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■+ ああ無情 +■
「良い物件って、なかなかありませんよねぇ……」
そうぽつりと呟いているのは、清潔感溢れつつも胡散臭さが爆裂している白衣の男だ。射干玉のと言っても過言ではない程の黒髪を襟足で切り揃え、夜闇よりも深い黒の瞳を眼鏡で隠した彼の名を、リュイ・ユウと言う。
現在彼は、可成り真剣に住まいを探していたのだ。
あちらこちらで彼流の『良い物件』を訪ねて回るも、なかなかに成果が上げられずにいた。
さて、彼がお引っ越しを考えた理由は……。
今日は何となく、家に帰る気がしない。
そんな風に感じていたのは、長い黒髪を頭のてっぺんでひとくくりにした青年、ケヴィン・フレッチャーである。
緑の瞳を微かに曇らせているのは、何故か胸にわき起こるイヤな予感の所為であろう。
更にふらふらと黒髪が頼りなく揺れるのは、その心を現しているかの様だった。
ともかく、本日のお仕事は終了した。
何時もよりはちょっとばかり早く、今はまだ昼過ぎではあるが。
適当に買い物を済ませ、店を冷やかして歩いてはいたものの、もう既にすることもなくなってしまった。
気乗りしないまでも、彼は小さく呟いた。
「帰るか……」
「……ちょっと待て」
「何ですか?」
「あんた、何でここにいるんだ?」
やっと帰ってきた。
ユウにしてみれば、そんな心境であろう。
朝早くに荷物を運び入れようと来たものの、既に御隣人さんは出かけた後。
あわよくば手伝わせようと言うユウの企みは、木っ端微塵に打ち砕かれたのだ。
後はもう、食器や衣服、カルテ等と言う繊細且つプライベートなものを整理するのみとなっていた。
「見て解りませんか? 引っ越しして来たんですよ。今日からお隣さんと言うことです。宜しくお願い致しますね」
胡散臭いのは満面に笑みを浮かべているからだろう。
「何で引っ越しなんかしてんだよっ」
ケヴィンのこめかみに張り付いているのは、怒りマークの青筋だ。
勿論その問いには答えてあげようと、ユウは喜んで口を開いた。
「いえねぇ。最近切実に感じていたのですよ」
「何を」
投げやりでありつつ、相槌を打っているのは、生来の律儀さからであろう。……顔は『触るな危険、噛みつき注意』と書いてはあるが。
「あの家は、まあ、棚からぼた餅……ではなくて、ふとした偶然から住むことになったんですけれど、なかなかに不便でしてねぇ」
「まあな」
『あんな辺鄙なところだもんな』と、ケヴィンの顔面に油性マジックでデカデカと書いてある。
思わず吹き出しそうになりつつ、ユウは知らん顔をして話を続けた。
「通院する方達にも、少々不評でしたから」
「そらそーだ」
『あんなスリルとサスペンス、病人にはたまらんだろうが』と、ケヴィンの顔面に真っ赤な油性マジックでがっつり書いてある。
「最大の理由は、やはり少し前の大雨の日でしたねぇ……」
思わず遠い目になってしまったユウだが、ちらとばかりにケヴィンの顔を見る。
案の定、怒りマークは形を潜め、その顔には『………?』と、死にかけ数秒前のご老人が、6Hの鉛筆で記したかの様に見える記号が張り付いていた。
その疑問には敢えて答えてはやらない。
いや、答えるのは、少々彼のプライドに反してしまうのだ。
言ったが最後、爆笑されることは間違いがなく、更に言えば、後々までしつこくそのことをネタにからかわれることが目に見えていたからだ。
言える訳がない。
外の嵐が収まっていることにさえ気付かず、餓死しかかったなど……。
「まあ、色々と事情がありまして、引っ越しをすることにしたんです」
「だから何でここなんだよっ!」
ケヴィンの癇癪玉が、今にも弾けそうだ。
けれどユウは、気にもかけずにさらりと流す。
「そうなると、やはり物件は慎重に選びませんとね」
「いやだから……」
「もう少し人が訪れやすく、ある程度の広さも必要となります。ええ、ここは診療所なのですから」
「あんた、人の言うことが……」
再度の言葉も、ユウは華麗にスルーした。
「患者のことも考えて、防犯にも気を付けませんと。そこで見つかったのが、ここと言う訳ですね」
「患者のことじゃねぇだろっ! あんたの日頃の行いの所為で、防犯設備が必要なんだろうがっ!」
その通り。
高らかにファンファーレが鳴りそうなくらい、完璧な答えである。
しかし。
「まあ、襲撃にも備える必要はありますねぇ。……あ、心配してくれるんですか? 嬉しいことです」
