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浮闇
早く過ぎ去れと思いし時は、速度を変える事なくただただ緩やかに流れて行く。
マルクトの一画に、セシリア・アイルフィードの自宅件研究施設はあった。広々としているが、花の一つも置いていない殺風景な場所。寝食と研究の為だけの場所。1階と2階が居住スペースで、地下にあるのが研究施設。
「残ったのは、ここと財産と……」
セシリアは呟き、そっと緑の髪を触る。さらりとした緑の髪が、セシリアの手の中で踊る。
(この、髪と目の色が変質した時に手に入れた……頭脳)
超能力研究者であった両親は、セシリアが幼少の時より人工的に超能力を作り出すための実験を、セシリアで行っていた。そして五歳の時に行われた実験が元で、髪と目が変質した。髪は緑に、目は金色に。それと同時に、セシリアはずば抜けて高い頭脳を手に入れたのだった。
「両親は失ったし、他に身寄りもない」
セシリアはそう言うと、鏡の前に立つ。どう見ても大人には見えない。当然と言えば当然だ。セシリアは、まだ十歳の子どもなのだから。
(どれだけ高い頭脳を持っていたとしても、私はまだ子どもでしかないのだ)
この世界に於いて、子どもが一人でこのだだっ広い研究所と少なくない財産を所有し、奪われぬという事は無い。人に知られれば、あっという間にろくでもない連中に全てを奪われてしまうのが関の山である。
子どもというどうにも出来ない年齢のハンディキャップに、セシリアは奥歯を噛み締める。早く年齢を重ねる事ができることが一番いいのだが、それは望んでも叶わぬものである。そしてどんなに自分を大人っぽく見せかけようとしても、物事には限界というものがある。十歳という年齢は、大人と思わせられる程の外見を伴わせてはくれない。
(……後見人がいる)
セシリアはそう、冷静に判断を下した。今自分に必要なのは、子どもである自分をフォローする事の出来る大人の存在である。年齢を早く重ねる事が出来ない身である限り、大人という自分以外の存在は不可欠となる。セシリアから全てを奪おうとする連中を退けられる、後見人という存在が必要となのだ。
「募集なんて間抜けな事はしないが……まあ、足で最良な人材を捜すのがいいだろうな」
セシリアはそう言うと、外出の為の準備を始めた。
(絶対に、超能力研究をしている輩だけにはしない)
心の中で呟き、セシリアは強い意志を目に宿す。
両親にされた数々の実験を、セシリアは決して忘れてはいない。高い頭脳を手に入れたというのに、両親はそれで良しとはしなかった。超能力を疎なわせようと、日々苦痛を強いてきたのだ。決して超能力が備わる事は無かったが、代わりに憎悪だけは肥大していった。両親や超能力研究者に対する、多大な憎しみ。
ある日突然、両親を恨んでいた複数のPK能力者たちによって両親は殺害された。燃えつづけた憎しみの炎が揺らいだ、一瞬であった。
「さしあたっては、酒場だろうか」
セシリアは姿身の前で身だしなみを整えつつ、呟く。街の中で、一番情報を聞きやすく、また人を見定めやすいのは酒場である。夜が近い今、人の入りは上々だろうと考えられた。勿論、子どもが紛れていると妙な因縁をつけられないようにしなければならない。
迅速に、だが確実に情報を入手しなければならない。
セシリアはドアから外に出、鍵をかけて酒場に向かおうとした。……と、その瞬間だった。
ばっ、と男が突如現れたのである。小麦色の肌に、高く結い上げられた闇に溶け込むような黒い髪。そしてはっとした表情の中に浮かぶ、二つの月色。
「……傷ついているようだな」
ぽつり、とセシリアは呟いた。彼は、所々傷を負っていた。
(タクトニムと遭遇して、逃げてきたか)
彼のやって来た方向には、ショッピングセンターがある。それに加えて所々傷ついているという事は、異形のモンスターであるタクトニムと遭遇して逃げてきたという事が容易に想像できた。
(よく、これしきの傷で助かったものだ)
セシリアが傷の具合を見ながらそう判断していると、彼はセシリアと目が合ったのに気付き、そっと口を開く。
「すまない」
「え?」
小首を傾げて尋ね返すセシリアに、彼は庭をぐるりと見回してから軽く頭を下げる。
「庭を、荒らしてしまってすまない」
彼は申し訳無さそうな顔をしながらそう言い、もう一度頭を下げてからゆっくりと顔を上げた。再び浮かぶ、二つの月色。
セシリアが何かを言おうとする暇も無く、彼はくるりと踵を返した。思わずセシリアははっとし、気付けば彼の腕を掴んでいた。彼は掴まれた腕を見、次にゆっくりとセシリアを振り返った。
セシリアは掴んだ腕を離す事なく、じっと彼を見つめながら口を開く。
「依頼したい」
「え……?」
彼は不思議そうな顔をして聞き返したが、セシリアは構わず後を続ける。
「依頼したいんだ。私は、あなたに依頼をしたい」
一瞬の沈黙が流れた。
彼の顔は驚きと呆然が混在し、セシリアは何か切羽詰ったような顔をしていた。
「……一先ず、理由を聞かせてもらえますか?」
彼は静かにそう言い、そして「私は、彩・月(ツァイ ユエ)と言います」と名乗った。
セシリアはほっとしたような息を漏らし、「じゃあ」と言って自宅兼研究所へと彩を誘った。
自宅スペースにあるリビングで説明をすると、彩は小さく「そうですか」と答えた。セシリアが出した紅茶に、口をつけながら。
「分かりました。では、キミが16歳になるまでという期限付きならば、承諾しましょう」
「16歳まで?」
セシリアが聞き返すと、彩はこっくりと頷いた。それくらいの年齢になれば、後見人が必要にはならないと思ったのかもしれない。セシリアは「分かった」と答える。期限付きだろうが何だろうが、引き受けてくれるに越した事は無い。
「それで、報酬の事なんだが」
セシリアが金額を提示しようとすると、彩は「そのことですが」とセシリアの言葉を阻む。
「お金はいりません」
「何だって?」
怪訝そうに尋ね返すセシリアに、彩はそっと微笑む。
「食住の提供は、して貰えますか?」
「それは当然だ」
「ならば、それで充分です」
にっこりと笑う彩に、セシリアは思わず笑ってしまった。後見人などという面倒な事を期限付きとはいえ承諾した上に、食住だけでお金がいらないとは……!
