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路地裏の賢者
けして澄んでいる訳ではない……寧ろ視界はそれ程よくない。
透明度の低い水の中、降り注ぐ樹木の葉陰からの木漏れ日がカーテンの様に広がっていた。
これは夢……それはわかっている、水の中で長時間自由に行動できる力など自分は持ちえていなかったから……
夢の中で彼は1匹の魚だった。鰭をかき水の中で身を躍らせ、水中に沈んだ木々の間を自由に泳ぎまわる魚にその心を重ねていた。
あぁ……そうだ……もうそろそろ、外は雨季が来る頃だったっけ……
きっとアマゾンの森は水の中に沈み、きっと彼の好きな熱帯魚達の楽園になっていることであろう。
思う存分に水を感じ、彼の心は安らぎを覚えていた。
つかの間の休息。
ヴヴヴヴ………こぽこぽこぽこぽ……………
静かな部屋の中は小さなモーター音と水音だけが響いていた。
「……う〜ん……」
まだ夢から覚めやらぬのか、フォルスライ・アレイナは身を起こすとぼんやりと宙を見つめていた。
なんだか良い夢を見た気がするが、既に幸福感だけを残し詳細は失われていた。
得てして夢とはそのようなものであるから、あまり気にしていない。
「…なんだったっけ………ま、いいか」
室内を照らすのは、部屋の台という台。壁際に所狭しと並べられた水槽に取り付けられた青白い照明の光。
ディスカス、ネオンテトラ、エンゼルフィッシュといった色鮮やかな熱帯魚から、淡水のエイやフグといった変り種。
そして一際目を引くのは、ベッドと略同じサイズでそのサイドテーブルに設置された巨大な水槽の中を泳ぐ、鈍い金色の鱗の古代魚の姿。
それらは全てがフォルスライの趣味で集めたペット達であった。
「はらへったな……」
特に今は切羽詰った仕事は入ってなかったはずである。
ぼりぼりと、乱暴に頭を書きながらフォルスライはひとつ大あくびをするのであった。
それが何時もどおりの日常の始まり。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「あり?」
見覚えのある姿を見かけたのは、行きつけのカフェテリアに向かっている途中であった。
黒曜石の様に滑らかな漆黒の肌に、燃えるように赤い血の色の瞳。
「なんでこんなとこうろうろしてるんだ?」
呆れた眼差しの先にいるのは何時ぞや路地裏で出会ったタクトニムの姿。
間違いようのないその存在感、何処か浮世離れした空気に何故回りの人間達は何も感じないのだろうか?
それよりも、思った以上にタクトニムという存在はこの町の中に潜んでいるのものなのだろうか?
「セフィロトの塔の中だけにいるってギルドでは聞いてたんだけど……」
どうやら公にされている情報はあまり当てにならないらしい。苦笑を浮かべながらフォルスライは、人ごみに溶け込むように佇む男に近づいていった。
「よ♪」
久しぶり。肩を叩きさり気なさを装い声をかける。
「……なんだ……またあんたか……」
「なんだってことないだろ、折角また会えたんだしさ。これも何かの縁だろ?」
「それは俺が何物だかわかっていて言ってるんだろうな?」
呆れたように男が方眉を上げる。
「なんだっていいだろ?別に俺はあんたが俺たちと違う存在だからって気にしないぜ」
あんたこそなんでこんな所にいるのさ?俺今から飯なんだけどどうせだからつきあわねぇ?
