとうさん!」
 振り向いた先には。
 上半身が吹き飛び、黒く煤けた人型があった。
 暗転。

 暗い。
 そして、布地が見えた。
 周囲に恐る恐る目を向けると、寝息を立てている人の姿があった。
 父と母。
 そうだ。
 今日は、三人で、山にキャンプをしに来ているのだった。
 安堵の溜め息がこぼれると共に、温かいものが胸の中にじんわりと広がる。
 何も心配することはない。
 夏でも山の夜は冷える。寝袋に包まり直すと、目を閉じて、眠りの海へと潜り込んでいく。
 虫が、穏やかなハーモニーを奏でている。
 何かの声が聞こえる。梟だろうか。
 ザッ。ザッ。ザッ。
 あの音は何だろう。狸か何かかもしれない。
 ザッ。ザッ。ザッ。
 否。
 ザッ。ザッ。ザッ。
 複数の――靴音。
 爆音。
 怒号。
 銃声。
 悲鳴。
 何故。
 何故こんなことに。
「おとうさん!おかあさん!おきて!」
 必死で父と母を交互に揺さぶる。
 そこにあったのは――血みどろの肉塊。
 悲鳴と共に、テントが、崩れ落ちた。

 射抜くような日差しが、身体の表面をちりちりと焼く。
 どこかから、蝉の鳴き声が聞こえる。
 そっと目を開けると、逆光で影となった人物が、こちらを見下ろしていた。
(だれ……?)
 意識がはっきりして来ると同時に、後頭部に鈍い痛みが走る。その痛みに、思わず顔を顰めたが、目の前の人物から目が離せなかった。
 その人物がゆっくりとこちらに近づいてくる。その所為で、光が動き、顔を照らした。
 男だった。三十歳くらいだろうか。優しげな笑みを浮かべている。その笑顔に、ホッとするのは何故だろうか。本当に、安心してもいいのだろうか。
 葛藤を続ける心とは裏腹に、身体は勝手に後ろへと動く。身体の節々も、酷く痛んだ。思わず、声を上げそうになる。
「大丈夫か?お嬢ちゃん」
 男は、そう言って、手を差し伸べてきた。
 この男を信用してもいいのだろうか。
 分からない――そして、怖い。
 首を小さく横に振るのが、精一杯の抵抗だった。
「怖がらなくていい。俺はお嬢ちゃんの味方だ」
「……ミ……カタ……?」
「そうだ。味方だ」
 そうして、また男は笑顔を見せ、こちらに出したままの手を振った。彼女は思わず、その手を取ってしまう。
 その手は、とても温かかった。
 夏の暑さとは違う種類の温かさ。
 もう、どうでもいい。
 そんなことを思った。
 目の前の男が、自分の味方ではなかったとしても、この手の温もりだけで十分だと思った。
 男のもう片方の手が背中に回され、軽々と持ち上げられる。もう、恐怖はどこかへと去っていた。
「あちゃー。あちこち怪我してんな。痛むか?」
 小さく首を振る。何となく、弱音は吐きたくなかった。
「そうか。お嬢ちゃんは強い子だな……名前は?」
「なまえ……?」
 思い出せない。
 何も、思い出せなかった。
「わかんない……」
 自分の名前すら分からない。その状況に愕然とし、気がついたら声を上げて泣いていた。男は、優しく抱きしめてくれる。彼の胸の中で、疲れるまで泣いた。
「名前……『嬢』ってのはどうだ?お嬢ちゃんだから、嬢」
 彼女が泣き止むのを待ち、男が笑顔でそう言う。
 冗談じゃない、と思った。そんな安直でセンスのない名前なんか。幾ら本当の名前を忘れているからといって、あんまりだ、と。
 でも。
 男の手の温もりが、あまりに優しかったから。
 思わず、頷いていた。


「――嬢!嬢!」
 門屋嬢は、自分を呼ぶ声に、目を瞬かせた。
 天井。
 見慣れた天井。
 身体に汗をびっしょりとかいている。
 自分が居るのは――リビングのソファー。
 嗚呼、そうか。
 全て、夢だったのだ。
「大丈夫か?何かうなされてたぞ」
「ああ、うん。大丈夫」
 目の前で心配そうにこちらを見ているのは、あの頃よりは老けたものの、ずっと変わらない優しい瞳。
 それにしても、自分は何の夢を見ていたのだろう。
 養父と出会ったシーンだけが、やけにくっきりと残っていた。
 嬢には、幼い頃の記憶があまりない。はっきりあるのは、夢と同じく、後に養父となる男と出会った時のことだけだ。
 養父の話によると、彼女は所謂、戦災孤児だったらしい。地図に載っているかいないかほどの小さな村がゲリラ戦に巻き込まれ、百人にも満たない村人は、彼女を除いて全て死亡した。彼女は、どうしてかは分からないが、村外れに倒れていたという。それを、偶然通りかかった養父が発見したのだ。
 頭部に怪我を負ったショックの所為なのか、心理的なダメージの所為なのかは判明しないが、記憶を失った彼女にしてみれば、養父から聞いた話は、まるでおとぎ話のように現実味に欠けていた。でも、それはある意味で幸いといえるかもしれない。覚えていたら、今も心的外傷に苦しみ続けていたことだろう。
 ただ、村の中には、自分の実の両親や、友人たちがいたのだろうと考えると、胸が締め付けられるような思いがする。
 何も書かれていない紙のように真っ白だった自分の前に、最初からそこにいたかのように立っていた養父。
 その姿が、目の前の彼に重なる。
 いつまでそうしていただろうか――否、実際は一瞬だったのかもしれない。時計を見ると、嬢は慌てて立ち上がった。
「あ!ゴメン、親父。夕飯作るね」
「あ、ああ。腹ペコペコだ」
 そう言って笑った養父に微笑み返すと、急いでキッチンへと向かう。
「なぁ、親父」
「ん?何だ?」
「……いや、何でもない。今日は魚にしようか」
「おお。嬢の魚料理は旨いからな」
「今日も腕振るうからね!」
 そうして、冷蔵庫から魚を取り出すと、素早い手つきで捌き始める。
 『嬢』という名前は、正直いって好きではない。出会った時の台詞からつけるなんて、センスの欠片もないと思う。実際、この名前でからかわれたこともしばしばだ。
 でも、ここまで自分を育ててくれた養父がつけてくれた名前。
 好きではないが――少しだけ、気に入っている。
 嬢は、先ほど飲み込んだ言葉を、胸の奥でそっと呟いた。

 ――ありがとう。親父に出会えて、あたしは幸せだったよ。