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月下の出会い
あたりまえの話だが、人間の脳の構造というものは個体間でたいして差があるわけではない。
もちろん大きさや形などには若干の違いがあるが、基本構造は同じだ。
これはエスパーだろうが一般人だろうがかわらない。
違うのは脳のどの部分を使っているか、というところである。
エスパーの方が優れていて一般人が劣っている、ということは絶対にありえないし、その逆も同様だ。
個性の違いでしかないのである。
一般的に脳の使い方は洋の東西で少し異なる。
たとえば右脳は感情や情動をつかさどり、左脳は理性や論理思考をつかさどる。西洋人は右脳と左脳の境界線がはっきりしており、東洋人は曖昧だという。
具体的にいうと、川のせせらぎや虫の声などに東洋人は風流を感じるが、西洋人にはそんなものは雑音だとしか思えないらしい。
まあ、このあたりも個体差がある。
風流を愛する西洋人だっているし、完璧な幾何学模様の庭に美を見出す東洋人だっているのだ。
ただ、音に関してだけは慣れという要素も多分にあったりする。
暗闇を住処とする人は、そうでない人よりずっと聴覚が鋭い。
そうでなくても、普段聞き慣れない音には敏感になる。
シャロン・マリアーノが夜半に目を覚ましたのは、その聞き慣れない音が耳道に滑り込んできたからだ。
「‥‥?」
簡素なベッドの上。
身を起こす。
窓から入る月明かりに見事な赤毛が照らし出された。
白い肌と黒の下着。
なかなかにセクシーな格好だが、しょせん色気もなにもない木綿なので、妖艶さも三割ほど減殺されてしまっている。
「‥‥なんだろ?」
寝癖のついた髪をぼりぼりと掻き回す。
いま、たしかに何か聞こえた。
畑を渡る風の音ではない。
もっと明確な、たとえば足音のような‥‥。
「って、足音っ!?」
寝台から飛び降りる。
やっとまともに思考が回るようになってきた。
こんな夜更けに畑から聞こえる足音。
泥棒しかありえぬではないか!
いつものつなぎを着込み、壁に掛けていた猟銃を手に取る。銃など使わないに越したことはないが、この物騒な時世だ。泥棒が武装していないとは限らない。
「ひとさまが丹誠込めて育てた作物を盗もうってクソ野郎に手加減なんざいらなよねぇ」
物騒で下品なことを呟きつつ、そっと扉を開く。
炯々と輝く月灯り、暗い部屋を矩形に切り取った。
がさがさ。
ごそごそ。
じゅるじゅる。
なんだか変な音も混じっているが、シャロンの畑の中には、たしかに変な生物がいた。
金の髪にゴーグルをのせ、手が二本に足が二本。顔には目が二つに鼻が一つに口が一つ。
まるで怪物のようだ。
「いや、むしろただの人間だし」
あさっての方向にむかって、ぼそっとツッコミをいれる。
この段階で変な生物なことは確定したようなものだ。
まあ、それはどうでもいいとして、
「どうでもいいんですか‥‥そえですか‥‥」
じゅるじゅるという変な音は、この変な謎生物が涎をすする音である。
なにしろここには美味そうな野菜や果物が、売るほどあるのだ。
どれから食べてやろうか迷ってしまう。
ちなみに彼の腕の中には、すでに収穫された野菜が幾種類か抱かれている。
ここ数日の飢えを満たすための大切なラバーズだ。
なんだか嫌な表現だが、食べちゃいたいくらい愛している、ということだ。まあ、実際に食べてしまうのだが。
「肉‥‥肉はどこかになってないか‥‥」
無茶なことを言う。
どれほどバイオテクノロジーが進歩したとしても、肉が植物から採取できるようになることはないだろう。
もちろんそんなことは、この男だって承知しているが、
「野菜ばっかじゃパワーでねぇょ‥‥」
けっこう贅沢である。
「他人の畑を荒らしておいて。盗人たけだけしいとはこのことだな」
かちり、と、撃鉄が上がる音と、不機嫌きわまる声が背後から聞こえた。
ゴーグル男の頬を、冷たい汗が伝う。
「手をあげろ。野菜泥棒」
なんか、すごく怒ってるっぽい。
謝っても、たぶん許してくれないだろう。
とっさにそう判断した泥棒ゴーグル。
となれば、ここは壇将軍の故事に倣うべきだろう。つまり「三十六計逃げるにしかず」というやつだ。
脱兎のように走り出す。
「あ!? こらまてっ!!!」
すぐにシャロンも追走する。
が、
「はぅぅぅ‥‥」
情けない声を出して、蹲ってしまうゴーグル。
「お?」
拍子抜けしたように、赤毛の農婦も立ち止まった。
「いや。農婦っていうなって」
こいつまでナレーションに文句を付けてくる。
まったく、この世界の住人たちはどうなっているのだ。
「それはどうでもいいとして、どうしたんだ。いったい」