やや強引に、話を進める。ここで逃したら次は何時会えるかわからない。
フォルスライは純粋に、このタクトニムの男に興味を覚えていた。
「俺はフォルスライ、フォルスってよんでくれな♪」
「………」
肩を竦めて、タクトニムは観念したらしい大人しくフォルスライの後に付いて歩き出した。
「おっちゃん、俺トスタニァね」
行きつけの定食屋で、ブタの腸に牛挽肉と香辛料と塩で味付けしたソーセージをいためたものと少し固めの白パンを注文する。
付け合せのビネガーで味付けをしたトマトやキュウリ、タマネギと一緒に食べるのが絶品なのだ。
飲み物には、これでもかというほど砂糖を入れた濃い目のコーヒー。
この辺りでは極一般的な食事風景だった。
「あんたは?」
「パンだけでいい」
「他のも食べないと栄養偏るぜ?」
野菜とか肉とか……
「お前たちと一緒にするな」
むすっとした口調で、タクトニムがそっぽを向く。以外に可愛らしい一面が垣間見えた。
「寧ろあんたの場合、生肉をそのまま食べてるような気がするけど違うんだな」
「ある程度の炭素とミネラルがあれば十分だ……」
タクトニムだからといって、肉食であるというのはどうやら偏見だったようだった。
「ふ〜ん……そんなもんなんだ………」
「あくまで、俺の場合はだけどな」
人に紛れている所為か、人間以上に人間らしい表情を作るのが旨い男だった。
仏頂面のまま何もつけていないパンをそのまま口に無造作に押し込む様子は、どちらかというとパンそのものの味を楽しんでいるようにも見えた。
タクトニムにも味覚というものは存在するのだろうか?
目の前にいる男を見ていると次々と疑問が浮かび上がってくる。
ただ、全てを聞くのも不躾だと、それなりに気を使いながらフォルスライは会話を楽しんでいた。
他愛もない会話を交わしながら、タクトニムとわかっている男とのする食事は楽しいものだった。
「魚ねぇ……確か豊穣の象徴とかいわれてるらしいが、あんたにそんな趣味があったのか」
「どうせにあわねぇ、とか思ってるんだ。ていうか俺の名前はフォルスだっていってるだろ!」
どうせ生き物育てるような男には見えませんよ〜折角だから名前で呼べよな!
と、半ば自虐的にぼやく。
「いや、いいんじゃないのか?生命は水から生まれ……水にかえる……水なくして生命は育たないからな………」
意味深な言葉を紡ぐ。
「へ?」
「確か今はあるかどうかしらんが、キリストとかいう奴の頭文字と神の子、救世主とかいう言葉を組み合わせると魚になるってどこかで聞いた覚えがあるな……」
「……きいていいか?あんたほんとにタクトニム……?」
想像以上に博識な異形の存在にフォルスライは目が点になった。
「ん?常識じゃないのか?」
このくらいのことと何でもないことの様に彼はいったが、明らかにそれは世界崩壊以前の古文書を紐解かなければ出てこない知識であった。
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「俺たち……あんな奴らと遣り合ってるのかよ……」
想像以上に高度な知識生命体。敵対するタクトニム全てがそうだとは限らないが冷静になって考えれば考えるほど厄介な存在だった。
唯一の救いは今日であった彼が、人間に対して進んで敵対するような素振りを微塵も見せなかったこと。
短い時間ではあったが、彼との会話はフォルスライにとっタクトニムという存在を見直すきっかけにもなった。
カーテンを開け放した窓の外には相変わらず、漆黒の闇と点在するネオンの明かりだけが見える。
これが都市セフィロトの通常の姿。
「そうだ、あんたの名前の教えてくれよ」
「なんでそんなことを知りたがる?」
「だって、ずっとあんたとしか呼べないと不便じゃん!」
そう力説すると苦笑しながら、彼は名前を教えてくれた
『アフラ』
古の神の教えにおいてそれは、最高神、最も賢くそして尊ぶべき存在の名だと、コンパートメントに帰ってからデータバンクから引き出した情報に記されていた。
彼がそれをしっていて名乗っているのか、それとも別の誰かがつけた名なのか……
流石にそこまで踏み入ったことは聞けなかったが……それでも、今後彼、アフラが敵対する存在にならなければいい……そう願う。
ベッドサイドの水槽の中を悠然と泳ぐ、金色のアロワナの姿を見つめながらフォルスライは本日の出会いに思いをはせるのであった………
【 Fin 】
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