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<東京怪談ノベル(シングル)>


 『夏の夢』


「なあ、最近、アマゾン川で人魚が出るって噂、知ってるか?」
「ああ、知ってる。何でも凄ぇ美人で……人魚の肉を食うと、不老長寿になれるんだろ?」
「いや、そんなのただの伝説だって。でも、それを信じてるヤツはかなりいるみたいだけどな。それに……」
「それに?」
「人魚を探しに行ったまま、帰ってこないヤツが大勢いるそうだ」
「何だか気味悪いな……」
「関わらねぇほうが、ぜってぇいいって」
「ああ」
 二人の男が、カフェでジャンクフードを片手に話をしている。
 照りつける太陽が、射抜くような日差しを投げかけてくる。赤道直下のブラジルは、とてつもなく暑い。夏ともなれば、尚更だった。
 近頃、マナウスでは、あちらこちらで囁かれる話。アマゾン川に、人魚が棲みついた、というのだ。
 『人魚の肉を食べると、不老不死になれる』――この伝説は、昔から、世界中で語り継がれている。
 不老不死。
 それは、人類が古来より、望んでやまなかったこと。
 現在の世界には、サイバーやエスパーなど、それを可能にしている人々もいることは確かだ。
 しかし、『審判の日』以来、テクノロジーは著しく衰退した。サイバーに身体を改造できるのは、一握りの人間であるし、エスパーは元々の素質である。それに、弊害も沢山あるため、そうなることを望まない人々も多い。
 だが、『人間』のままで、己が己のままで、不老不死になれたなら――
 人間の欲望というものは、今も昔も変わらない。


(困ったなぁ……)
 空は、アマゾン川のほとりにある岩に腰掛け、もう何度目になるのか分からない溜め息をついた。
 下半身は白銀の鱗に覆われた魚の尻尾。耳や腕、腰にも鰭が備わっている。
 その姿は、どこからどう見ても伝説の人魚。
 今、マナウスで話題になっている『人魚』とは、彼女のことだった。
 エスパーである自身の能力を使った、変化の形態のひとつ『人魚姫』。その能力に限界を感じた彼女は、パワーアップを図るためと、水遊びも兼ねて数日前からアマゾン川にやってきていた。
 『人魚姫』は、魚の感覚と水中活動能力を得ることができ、彼女の持つ形態の中では最も力がある。ただ、彼女が活動拠点にしているマルクトは、屋内都市。上下水道を利用するならともかく、この形態は扱いにくい。セフィロトの塔でも、使えるかどうか分からない。『進化』させることが必要だと感じた。そこまでは良かったのだが――
 何故だか分からないが、急にこの形態から元の姿に戻れなくなったのだ。
 服などで身を隠して街中に戻ろうにも、足がないのでは、地上を移動すら出来ない。そして、拙いことに、この姿を誰かに見られたことがきっかけで、『人魚の肉』を求めて彼女を捕獲しようとする者が次々と現れ始めた。
 正直、チャチな武器を持っただけの人間など、何人来ても彼女の敵ではない。斃せばそれで終わり。こちらの話も聞かず、いきなり襲ってくるのだから、無闇に殺している訳ではない。正当防衛だ。
 しかし、元々近くの町などで調達しようと思っていたため、食料の持ち合わせもなく、『冒険者』たちから奪った食料も底をつき始めていた。川に棲むピラニアなどを捕らえて食べても良いが、それはあまり彼女の趣味ではない。とにかく、一番問題なのは、このままではマルクトに戻れない、ということだ。
「はぁ……」
 溜め息をつきながら、目の前の褐色に濁った水を見つめていたその時。
 背後でガサリ、と音がした。
 急いで振り向くと、そこには、どこかおどおどした表情でこちらを見つめている、青い髪に蒼い目を持つ、美しい青年の姿。着ているものなどは、何となくみすぼらしかったものの、ハッキリいえば、空の好みのど真ん中だった。
「あの……人魚さん、お腹……空いてませんか?」
 そう言って青年は、手に持った紙袋を見せ、頼り気なく笑う。
 空も、戦闘体制に入るのも忘れ、つられて微笑んでいた。

「……良く食べますね」
 空の隣に腰掛けた青年は、呆れたように言う。
「あふぁし、おなふぁがすいへたの」
「あはは。何言ってるのか分かりませんよ」
 そう言って朗らかに笑う青年を見て、空の心がざわつく。元々彼女は惚れっぽいし、好みなら、年齢性別は関係ない。いつもならばすぐに身体の関係、刹那的な享楽を求めてしまうのに、何故か目の前の青年にはそれが出来なかった。
「じゃあ、僕は帰りますね」
「もう帰っちゃうの?」
 服についた泥を払いながら立ち上がる青年に、空は名残惜しそうに言う。
「ええ。また明日来ます。今日は、とにかく人魚さんに挨拶したかったというか……仲良くなりたくて」
 そう言ってはにかむ青年の純朴な美しさに、空の胸の鼓動が速まった。
「あと……お願いですから、誰かが人魚さんを襲いに来ても、戦わないで、逃げて下さい。貴女に……人を殺させたくない」
 人を殺すことなど慣れている。
 でも。
「……分かったわ」
 青年の真っ直ぐな瞳を見ていたら、そのようなことは言えなくなった。
「良かった」
 彼はそう言って微笑み、背中を向けて去っていく。
 空は、その姿をただ、ぼんやりと見送っていた。