「誰が心配するかっ!」
馬鹿馬鹿しいとばかり、ケヴィンは漸く我が家へと足を踏み入れることにしたらしい。
「おいこら、着いて来んなよ」
「え? 引っ越しそばは、なしなんですか?」
「待て待て待て。それは引っ越して来たヤツが出すもんだろ……って、あれ? そんな風習、ここにあったっけ?」
ケヴィンが小首を傾げている隙に、ユウは家に入ることに成功していた。
ぐるりと周囲を見回すと、作りは自分の処と大差ないことが解る。
広さも同じく。
『壁は……ぶち抜けないことはないですねぇ』
なかなかに不穏なことを考えているのだが、現在の家主にそれが解る筈もない。
ケヴィンは、漸く彼が中に入ったことに気が付いたばかりであった。
「あんた、勝手に家に入ってんじゃねぇって」
そう言いつつも、ケヴィンには追い出す気配が見えない。
買い物してきたものを、数少ない家具であるテーブルの上に置くと、ユウの方へと向き直る。
「作りは同じですね」
「当たり前だろ」
確かに。
長屋とは言えないが、ここはそれに近い作りをしている。
また、ケヴィンが住居に選んでいるところらしく、素のままでもセキュリティも万全だ。もっとも、彼は他にも、色々と細工は凝らしている様だが。
「あのさ。俺の隣って、昨日まで人住んでたよな?」
「貴方の『元』御隣人さんは、実に快く譲って下さいましたよ?」
仏頂面のケヴィンに返るのは、やはり胡散臭いながらも満面の笑みだ。
元を強調している辺り、もう変えようがないのだと言うことを知らしめている様でもある。
「それでですね」
「何だよ」
警戒心MAXなケヴィンのそれを、更に煽る形のユウの笑み。
「私の計画では、あちらを診療所に、そしてこちらを住居にしたいと思うのですけれど」
徐々に俯いていくケヴィンだが、地面と顔面が平行になったところで、その動きはぴたりと止まった。
一瞬の間の後。
にゅっと手が伸びてきた。
どうやら握手の意思表示らしい。
『……もっと何か反応があるかと思ったのですけど』
不審に思いつつ、ユウはその手を握る。
ハンドシェイク。
それが行われようとした時、ケヴィンの顔がいきなり上がった。
張り付いているのは、非の打ち所のない笑みだ。
途端、ユウの脳裏に非常ランプが点灯した。
が。
「そうか、よろしくな」
刹那、ユウの身体は、そのまま窓の外へと突撃していた。
派手な音が姦しく上がり、窓ガラスが気前良く飛び散った。顔から地面と結婚することは避けられたものの、硝子の破片が降り注いでおり、下手に手を付けないでいる。
そんな彼に、硝子の入っていない窓から顔を覗かせたケヴィンが、中指を立てると言うお下品な仕草をしつつ、ふんとばかりに言い募った。
「一昨日来やがれってんだよっ!!」
「ったく、あいつは何考えてんだよっ!」
ぶりぶりと怒っていてはいるものの、買ってきた食材を無駄にする様な真似は出来ない。
ケヴィンはせっせと冷蔵庫へと、腐りそうなものを詰め込んでいた。
「全く、何であいつと隣なんだよ。てか、ここをヤサにするだって? 冗談も程々にしろって。なあ! そこのオオボケ野郎!」
背後にユウの気配を感じたケヴィンは、振り向かずにそう声を上げた。
「オオボケとは酷いですねぇ」
ぐるりと首だけ後ろへ向けると、怪我一つないユウの姿が確認出来た。
ぱんぱんと服を叩いているのも、完全なポーズだ。既に硝子の欠片は、外できっちり落としているのだから。
「ボケをボケと言って何処が悪い。あ、根性曲がりの方が良いか? それともゴーツクバリ? 陰険野郎?」
こう言うことなら、宇宙の彼方まで続くくらいに、言葉が出てきそうだ。
しかし、ちらとユウの反応を見てやるが、全く堪えていないことが解った為、虚しくなってしまった。
「良くもまあ、そこまで言えますねぇ。……ま、良いですけど」
イヤな予感がした。
何かとんでもないことを言われそうな、取り返しの着かないことが起こりそうな。
そんな予感。
「で、どうです?」
『聞くな、聞くと引き返せなくなるぞ』と、心の声が語りかけている。
しかし。
「……何が?」
思わずそう聞き返してしまうのは、何故だろう。
「さっきの話ですよ。ここを俺に譲ってくれようとは……って!」
脊髄反射で拳が唸る。
けれどユウは、僅かに身体を捻ることで躱した。それが凄くムカつく。
「寝言は寝て言えっ!!」
「寝言なんか言いませんって。……だってねぇ。やはり急患が来た時、住居が隣だと何かと都合が良いんですよ。この壁だって、ぶち抜けない訳ではないようですしね」
