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『soul mate』
朝。
屋内都市マルクトにも、朝は来る。それは、時計によって管理されたものではあったけれど。
高桐璃菜は、パジャマ姿のままで家の中を歩き回り、全てのカーテンを開けた。柔らかな光が、室内へと差し込んでくる。
まずは顔を洗い、歯を磨く。まだ頭の片隅がボーっとしている。寝起きの所為だろうか。だが、璃菜はそんなに朝に弱い方ではない。ここのところ忙しかった、ビジターズギルドや自警団の活動で、疲れているのかもしれない。
鏡の中の自分の顔を、チェックしてみる。むくんでもいないし、目の下に隈もない。
「あ」
そこで彼女は、小さく声を上げた。そういえば、何かとてもリアルな夢を見た気がする。凄くリアルだったのに、内容は全く覚えていなかった。
きっと、頭がぼんやりとしているのも、眠りが浅かった所為だ。
そう結論づけると、彼女は、自分の部屋へと向かう。
恋人である神代秀流とは、どちらかの部屋で夜を過ごすことが多いが、そういう関係になる前から、長い間別々の自室を持っていたし、せっかく二つ部屋があるのに、無理に荷物をひとつのところに集めても仕方がない。
昨晩は、秀流の部屋で一緒に寝た。彼は、今でも夢の中だろう。璃菜と違い、彼は寝起きが悪い。ベッドから彼女がそっと抜け出しても、いつも気づかない。
尤も、それだけお互いに心を許せているということだろうから、それは素直に嬉しかった。
軽くシャワーを浴び、着替えを済ませると、璃菜はブラシで長い緑の髪を梳き、化粧を始める。幾ら幼い時から一緒だったからといっても、彼の前ではやはり『女性』でいたい。
鏡に向かって、笑顔を形作ってみる。
中々悪くない、と思う。
「よし」
そうひとり呟くと、彼女は秀流の部屋へと向かった。
案の定、秀流はベッドで四肢を投げ出し、すやすやと寝息を立てていた。
璃菜は、ゆっくりとそちらへ近づく。
秀流の寝顔は、とても安らかだった。どんな人物であれ、寝顔というものは、子供のように無防備で、無邪気なものだ。思わず、彼の顔をじっと見つめてしまう。
鼻でもつまんでみようか。
そんな悪戯心が顔を出し、彼女は指先を彼に近づけたが、そこで我に返る。
「っと、こんなことしてる場合じゃなかった……秀流、起きて」
「……ん?」
身体を揺さぶると、秀流は寝ぼけ眼でこちらを見た。
「おはよ」
「うん」
「『うん』じゃないでしょ。朝食は何にしようか?」
秀流の反応が面白くて、璃菜は思わずくすくすと笑い声を上げてしまう。
「んー、俺は璃菜を食べた……ぶっ!」
まだ半分寝惚けたような秀流の言葉を遮るように、璃菜は二つあった枕の片方を掴み取り、彼の顔に投げつける。
「そういう冗談は夜までとっときなさいって。ほら、早く起きた起きた」
「じゃあ、夜になったら言ってもいいのか?」
「いや……それは……」
昨晩のことが脳裏をよぎり、璃菜の顔が赤くなる。それを見て、秀流がにっこりと笑った。
「やっぱり璃菜は可愛いな」
その言葉に、璃菜の顔はますます赤くなる。
「もう! そうやって人をからかってばかりいるなら、秀流の分の朝ごはん、作ってあげないから!」
「からかってんじゃなくて、本気なんだけどなぁ……」
「そ、それは分かってるっていうか、何ていうか……とにかく、何が食べたいの?」
「璃菜を……ぶっ!」
秀流の顔に、今度は手近にあった、大きなクマのぬいぐるみが直撃した。
「秀流、コーヒー入ったよ」
「ああ、サンキュ」
璃菜は、二つのコーヒーカップを、テーブルにそっと置く。
午後になって、二人は、亡き父の書斎でくつろいでいた。
ソファーに腰掛けて、蔵書を読んでいた秀流は、顔を上げると、湯気の立つカップに手を伸ばす。
元々、この部屋には父のデスクがあるだけだったのだが、今は、ゆったりと時間を過ごせるように、ソファーとテーブルを置いてある。
璃菜は、この場所が好きだった。
父の匂いがするから。
幼い頃は、はしゃぎまわり、父の仕事の邪魔をして、よく怒られたものだ。
でも今は、もう怒る父はいない。
