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「伸るか反るか」
門屋・嬢(0517)宅に珍妙な客人が訪れたのは八月の、盆明けの事だった。
墓参りだ帰省だと騒ぎ立てる世間の波から思いっ切りシャットアウトされた嬢は兎も角、大学教授の養父に休みらしい休みなど有る筈も無い。
今日も今日とて著名な心理学教授の講演会に駆り出され朝から姿を見ていない。料理は誰かに食べて貰ってこそ作り甲斐が有ると謂うもので下手に凝った料理を作っても食べるのが自分一人だけでは虚しいだけである。嬢は冷蔵庫の中の余り物を使って簡単に昼食を済ませ、洗い物を片付けていた。
幾分減った蝉の声、勢い付いた水道の音、付けっ放しのテレビ、家の前の幅狭な道を抜ける車のエンジン音、近所の家から数ヶ月前より聞こえ始めた赤ん坊の泣き声。
其のどれとも違う音が遠く背後より聞こえた気がして、嬢は水道の蛇口を捻った。聞き慣れた自宅のチャイムは考えると謂う行程を完璧にすっぽ抜かして、嬢の知覚神経と運動神経を結び付ける。手の水滴を拭い、エプロンの蝶々結びを解きながら玄関に向かった。
「はいはい、どちら様ー?」
吐き捨てながらドアを押し開けると、外には見慣れぬ中年の男性が立っていた。暑苦しく伸ばされた髭に白い物が混じっているのを見ると初老と言っても良いのかも知れない。
男性の小太りな輪郭は年齢を曖昧にしている。年代は養父よりも上だろうが学者仲間だとすれば納得は行く。嬢は咄嗟に取り繕った。
「すいません、親父…いや、父は今出掛けてまして」
「いえ、門屋嬢さん。貴女にお話があって来たんです」
「へ?」
すっかり養父の知り合いだとばかり思っていた嬢は困惑した。必死になって相手の顔を大学の教授連中と重ね合わせてみる。が、思い当たる節は無い。
大学の線が違うとなればサバイバルゲームの関係者だろうか。首を捻る。如何にもイメージが結び付かない。この線も違うとなれば―――――新手の押し売りか?
嬢は無意識に黒いトラッシュケースを探した。押し売り業者=黒いアタッシュケース。嬢の脳内ではこの二つは切っても切れない関係なのである。
が、幾ら探しても其れらしい物は見当たらない。嬢の視線を疑いの眼だと感じ取った男性は素早い動きでスーツの胸元に手を入れた。
まさか、喧嘩で負かした連中が仕返しにヤクザでも雇ったのか……?嬢は突然の攻撃に備えて身構えた。
「すみません。申し遅れました。私、こう謂う者です」
嬢の予想は大きく外れた。取り出されたのは銃でも無ければドスでも無い、何の変哲も無い銀色の名刺ケースだ。
其の中から吐き出された一枚の名刺を受け取って嬢は眉間に皺を寄せた。卵大の皺一つ無い紙切れに載った『映画監督』の四文字。
嬢は思わず不躾に手の中の名刺と目の前の男性を見比べた。
「……………………ええー?」
素っ頓狂な声が漏れる。信じ難い現実にクーラーのおかげでフリーズしていた嬢の脳みそは、ハイスピードで溶けて行った。
『blue in red』。
青の中の赤。
青は孤島を取り囲むように広がったネイビーブルーの青、赤は其の孤島に聳え立ったホテルの中で起こる惨劇を象徴する、血の赤。
空覚え出来てしまう程、其の謳い文句は至る所で聞く事が出来た。国の謀略に依って集められた数十名の一般市民がたった一つの生存権を賭け孤島のホテルで殺し合いを行う、内容だけなら嬢も知っている話題作の小説だ。
そう。良い意味でも、悪い意味でも話題作なのだ。
暴力的な描写や残酷なストーリーは世間の話題を浚うと同時に大きな反感を買い、編集部や作者に脅迫状めいた手紙が送り付けられたと謂う噂も真実味を帯びて出回っている。
其れでも矢張り敵と同じだけファンも居るのだろう。嬢は十五禁指定で映画化されると友人伝手に聞き及んでいた。そして、嬢の記憶が正しければ其の映画の監督・指揮を取るのは今嬢の目の前に座っている、此の男性なのだ。
先程は怪しい押し売り業者かヤクザにしか見えなかったが、名前を聞けば何と映画界の大御所として知られる有名な映画監督だったのだから吃驚だ。おまけに男性が嬢の家を訪れた理由が本人直々の映画の出演依頼交渉だと謂うのだから驚きを通り越して、笑いが込み上げて来る。相手の手前、大声で笑う事は出来なかったが。
「其れであたしを其の映画に使いたいと?」
嬢は未だ事態を呑み込めずに居た。正直相手が喋っている言葉の半分も理解出来ていないし、自分が何を喋っているのかすらちゃんと理解出来ていない節がある。
嬢は、お互いの間で交わされる会話が全て異国の言葉のように思えた。男性は真剣な面持ちで両肘を両膝の上に突き、繋いだ両手の上に自らの顎を乗せた。
「そうです。実は貴女が参加していたサバイバルゲームの審査員が私の知り合いでして…配役で悩んでいる所に君の話が飛び込んで来たものですから是非一度お会いしたいと。今日実際お目に掛かって驚きました。貴女が私の想像していた以上に理想的な方だったので」