「勝手に壊す話をすなっ!!」
さらりと言ってはいるのだが、この男、何だか本気でやりそうだから怖いのだ。
「大丈夫ですよ。それくらいで崩れる様な作りは、してないようですから」
「論点違うからっ!」
「ああ、そうですね。ここを俺に譲ったら確かに貴方も困るでしょうから、前の俺の家を提供すると言うことでどうですか?」
「冗談は顔だけにしろっ」
あんなところだから、引っ越しを考えたんだろうがと言う突っ込みは、取り敢えず胸の内に仕舞っておいた。
「全くもって、我が儘ですねぇ」
「我が儘はあんただろうがっ!」
「仕方ありません……、同居と言うことにしましょうか」
「……………は?」
瞬間フリーズドライと言う言葉が、この時代この地域にあったのかどうかはさておき、硬直した挙げ句、思わず目が点になってしまったケヴィンである。
「取り敢えず食器は、俺が持ってきた分もありますから、特に買い足す必要もありませんし、そうですねぇ、後必要なものと言えば……」
「おいこらっ! 勝手に話を進めるなっ!!」
漸く魔法の解けたケヴィンが胸ぐらを掴もうとするも、やはりするりと躱される。
「乱暴ですねぇ。一緒に住むことになったら、その癖は治してもらわないと」
「だからっ、誰が誰と何処で一緒に住むんだよっ!!」
「おや。話を聞いてなかったんですか? 俺と貴方がここで一緒に住むんですよ?」
「ここは俺の家っ! 一緒に住むなんて、一っっっっ言も言ってないっ!!」
ぜいぜいと息が上がってしまうのは、もしかして過呼吸症候群? それとも、血圧が上がっているからだろうか。
いやいや、そんな歳ではない筈だ。……と、思いかけて違うからと自分突っ込みをしてしまう。
何処までも人を喰った様な笑みを浮かべているこの目の前の男には、何を言えば一番効果的なのだろうか。
そんなことを考えてみるが、何とも情けない話、全く浮かんでは来なかった。
「強情張らずに。そうですね。では、二人で住むメリットを上げてみましょうか」
「ないからっ!」
力強く言うケヴィンなど歯牙にも掛けず、ユウは手のひらを開いてから、親指を『一つ目』とばかりに折り曲げた。
「まず、仕事場と住居を分けると、公私の区別が付きますよね」
それはあんただけだと、ケヴィンはぐるると唸って睨みつける。
けれどユウは、気にもせずに人差し指をぺこんと折った。
「そして家事を交代制にすると、少なくとも以前の半分の労力になりますよね」
だからどうしたと、ケヴィンは思う。別段家事が苦手な訳ではないのだ。
更に中指を折るユウ。
「次が一番大きな違いだと思うのですけれど」
ちらとこちらを見ているのが解るが、今までの言を聞いていると、巫山戯るなの一言で終わりそうだと彼は思った。
だが。
「一人よりも二人の方が、食費などを初めとした生活費が節約できますね」
「…………」
ふふんと聞き流そうとしていたケヴィンの耳が、ぴくりと動いた。
『節約』、何と美しい言葉なのだろう。
「折半と言うことにすると、一ヶ月でどれだけ『節約』出来るんでしょうかねぇ」
何だか『節約』と言う言葉が強調されている気もするが、何だか微妙に違う部分もある気がするが。
とまれ。
「目標は、一ヶ月で今までの三分の二だからな」
ユウの後ろに黒い尻尾が見えた気がしたのだが、それはきっと幻覚であろう。
「ちょっと待て」
地を這う重低音でユウを呼び止めているのは、不機嫌まっただ中のケヴィンである。
現在ケヴィンは、何故か診療所を手伝って……と言うより、手伝わされていた。彼の手には、何だか良く解らない妖しげな薬品の入った段ボール箱がある。
「何です?」
「俺は何時から、あんたの助手になったんだっ!!」
「……なってませんよ」
「なら、手伝わすなよっ」
ぶりぶり怒るケヴィンに向かって、ユウが何とも意地の悪い笑みを浮かべた。
「助手だなんておこがましい。俺の助手になりたいのなら、もっと色々とお勉強して下さいね。ま、それまでは、何とか雑用係と言ったところでしょうかね」
女王様なら、ここで高笑いが出て来るだろう。
けれどその場にあったのは、あまりにあまりな言葉を聞いて、怒りの為に硬直しているケヴィンである。
そして有に三秒後。
「………。巫山戯るなぁーーーーっ!!」
ケヴィンの絶叫が、辺り一帯に響き渡ったのであった。
Ende
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