 それから、毎日のように青年は空の許へとやって来た。
 そして、色々な場所を旅して来たという彼は、様々な経験を、まるで子供に絵本を読み聞かせるかのように優しく語った。空は、ただそれを聞いていた。人の話を聞くだけというのが、こんなにも楽しいものだとは思わなかった。
 しかし、青年が特に憧れているという、人魚の伝説の話をされると、空の心は少しだけ痛んだ。
 本当は、自分は人魚なんかじゃない。ただのエスパーだ。
 その言葉を、どうしても言うことが出来ない。
 きっと、それは彼の瞳が、蒼いからだ。
 このブラジルの澄みきった空のように。
 そんな、訳の分からない理屈で、自分を納得させていた。
 いつの間にか、自分の身体が元に戻らないことよりも、青年に本当のことを知られることのほうが、怖くなった。
 いっそのこと、このままでもいいのかもしれない。
 それはきっと。
「人魚さん」
 夕暮れが迫り、朱色のカーテンが辺りを覆いつくし始めたとき、青年が不意に真面目な表情でこちらを向いた。
「僕……」
 青年の青空のような瞳と、空の宵に浮かぶ月のような銀の瞳が交じり合う。
 何故、彼の目は、こんなにも真っ直ぐなのだろう。
 この気持ちは。
「僕……貴女のことが、好きです」
 沈んでいく夕日を背に、二人の影が、ゆっくりとひとつになった。
 それと同時に。
 空の身体に変化が起きた。
 鰓が形を変え、丸みを帯びていく。
 白銀の鱗は、白い柔肌へと変化していく。
 魚の尾は形の良い長い足へ。
 『人魚姫』の変化が解けたのだ。
「あ、あたし……」
 何か言おうと思っても、何を言ったらいいのか分からない。口だけに魚の部分が残っているかのように、空気を求めてぱくぱくと、ただ動く。

 パンッ。

 唐突に。
 音が、した。
 目の前の青年が、ゆっくりと仰向けに倒れる。
 まるで、天に祈りを捧げるかのように。
 空は、ガラス越しに世界を見るかのように現実感のない中、それを見守っていた。
「悪いな」
 そのガラスを叩き割ったのは、低い男の声。
 首をそちらへと向けると、全身黒ずくめの男が、拳銃を片手に立っていた。
「俺は仕事をしただけだからさ」
 現実へと引き戻された空は、慌てて倒れた青年を抱き起こす。
 弾丸は、確実に心臓を打ち抜いている。プロの仕業だ。こんな現場は何度も見てきている。もう助からない。
 もう、助からない。
「ごめんなさい……あたし、人魚なんかじゃない」
 混乱する頭の中、口をついて出たのは、謝罪の言葉だった。青年は、焦点のぼやけた目で、空を見つめ、手を伸ばして彼女の頬に触れた。
「……知って……いました……」
 赤い。
 これが、夕日の所為で赤く見えるのだったら良かったのに。
「……そういえば……名前……聞いてなかった……」
「……白神空」
 今さら名前など聞いてどうするのだ。そんな冷静な声が、頭の片隅で聞こえる。
「……空さんかぁ……良い……名前ですね……もっと早くに……出会いたかっ……た」
 それきり、青年は動かなくなった。
 名前。
 彼の名前を聞いて置けばよかった。
 涙は出なかった。ただ、頭の中に白い靄が掛かっているかのようだった。
 本当に悲しいときは、涙が出ないという話は真実だろうか。それとも、自分が冷たい人間だからだろうか。
「お別れは終わったかい?」
 またしても、空を現実に引き戻したのは、黒ずくめの男の、野暮ったい声だった。
「ターゲットはその兄ちゃんだけどな、姉ちゃんにも見られたからには、生かしては置けねぇ。それに……俺は美人をいたぶりながら殺るのが大好きでね」
 その言葉と同時に、またしても銃声が響く。
 そして、空の右手の中指が吹き飛んだ。
「ほぅ……声も上げねぇか。殺りがいがありそうだ。きちんと泣かせてから逝かせてやるからな。次は薬指っと」
 またも銃声。
 寸分違わず、空の指が失われる。
 だが。
 噴き出していた血が、ぶくぶくと泡を立てたかと思うと、指の形を象り、それが骨となり、肉となり、皮膚となり――ついには完全に元の姿に戻る。
「――なっ! おめぇはアメーバか!? バケモノめ!」
 それが、『人魚姫』の進化形、『八百比丘尼』の能力が発露した瞬間だった。
 そして、風を切って空が動く。