そんなことを思いながら、書棚の本を見ていく。父はMS乗りだったが、結構な読書家で、蔵書も、かなりの数に上る。仕事関係の資料もあったし、学術関連の本、小説や、芸術に関するもの、童話や絵本まであった。その中には、璃菜や秀流の、お下がりも混じっている。いや、この場合は『お上がり』とでもいうべきなのだろうか。
ふと。
彼女の目に、一冊の本が留まる。
何気なく取り出して、ページを捲ってみた。
(へぇ……父さん、こういうのも読んでたんだ……あ、もしかしたら、母さんのかも)
その時、電子音が家に鳴り響いた。
「あ、電話。俺が出る。璃菜、コーヒー早く飲まないと、冷めるぞ」
「あ、うん。ありがとう」
そう言いながらも、璃菜は持っていた本から目が離せなかった。
何かが引っかかる。
何かに関係しているような。
でもそれは、形を整えようとすればするほど崩れていく、子供の粘土細工のように、どんどんと原型が分からなくなってしまう。
(まあ、どうせ大したことじゃないんだよね。きっと)
彼女はそう自分を納得させると、再び活字に目を落とし始めた。
暫くして、秀流が戻ってくる。
「何の電話だった?」
「ああ、おばちゃんがレンジの調子が悪いから、俺に見て欲しいんだってさ」
「『おばちゃん』?」
璃菜が小さく首を傾げると、秀流が近所に住む、ひとり暮らしの中年女性の名を告げる。
「ああ……それなら、お弁当作ろうか? 時間かかるかもしれないし」
「サンキュ。でも、昼食はさっき食べたし、簡単なものでいいから」
「じゃあ、ベーグルが余ってたから、ベーグルサンドにするね」
そう言って、璃菜はまだ手に持っていた本を書棚に戻すと、キッチンへと向かった。
「じゃあ、行ってくる」
「うん、いってらっしゃい。気をつけてね」
「ああ」
秀流は、弁当と工具箱を持つと、早足で歩いていく。
その姿が見えなくなるのを確認してから、璃菜は家の中へと戻った。
秀流がいないと、暇を持て余す。さっきの本の続きでも読もうか。
「あ、そうだ」
そういえば、ここのところの忙しさにかまけて、中々家の中にまで手が回らないでいたのを思い出す。
「よし、今日は徹底的にお掃除しよ」
そう決意を口に出すと、彼女は掃除用具を取りに向かった。
「いや! きったなーい!」
エプロンと手袋を身につけ、窓を雑巾で拭いていた璃菜は、思わず声を上げる。雑巾は、思った以上に黒くなっていた。
「絶対、ピッカピカにしてやるんだから!」
彼女の手に、熱がこもる。
「よし、綺麗になった。次は、あっちの窓、と」
それから、全ての窓を掃除し終えると、彼女は一息ついてから、部屋を見回す。
「次はどうしようかな……まだ拭くとこ一杯あるなぁ……あ、そうだ。掃除機もかけなきゃ」
そう独り言を言いながら、彼女は家中を駆け巡る。
「ふう。ようやく綺麗になったわね」
璃菜は満足気に息をつくと、アイスティーを一口飲む。空調は利いていたが、流石にあれだけ動くと、汗が出る。
「にゃー」
「うにゃー」
彼女が使い終わったグラスを洗っていると、最近飼い始めた二匹の猫が、じゃれ合っているのが見えた。
「そうだ」
グラスを置き、手を拭くと、彼女は猫たちに近づき、笑顔で手を伸ばす。二匹とも、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、彼女の手に纏わりついてきた。
「あなたたちも、洗ってあげようね」
「にゃー!」
「おにゃー!」
「ちょっと! こら! 待ちなさい!」
手を泡だらけにしたまま、璃菜が走る。
バスルームで猫たちを洗っていたのだが、それを嫌がった二匹は、彼女の手をすり抜け、脱走したのだ。ドアを閉めるのを失念していたのが悪かった。
せっかく綺麗にした床が、水浸しになる。後でまた、拭かなくてはならない。彼女はげんなりしながら、猫たちを追った。そうして、全てのドアを片っ端から閉めていく。部屋にまで入られて、汚されては敵わない。
やがて、ようやく二匹を捕まえた璃菜は、バスルームへと連れ戻す。
「うにゃにゃ!」
「にゃにゃ!」
何か抗議の意思を感じるが、知ったことではない。今度は、きちんとドアを確認し、嫌がる猫たちを洗った。
「流石にちょっとキツくなってきたかな……」
猫たちをドライヤーで乾かし、丁寧にブラッシングした後、璃菜は掃除用具一式を手に持ち、倉庫へと向かった。
「でも、あと少しだから……頑張ろう」