「何だ、お金がいらないのか」
セシリアがそう言うと、彩は頷く。柔らかく笑みながら。
「いらないのか」
セシリアは繰り返し、そして声を上げて笑った。
(何年ぶりだろう)
あははは、と笑いながらセシリアはふと考える。
(こんなにも声を上げて笑ったのは、何年ぶりだろう)
目の前では、彩がにっこりと笑いながらセシリアを見ていた。セシリアは妙におかしくなって、ずっと笑っていた。
何年ぶりかになる、笑い声をあげて。
セシリアは2階にあるはめごろしの窓から空に浮かぶ月を見つめ、ふと思い返す。
「あれから、4年か」
彩と出会った時の事を思い返すと、いつも自然と笑みがこぼれた。自分がどれだけ間抜けな第一印象を与えてしまったのか、あの時の彩の条件はなんとおかしかった事か、と。
(もう、4年も経ったんだな)
彩の条件を承諾したのだから、残されているのは後2年である。彩が後見人としていてくれるのは、残り2年。承諾した当時は6年もあるのだと思っていたのだが、年月はあっという間に過ぎ去ってしまい、既に半分を通り越してしまっていた。長いと思われていた6年のうち、三分の二が過ぎ去っていってしまったのである。
(穏やかな日々が、続いているというのに)
セシリアはそう考え、溜息を漏らす。
残された研究所を、財産を、自らの頭脳を。誰にも奪われる事なく安穏と過ごしてこられたのは、紛れも無く後見人を引き受けてくれた彩の存在であった。そしてこうして緩やかな時間を過ごしているのも。
(あと、2年)
最初は、早く年齢を重ねたいと願っていた。子どもでしかない自分が歯痒く、後見人という大人が必要だという事が何とも口惜しく感じたものだ。
彩に出会うまでは。
期限についての話題は、セシリアと彩の会話にはのぼっていない。彩は時折出そうとしているようだが、セシリアがそれを逸らしていた。彩は逸らされたら、話題に出そうとはしなかった。そのようにずっと、過ごしてきたのだ。
「妙な気分だ」
セシリアは呟き、再び窓の外を見る。闇夜に輝く、柔らかな光。
「何をしているんです……?」
ふと声をかけられ、セシリアは振り返る。見ると、そこにはいつの間にか現れた彩が、穏やかな笑みを携えて立っていた。
「何でも無い。ただ、外を眺めていただけだ」
「外を?」
彩はそう言い、セシリアの隣に行って窓の外を見つめる。
「綺麗な月夜ですね」
セシリアは外を見る彩の横顔を、そっと見つめる。こうして隣にいる彩が、2年後にはいなくなる。嘘のような現実が、圧し掛かってこようとしている。
(平気なのだろうか?)
セシリアはじっと彩の横顔を見つめ、考える。本人に直接聞くのが一番いいとは分かっていたが、どうしても聞く事は出来なかった。
(このまま、時が過ぎていくのが平気なのだろうか?)
セシリア自身は、何度も問いかけていた。その度にセシリアは「分からない」と答えていた。本当は、とっくに分かっている事なのかもしれないが、セシリアは「分からない」と答え続ける。
この自身への問いと答えは、恐らくは半永久的に行われるのだ。彩との約束の期限が訪れる、2年後まで。
(本当に、妙だ)
ずきり、と胸が痛むような気がして、セシリアは彩から目を逸らした。そして彩と同じように、窓から月を見つめた。
闇世の中に浮かぶ月は、いつか見た彩の両目の色に酷似していた。
時を経る速度が変わる事無いとは知ってはいても、心の片隅にてただ緩やかに流れていかん事を願っている。
ただただ、緩やかに。
<闇に浮かびし月を思い・了>
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