「姉ちゃん、よく食うなぁ……」
「ほっほいへ! はやふつぎのりょうり!」
「へいへい……」
 マルクトへと戻った空は、繁華街のうらびれたレストランで、料理を次から次へと注文し、片っ端から平らげていた。彼女の他には、客は誰もいない。
 『八百比丘尼』の形態は、例え腕をもがれたとしても、即再生させることが出来る。とはいえ、無からの再生は無理だ。となると、有機質や栄養が大量に必要になる。普段から同年代の女性よりはよく食べる彼女だが、『八百比丘尼』の最中と、その後は、とんでもない大食らいになってしまう。しかも、内臓を強化して即座に血肉にしないと、食べている端から腹が空く。このような姿は、あまり多くの人に見られたくない。だから、料理の味を落としてでも、人通りの少ない場所を選んだのだ。
 それに、食べていれば、思い出さなくてもすむ。
 あの、青空のような優しい瞳を。
 こんなのは、自分らしくない。
 そう、自分らしくない。
 おとぎ話の人魚姫は、王子を殺すことが出来ずに、海の泡となった。
 伝説にある八百比丘尼は、人魚の肉を食べて、不老不死になったという。
 空は、『王子』のキスで、『人魚姫』から『八百比丘尼』へと変化を遂げた。
 馬鹿馬鹿しいほどロマンチックだ。
 そう、馬鹿馬鹿しい。

 店を出ると、空は繁華街をうろつき始めた。すると、ひとりの美しい少女が目に留まる。どこかの店の娘だろうか。
 ここで、空の頭にある考えが浮かぶ。
 栄養分を蓄えるのに、何も食事である必要はない。体力は使っても、手軽で、何より自分好みの方法――即ち、人の体液を摂取すればいい。
 彼女は形の良い唇で笑みの形をつくると、しなやかな足取りで、少女に近づいた。
「ねぇ、あなた。これからお姉さんと遊ばない?」
 その時に、自分が一番魅力的に見える仕草をするのも忘れない。
 彼女は、少しだけ『自分らしさ』を取り戻したことに、満足感を覚えていた。

 空は、ベッドで穏やかに寝息を立てている少女の端整な顔を見つめ、満足げに微笑むと、彼女の唇に長い指をそっと当てる。少女が、僅かに身じろいだ。
 そして空は、裸のまま、汗を流すために、バスルームへと向かう。
「はぁ……」
 シャワーを浴びながら、彼女は小さく溜め息をついた。
 自分好みの人物と、気軽に関係を持つことは、彼女にとって日常茶飯事だが、行為そのものだけではなく、別の目的があるということが、今回は違った。
 そして、彼女の現在の状態が特殊なため、どうしても求める頻度が高くなり、今、ベッドで寝ている少女の顔にも、疲労の色が濃く浮き出ている。
 しかし、あれだけ回数をこなしたのにも関わらず、体力は一向に戻る気配を見せない。
 最初は、実利と快楽を同時に得られる良い考えだと思った。しかし、人間の体液には、それほどの栄養は含まれてはいないし、量もそんなに摂れる訳ではない。試してはみたものの、洒落にならないくらい効率が悪いということが判明した。期待していた方法だっただけに、落胆の色は隠せない。
 バスローブを身に纏い、濡れた銀髪をタオルで拭きながら、彼女は冷蔵庫からピンガの瓶を取り出すと、一気に煽る。すると、アルコールがすぐに身体に回ってきた。酒豪の彼女にとっては、普段ならどうということはない量だ。疲労はしているが、その所為だけとは思えない。だが、すぐに原因は分かった。
「お腹すいた……」
 やはり、栄養は地道に食事で補った方が良いようだ。絶え間なく襲ってくる空腹感を堪えながら、彼女は服を着ると、再び繁華街へと繰り出していく。

 雑踏を歩きながら、空は何気なく上を見上げてみた。
 マルクトの空は、相変わらず色がない。
 彼女は、あの蒼い色を思い出していた。ほんの少し前のことなのに、随分と時が経ったように感じる。

 八百比丘尼は、不老不死のために、愛する人を次々と先に亡くし、絶望から、尼になり、ついには誰にも会わないよう、洞窟の中に閉じこもったという。
 けれど、自分は違う。
 刹那的で、享楽的で、ちょっと我がままで頑固で、好奇心旺盛で、妖艶でいて爽やかで、服のセンスが良い着こなし上手で、少し胸が無いのを気にしていて――
 誰でもない、『白神空』なのだから。
 あれは、夏が見せた一瞬の夢。
 甘く、そして短い夢。
 少しでも楽しかったのだから、それでいい。

 そう、それだけでいい。