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継ぐ思い
カタカタとキーボードを打つ音が部屋を満たしていた。壁に掛かっている時計は静かに今が明け方の4時であると示している。
嬢はあくびを噛殺して、手元の資料を流し捲る。集中していたために時間の感覚は遠退いていたが、そういえば今は何時なのだろうと時計を見上げて、思わずその目を伏せた。今から眠っていては到底起きられそうにない。
睡眠を諦めてしまえば急に手持ち無沙汰になった。資料の不足を補うために図書館へ行きたいが、この時間では開いているはずもない。他にすることもなく思考を遊ばせていると、ふと、自分がどうして心理学の道に進んだのか、という経緯を思い出した。
あれは幾年前のことだったか。
ふと思いついたように養父――嬢が言う所の親父――が話してくれたのは、けして明るくも楽しくもない話だった。
その時嬢は台所に立って食器を洗っている最中だった。養父は古いラジオを持ち出して、そこから流れてくるひび割れた音を聞いていた。こちらに向けていたその背中が、いやに疲れて見えたことを覚えている。
「……面白い話でもねぇんだけどよ」
養父は背を向けたまま唐突に切り出した。嬢が洗い物の手を止めると、頭だけ振り返って続ける。
「そのままでいいから、ちょっと聞いてくれねぇか」
聞いてくれと言うわりに、再び顔をそらせた養父の話し方は、まるで独り言のようだった。
「助教授になりたての頃に『極限の恐怖心理』を研究するために長期休職して、一時軍に属した。死の恐怖を知るためには死に近いところにいなきゃならない。軍はそういう点で研究場にとても相応しかった」
終戦が近かったが、その時それを一介の兵士が知れるはずもなく、上の連中が採算を合わせている時にも毎日死線を潜って来た。5メートル先の仲間が吹っ飛び、隣の奴の喉に風穴が空く。神経は過敏になり、夜は眠れなかった。人の声よりも自分の心音の方が遥かに煩く感じた。けれどそんなものはまだマシだった。
「敵に見つかって捕虜になると、収容所に向かう車の中で気晴らしみたいに簡単に殺される。人を殺すことに罪悪感はないみたいだったが、その実いつも自分の死を恐れているようだった」
間近で見ていてわかったことがある。彼らは敵を殺すと一種の安堵を見せた。恐らくそれは、自分が少しずつ死を遠ざけていっているような錯覚から来るのだろう。
けれども死は常に傍らにある。特にこの戦場では、一人の持つ銃弾は一部隊の数より多いのだ。
やがて終戦とほぼ時期を同じくして論文を完成させたが、その内容の凄惨さに誰もが目を瞑り、そうしてそれは静かに捨て去られた。
「なぜ……何故そんなことを?」
嬢がそう尋ねると、養父はたった今夢から覚めたみたいな顔をして、それから寂しそうに笑った。
「見極めたかったんだよ。兵士連中がどれくらい今来るかもしれないという死に堪えるかを。恐怖に怯えれば怯える奴ほど、死の間際に発狂した奴が多かった。実際に兵士をしてみてわかった」
嬢は思わず眉を顰めた。それは、そんなのは……。
「俺は今でも後悔してはいない」
嬢の胸の内を見透かしたかのように、養父はそう告げた。
「死を知ることは必要だった。簡単に殺したり、死んだりしないためには」
そうして他の奴にも知って欲しかった、と養父は言う。溜息のように吐き出された言葉が消えた頃、彼はそれまで漂っていた空気を霧散するように、微笑して嬢を振り返った。
「んでも今は遣り方ってもんをちゃあんと見つけられたからな。お前引き取ったばっかで辞職ってのはきつかったけど、何とか今の職にありつけたし」
笑った顔は晴れやかで、少しも自分を恥じた様子のないその表情は、嬢の心に染み入った。
だから、思ったのだ。自分もこんな風に――
「嬢。おい、いい加減に起きろ」
肩を強く揺さぶられて、嬢は薄く瞼を持ち上げた。組んだ腕の上に伏していた顔を上げると、養父が呆れた様子でこちらを見下ろしている。嬢は素早く辺りを見回して、何となくだが状況を掴むと、かっと目を見開いた。
「親父! 勝手に人の部屋に――」
「ああ? お前久し振りに帰って来たと思ったらそれか! 人が折角起こしてやったのに……」
ぶつぶつと文句を並べ立て始めた養父の言葉は、嬢の耳には届かなかった。時計を見れば時刻は既に8時を回っている。顔から血の気が引いて行く気がした。今日の講義はたしか……。
「ギャ―――! 遅刻するっ!」
慌てて支度を始めると、養父は特に声も掛けず部屋を出て行った。準備を終えて家を出ると、玄関の扉が開いて養父が顔を覗かせた。
「いってらっしゃい。嬢ちゃん」
からかうような声の調子に、嬢は負けじと舌を出した。
「いってきます。オヤジ殿」
後から追ってくる笑い声に、自分の頬もつられて緩むのがわかる。
そうして嬢は、自分も養父に倣った心理学者になるために、今日も大学へと急ぐのだった。
>>END
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