彼女は、自分をそう言って励ます。倉庫には、秀流のMSと、璃菜の戦車が置いてある。せっかくなので、それらも掃除しておくことにしたのだ。メンテナンスなどは出来ないが、綺麗にするくらいなら出来る。秀流もきっと喜ぶだろう。
シャッターを開け、倉庫の中に入る。薄暗かったので、明かりを点けた。
すると、恐竜のようなフォルムのMSと、サソリを彷彿とさせる姿の戦車に、出迎えられる。戦車の方には、文字通り挨拶をされた。『彼』にはAIが搭載されているのだ。
「今から綺麗にしてあげるからね」
璃菜がそう言うと、『彼』は嬉しそうに声を上げる。傍らのMSは勿論無言だったが、そちらも何となく喜んでいるように見えた。
掃除を始めると、『彼』は感謝の言葉を穏やかに述べ、璃菜は笑顔で手を動かし続ける。
そうして、静かに時間が過ぎていく。
やはり、家の中が綺麗だというのは気持ちがいい。
璃菜は清々しい解放感を味わいながら、先ほど書斎で見つけた本の続きを読んでいた。猫たちも、先ほど嫌がっていたのが嘘かのように、はしゃぎまわっている。
(そろそろ、夕食の準備した方がいいかな……)
顔を上げ、時計を見遣る。
それと同時に、電話が鳴った。璃菜は本をテーブルに伏せ、電話へと近寄ると、受話器を取る。
「はい」
『ああ、俺。ちょっと遅くなるけど、おばちゃんがピザ焼いてくれるって言うから、夕食はそれにしようか?』
「あ、うん、分かった。じゃあ、サラダとスープだけ作って待ってるね」
『じゃあ、また後で』
「はーい」
受話器を静かに戻すと、璃菜は伏せていた本に、栞を挟み、書斎へと戻しに行ってから、夕食の準備に取り掛かり始めた。
「……でさ、全部バラバラにしても、どこにも異常がないんだよ。それで、おばちゃんに『コンセント抜いたのは、危ないと思ったからですよね?』って聞いたら、『あら、忘れてた、ごめんね』だってさ。まあ、先に確認しないで作業始めた俺も悪いんだけど」
「あはははは! 秀流もそそっかしいなぁ」
「……否定できないのが悔しい」
穏やかな晩餐を、二人は過ごす。
「それにしても、家の中ずいぶん綺麗になったな」
「へへ、頑張ったんだから」
「流石だな」
秀流に褒められ、璃菜は得意気に胸を張る。
「そういえば、おばちゃんに、俺たちが父さんと母さんに似てきたって言われたよ」
「あ、そうなんだ……うん、父さんと母さんも凄く仲が良かったから……でも、まだまだ追いつけないよね」
微笑みながら璃菜が言うと、秀流も笑顔で答えた。
「じゃあ、もっと頑張らないとな」
その時。
璃菜の身体に何かが走った。
いや、『魂』というものが、もしあるのなら、きっと『それ』が揺さぶられた。
『じゃあ、もっと頑張らないとな』
『うん、一緒に頑張ろうね』
「璃菜? どうした?」
秀流の心配そうな声が降って来る。
何故だろう。
嬉しくて、それでいて切ない。
「ごめん……大丈夫。あのさ、秀流。『ソウルメイト』って信じる?」
「『ソウルメイト』? ……ああ、前世がどうとか、そういうヤツだよな? うーん……分かんないけど、もしあるのなら、俺と璃菜はそうなんだろうな」
「絶対そう。私たちはそうなの」
「やけに自信たっぷりだな」
声を上げて笑う秀流に向かって、璃菜は片目を瞑ってみせる。
「そうよ。自信たっぷりなの」
既視感。
父の書斎にあった、『soul mate』というタイトルの本。
そして、思い出したのだ。今日見た夢の内容を。
確かに、証拠などはないかもしれない。
だけど。
自分が信じていれば、それは在るのと同じ。
更けていく夜を感じながら、璃菜は心の中でそっと呟いた。
――秀流。私たちは生まれる前から、ずっと一緒だったんだよ。
――ずっとね。
■ ■ ■
いつもありがとうございます。鴇家楽士です。
シチュノベに後書きをつけるのは、雰囲気を壊してしまいそうで嫌なのですが、伝えておかねばならないと思いましたので、書かせて頂きました。
今回、戦車さんの部分は、規約に抵触してしまうとのことでしたので、戦車さんのお名前も、また、会話も描写せず、曖昧にしてあります。
ご希望に沿う形に出来ず、申し訳ありません。
あとは、少しでもお話を楽しんで頂けることを祈るばかりです……
それでは、またご縁がありましたら、宜しくお願い致します。
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