「有難う御座います。お褒め頂いて光栄です。でも、あたしは素人だし、とてもじゃないけど映画出演なんて…」
「私は本物のサバイバルシネマを作りたいと思っています。ストーリーや登場人物の設定等は最低限原作に沿って進めて行きますが、アクションシーンは全てアドリブ。勝敗に依っては台本の変更も已むを得ないと考えています。此の映画の成功には俄か仕込みでは無い、本物の強さを持つ人材が必要なんですよ」
話を聞き終える頃には男性の真剣な雰囲気に呑まれて地に足のついていなかった嬢の表情も引き締められていた。
面白い、と思う。興味をそそられると謂うべきか。けれども嬢には養父の手前もある。許可も無しに気安くOKを出す訳には行かない。
少し考えて下さい、と嬢が返答を返すと手応えを感じたのか男性は険しい顔を少しだけ和らげて、前のめり気味だった体制を元に戻した。
「…解りました。気持ちが固まり次第、名刺の電話番号に連絡を下さい」
男性は馬鹿丁寧な挨拶と、嬢に出演を依頼した原作の小説と資料を残して大人しく帰って行った。返答の期日を告げずに帰ったと謂う事は相当嬢が欲しいのだろう。
嬢は手元に残された分厚い小説を部屋に運ぶと、夕食の買い出しに出掛けた。今夜は豚カツにしよう、嬢は何と無くそう思った。
『blue in red』は只の退廃小説だと高を括っていた嬢の心に多大な衝撃を投げ落とした。
一人の青年が偶然手に入れた福引の旅行チケットが実は政府の陰謀に拠る地獄行きチケットだったと謂う日常から非日常へ移り変わる過程、初日の天国のようなバカンスから一転した地獄絵図、帰る事も逃げる事も出来ない人間の極限が見せた弱さ、醜さ、美しさ、裏切り、愛情、友情、絆、そして運命を捻じ曲げようとする比類無き強さ。
千頁弱の長編小説は瞬く間に消化され、嬢の心の内に溶け出して行った。感動と呼ぶには少し後ろ暗い、共感と呼ぶには余りに非日常過ぎる小説の世界が嬢の時を奪い、気が付けば時計の針は十時を回っていた。当初の予定通りに講演会が進んだとすれば養父はもうすぐ帰宅する筈。夕食を温め直さなくては。
其の前に、嬢は監督が小説と一緒に置いて行った資料に目を通した。右上の角をホッチキスで留められた五枚の紙の中には、世界観や撮影場所などの簡単な情報が載っている。
最後の一枚には、仕事を引き受ければ恐らく嬢が演じる事になるであろう登場人物の名前とプロフィールが書き示されていた。
『田崎あずみ』
『二十四歳。独身。元女性自衛官で今は花屋のアルバイト。正義感が強く今の政府の遣り方に納得出来ず、辞職。お国の世間体の為、表向きは不祥事に因る解雇と謂う事になっている。昔言い寄られてこっ酷く振った上司の逆恨みで今回の事件に巻き込まれる。ツアーの参加者の中では飛び抜けて優れた戦闘能力と身体能力を備え持つ。悲惨な環境に身を置きながらも主人公である青年に淡い想いを抱き始める』
「たさき…あずみ……」
嬢は同じ名前を何度も反復した。原作中で田崎あずみは無くてはならないキーマンだ。無論登場人物それぞれに存在する意味があるものの、彼女の存在は其の中でも一際異彩を放っていた。当初主人公と行動を共にしていた彼女は途中一人になった所を狙われて二人の男性を已む無く殺害する。
仕方の無い事だと言い聞かせながらも実は自分は人を殺す事を楽しんでいるんじゃないかと苦悩するあずみ。青年があずみを見つける頃には彼女はホテル内に仕掛けられた罠に因り瀕死の重傷を負っていた。ホテルの庭であずみを抱き寄せる主人公、そしてあずみは微笑みながら言った。
「空ってこんな高かったのね…知らなかった」
嬢の口を自然に吐いて出た言の葉はあずみの最期の言葉だった。優れた作品は読むだけで其の人間の心に作品の登場人物を作り上げてしまう。
嬢に演技の素質が有るか如何かは不明だが、嬢の中には『あずみ』と謂う一人の人物が確かに産声を上げたのだ。嬢は文字が持つ底知れない影響力に戦慄した。
そして此の役を心から演じたいと、死を体感するには此れしかないと思った。
其の為には先ず養父を説得しなければならない。嬢は冷蔵庫の中に冷えたビールが入ってる事を思い出して、打算的に笑った。
映画の撮影終了と同時に嬢が『役者は皆軽度の多重人格障害者である』と謂うテーマの論文を発表したとかしなかったとか、其れはまた別の話。
初めまして。門屋嬢様。典花です。
今回は発注有難う御座いました。修正の為、納品が遅れてしまった事を此処にお詫び申し上げます。本当に申し訳御座いませんでした。
然も、其の修正点がとても単純で普通なら犯さない筈のミスだったのでお恥ずかしい限りで御座います。以後このような事が無いように気をつけたいと思います。
さて、芸能ネタ大好きな私としてはこの続きも書きたかったのですが、此の儘書き続けるとキリが無くなりそうだったので丁度区切りの良い所で終わらせて頂きました。
気に入って頂ければ嬉しいです。今後とも宜しくお願い致します。
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