強引に話を進めるシャロン。
ちなみに彼女は農婦ではなく植物学者だ。
「はらへったぁ‥‥」
情けないことを情けない声で言っているゴーグルマン。
「固有名詞は統一してくれ‥‥」
こんな状況でもツッコミは忘れない。
「元気そうだな」
「これが元気に見えるのかぁ‥‥腹が減っては戦もできないんだぞ‥‥」
「しかし泥棒はできたようだな。渇しても盗泉の水を飲まずという境地には到達できなかったのか?」
猟銃の先で金髪をつつきつつ、シャロンが苦笑を浮かべた。
渇しても盗泉の水を飲まず、とは、古代中国世界の思想家で孔子という人が、旅をしている途中、非常に喉が渇いていたが、たまたま見つけた泉が盗泉という名前だったので、たとえ名前だけでも盗泉などという水を飲むのは身が穢れるとして、そこの水は飲まなかった、という故事に由来する言葉である。
高潔であろうと志す者は名前にさえこだわるということであるが、凡人からみると名より実を取るべきなのではないか、と、思ってしまう。
「なんか食わしてぇ‥‥」
地面に這いつくばっている高潔さとは縁のない男が哀願していた。
「ほら」
冷たい井戸水で洗ったキャベツを一玉、シャロンが男に放る。
受け取り、
「これは?」
首をかしげる謎ゴーグル。
「見て判らないか? キャベツだ」
「これをどうしろと‥‥」
「腹が減っているんだろう? 食え」
「丸ごとかよ‥‥せめて刻むとか‥‥」
「包丁を取りに行くのが面倒だ」
「せめてマヨネーズをかけるとか‥‥」
「そんなものはない」
「あれよっ!」
心の叫びだったが、
「いらないなら返せ」
「いやいやいや。ありがたくいただきますっ。はいっ」
背に腹は代えられない。
がぶっとキャベツにかぶりつく。
新鮮だからだろうか、あまり青臭さはなく、甘みもあってなかなか美味い。
まあ、空腹こそ最大の調味料、という言葉もある。
「トマトとキュウリとスイカも食べて良いぞ」
「おおぅ‥‥神さま仏さま‥‥」
「大げさな。で、あんた名前は? 名乗りたくないならゴーグル男って呼ぶけど」
「‥‥ラーフ・ナヴァグラハ」
名乗りの前に挿入された沈黙は、べつに深い意味があったわけではない。
キャベツを租借したり飲み込んだりしていたからだ。
「ラーフね。あたしはシャロン」
「よろしく」
「ああ」
軽く頷いて、シャロンも熟したトマトを口に運ぶ。
みずみずしい香りが口の中に広がった。
眩しいほどの月明かり。
深夜の農場で野菜を食べる男女。
なんというか、絵になりそうでならなそうな光景である。
「ところで」
キャベツを半分ほど食べたところでスイカに浮気しながら、ラーフが口を開いた。
質問である。
ここはどかだとか、一番近い街はどこだとか。
「なるほど。迷子なのか」
「迷子いうな。誰だって人生に迷うんだよ」
「あんたが迷ってるのは道にだ。まあ、近いのはセフィロトか」
「どうやっていくんだ?」
「仕方がないから地図をかいてやろう」
「おぅ。恩に着るぜ」
にっこりと笑うラーフ。
こうすると、なかなかに魅力的な若者だ。
「野菜も少し持っていけ。好き嫌いあるか?」
「いーや。俺は何でも食うぜ」
「雑食性だな」
「健康的といってくれよ」
くすくすと笑いながら立ち上がる。
「トイレか?」
「違うってっ! そのセフィロトとやらに行ってみるんだよっ!」
思い立ったが吉日。即断即決即行動が彼の長所だ。
軽く食べ物の礼を述べ、
「そんじゃ地図を頼む」
右手を差し出す。
「ダメだ」
返答は、素っ気ないと味気ないと愛想がないを足して五〇倍したようなものだった。
「なんでっ!?」
「なんでって、あんた野菜の代金とか払ってないだろ」
「ただでくれるんじゃないのかっ!?」
「いつそんなことをいった?」
シャロンの主張は、まったくの正論だ。
泥棒に無料で野菜を提供してやるほど、彼女は善人でもお人好しでもない。
飢えているから食わせてやっただけで、もちろん代価は支払ってもらわなくては困る。
「んなこといったって、俺かねなんかもってねーけど」
「知っている。だから身体で払ってもらおう」
「いやーん☆」
「一度死ぬか?」
「冗談だって。働けばいいのか?」
「そうだな。一ヶ月くらいで許してやろう。お友達価格だ」
「えっらい高いトモダチ価格だな」
苦笑するラーフ。
「知らなかったのか? 友達だからこそこき使うんだぞ?」
シャロンもにやりと笑う。
差し出された右手。
「よろしく。ボス」
若者が握り返す。
白く輝く月。
畑の作物たちが、ざわざわと揺れる。
新しい仲間を歓迎するように。
おわり
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