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<東京怪談ノベル(シングル)>


277秒の雨音

 酒場・ヘブンズドアの喧騒は、夜も更けた現在も静まる気配を見せないようだ。
 アルコールの香りと目に染みる煙草の紫煙、そして同じ話題をループさせながらも飽きる事無く語り合うビジターたち。
 レイカ・久遠はそんなざわめきをぼんやりと遠く聞きながら、カウンターでグラスを傾けている。
 コロンビア産というその酒の甘い香りに誘われて口を付ければ、滑り落ちる刺激に喉が熱くなる。
「くそっ! 俺のマスタースレイブが動きゃ出るんだがなァ」
「ハハ、酒浸りのお前がマスタースレイブで真っ直ぐ歩けんのか?
今だってテーブルにしがみ付いてんのがやっとだろ」
 レモンをかじりながら酒をあおるビジター二人の会話がレイカの耳に届く。
 二人のテーブルの中央には空になった幾つかの酒瓶と、雑音交じりの情報を流す小型ラジオ。
「久々にボトムラインが開くってのによ……」
 ラジオから流れるのは、娯楽に飢えるビジターから人気の高いマスタースレイブの闘技会――ボトムラインの開催を案内する番組だ。
 非合法ゆえに開催日時・会場も不定期だが、そこに懸けられる優勝商品は正規ルートでは目にすらできない、文字通りセフィロトからの『掘り出し物』だ。
「まあ俺たちは客席から金でも懸けながら見物してようぜ」
 なだめるように相方のグラスに酒を注ぎながら、酔いの浅い方のビジターが言った。
 テーブルに沈みながらも、グラスを受け取れば口を付けてしまうのが酔いどれの哀しい性だ。
「けどなァ……今回の優勝商品はセフィロトの内部データだぞ? 諦めきれるかよ」
 ビジターの酩酊に霞む思考を遮ったのは、涼やかに響くレイカの声。
「ちょっといい?」
 瞬間、緋色のジャケットに包まれた豊満な肢体とストレートに流れる金髪の輝きに、二人は目を奪われた。
 レイカはハンディ・コンピュータの画面を一瞥し、切れ長の瞳を真っ直ぐ二人に据える。
「ねえ、ボトムラインのエントリーって誰でもOKなの?」


 数日後、レイカはアマゾン上流を目指す船上の人となっていた。
 ボトムラインの開催される地は住む人も途絶えた廃墟で、セフィロトからは幾分離れているが船舶を使って移動すれば二日で行ける距離だ。
 ボトムラインはマスタースレイブを所持した者なら誰でも参加できると知り、レイカは早速主催者に連絡を取った。
 優勝商品は『セフィロト塔内部詳細データ』だけだったが、それだけで参加を決意するのに十分だった。
 その信憑性がどれほど薄くても。
 レイカは父親を探してこの街に来た。
 セフィロトで行方不明になったというレイカの父親だったが、その手掛かりは今までほとんど見つかっていない。
 そもそもセフィロト自体が謎に包まれているのだから。
 都市マルクトを抜けセフィロト深部へとたどり着いた後、帰還した者は皆無だという。
 ユダヤ神秘主義者によると、生命の木セフィロトは十のエリアに分かれ互いに連結しあった世界で、さらに高次元の世界を目指す足がかりとなるものだという。
 しかし審判の日、宇宙ステーション『アッシャー』は永遠に失われてしまった。
 目指すべき場所のないセフィロト、それを上り詰めたビジターはどこへと行くのだろう……。
「これ、あなたのマスタースレイブ? 変わった機体ね」
 レイカが船上でマスタースレイブの駆動部チェックをしていると、やや北米アクセントの言葉が背後からかけられた。
 振り返るとまだ少女の面影を残した娘が、レイカのマスタースレイブ――リッパーを見上げている。
 三つ編みにした茶色の髪とそばかすの頬、薄く開けられた唇があどけない。
「そう、私の。確かに、少し変わっているかもね……」
 リッパーの外見を特徴付けているのは、他のマスタースレイブの1.5倍の長さがある腕と、全体的に丸みを帯び、異常に張りあがった肩のフォルムだ。
 デッキに佇む真紅のリッパーは、対岸をどこまでも続く熱帯雨林の緑の中、束の間羽根を休めた南国の鳥のように見える。
「……あなたも、ボトムラインに出るの?」
 娘がレイカに視線を移す。
 マスタースレイブを持っているというだけで、週末に控えたボトムラインに参加するとまで推測できるものだろうか?
 この娘は、その優勝商品が何かも知った上で聞いてきたのか?
 一瞬、返答につまったレイカだが、正直に答える事にした。
 今、デッキにいる人影はまばらで、少女の瞳に曇りは見られない。
「そのつもり。
私はセフィロトで消えた父の手掛かりが欲しいの。
ボトムラインが非合法でも、手掛かりになる可能性があるなら私はそれに懸けるわ」
 娘はすっと瞳を細めて、レイカの視線から逃げるように俯いた。
「お父さん、見つかるといいね」
 それだけ言い残すと、娘はレイカの前から足早に立ち去っていった。
 

 密林の奥深く、ビジターの探索もろくに行われていない廃墟を会場にボトムラインは開かれていた。
 主催者背後にマフィアが関わっているのか、急ごしらえとは言うものの、試合の結果に懸ける金を集めて配当を渡す事務所や酒場、売店、簡素だが宿泊施設まで設営されている。
 ボトムライン決勝戦、階段状に見下ろす客席の中央、円形の闘技場でレイカはリッパーと共に荒い息をついていた。
あと一つ勝てば、セフィロトのデータが手に入る……なのに!
 順当に勝ち上がってきたレイカだが、闘技開始直後から降りだしたスコールにセンサー類の稼動精密度は全て下がり、相手の機体に接近する事もできないのだ。
 しかし、相手は射程ギリギリの距離から正確にリッパーを狙い撃ってくる。
 センサーの条件は向こうだって最悪のはずなのに。
 ランスシューターで牽制しながら間合いを詰めるのだが、すぐにレイカの攻撃範囲外に逃げられてしまう。
 一撃の威力は小さいものの、試合開始から200秒経過した今、被弾ダメージは全体の60パーセントを越えようとしている。
 スコールは激しく、装甲を打ち付ける音まで聞こえてきそうだ。
 無意識に何度か手の平を握り、開いて、レイカは懸命に平静を保とうとした。
 今までの相手を屠ってきた高周波クローも、相手の間合いに入れない今では使えない。
 ましてセンサーの効かないこの状況では不利だ。
 ……どうすれば、勝てる?
 闘技開始前に見た相手マスタースレイブは特に目立った武装もない、平凡な機体だった。
 あんな機体に、このリッパーが負けるなんて。
 いや、母が乗りこなしてきたこの機体が、負ける筈はない……!
 リッパーの肩からサブアームが展開し、高周波ワイヤーカッターがしなるように広がった。
 その場にいる者全てを切り裂く、無慈悲な殺戮の糸。
 発生した高周波に、リッパーのまわりの雨が白く霞んでゆく。
「これが私の……ジョーカーだっ!!」
 一気に距離を詰め、レイカは相手マスタースレイブにワイヤーカッターを振るおうとした。
「そんな……」
 リッパーのサブアームは肩の接合部より変形し、ワイヤーカッター自体の高周波も出力不足により相手マスタースレイブに絡みついたに過ぎなかった。
 疲弊したアームの金属が、高出力の高周波に耐え切れなかったのだ。
 レイカの慢心が起こした判断ミスだった。
 その一瞬の隙を見逃がさず、相手は至近距離からリッパーの頭部に銃撃を浴びせる。
 激しい衝撃にレイカは意識を手放した。
 私は、負けたのか?
 闘技開始から277秒。マスタースレイブ・リッパーは沈黙した。


 固い医用ベッドの上で目を覚ましたレイカの傍らに、船上で出会った娘が座っていた。
「あなた、どうしてこんな所に……痛っ!」
 起き上がろうとしたレイカのわき腹に鋭い痛みが走る。
 何本か肋骨が折れているのかもしれない。
「セフィロトに行く前に、もう一度だけ話したくて」
「何の事?」
 娘は唇を噛み締めながらも微笑を作った。
「優勝商品の……私が持って来た塔内部のデータって、嘘だから」
 ごめんね、と娘は続けた。
「どうしてそんな嘘ついてまで、ボトムラインなんかに?
ギルドに行けば、もっとましなビジターがサポートしてくれるはず……」
 レイカの疑問を遮るように、娘は首を振る。
「ギルドに頼まなかったのは……やっぱり誰かを騙すのって苦しいから。
ボトムラインに集まるような人なら、少しは気持ちが紛れるような気がして。
私はある人を探して、セフィロトに行きたいの。
それも、塔から無事に帰ってこれるだけ、強い人と一緒に」
 私と同じ、か。
 この娘も失われた大切な人を探すために塔を目指している。
「船の上で話した時、あなたが勝てばいいのにって思った。
ただ貴少部品目当てにセフィロトに入る人とは、違って見えたから」
 ドアが開き、マスタースレイブ用のスーツに身を包んだ男が娘に声をかける。
「行くぞ」
 立ち上がった娘は頭を下げ、
「セフィロトで、また会えるといいね」
 そう言い残してドアを閉めた。
 それはお互いが探す相手に向けられた言葉だろうか。
 それとも、私たちに?
 窓の外のスコールが止む気配はまだない。

(終)