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<東京怪談ノベル(シングル)>


「もう一人の私へ捧ぐ」



門屋・嬢が映画の撮影を終えて早二週間が過ぎようとしていた。十月の風は肌寒く、朝方の窓には結露が溜まる。高く澄み渡った空は夏の青臭さを脱ぎ捨てて、憂いを秘めた大人の色を纏い始める。何時の世も季節は人間の一生と瓜二つの過程を歩み、瞬く間に過ぎ去って行くのだ。
盛りを過ぎて、後は只老いさらばえるばかり。死は刻一刻と迫りつつあるのに、過去の栄光は脳裏から離れる所か次々と蘇って行く。其れがどれ程の苦痛を伴なうのかなど嬢には想像も出来なかった。
嬢は死の恐怖について良く考える。其れは丸で遺伝子に組み込まれた本能の如く、嬢の興味を惹きつけて止まない。自分でも如何して其処まで執着するのか今一理解出来ないのだが、研究対象として以外に何か深い理由があるように思えて仕方無かった。
其の為、普段は死の恐怖の研究に没頭する日々を送っていた。研究に対して大きな目標を持つと謂う事は素晴らしい事だと大学の教授達も納得してくれている。一部の教授に至っては協力的な態度さえ見せてくれる。然し、提出用のレポートに関しては別だ。
学者は完璧主義者の人口が最も多い職業だと嬢は考える。中途半端な、研究途中のレポートを提出した所で彼らは笑顔で頷いてはくれないだろう。つまり嬢は別の研究課題を見つけなければならないのだ。
夏休みを過ぎて提出期限が徐々に迫ると如何にかなるだろうと楽観的に考えていた嬢も流石に焦った。
嬢は『閃き』には自信があったが、今回は不思議と何も思い浮かばなかった。何も思い浮かばなければ調べようが無い。取り合えず心理学の本を漁ってみたものの此れと謂って興味を惹かれる分野は無い。
従ってやる気も無い。此れでもかと謂う程、無い無い尽くしだ。
嬢に映画出演の話が舞い込んだのはそんな時だった。
優れた作品、実力派の共演者達、有名な監督。其れ等に大した興味を持たなかった嬢が出演を決めた理由は只一つ『自分が死ぬ役』だと謂う事だった。
疑似とは謂え死ぬ体験が出来ると謂う事は嬢にとってこの上無く魅惑的な誘いのように思えた。死の恐怖への鍵が見つかるかもしれない。もし、見つからなかったとしても貴重な経験には違いない。
嬢は誘いを受けた次の日、養父を説得して監督に自らの意思を告げた。すると監督は大層喜んで、とんとん拍子で嬢の正式な出演が決定し、一ヶ月間の出張ロケに参加する運びとなった。
ロケ地は嘗ては有人だった本物の無人島で、実際に残っていた大きなホテルを改築して撮影に使った。出演者やスタッフはホテルの部屋の幾つかに泊り込んで、寝食を共にした。同室の出演者達と監督達にバレないようにこっそり肝試しに出掛けたり、自分の出番の待ち時間に海で遊んだり、ロケと謂うより合宿のようなノリが強かった気がする。
島で生活する間、嬢は皆から『あずみ』と呼ばれていた。嬢だけでは無い、皆が自分の演じる役の名前で呼ばれていた。早く役に馴染むようにと監督が考えた案だった。
最初は慣れなかったが、日が経つにつれて其の違和感も薄れて行った。寧ろあずみと呼ばれないと落ち着かない気すらしたのだ。嬢はあずみ。あずみは嬢だった。
あずみが死ぬシーンで嬢は心から涙を流した。半身が奪われて行く。涙の正体は喪失感に違いなかった。撮影が終わり島を離れても喪失感は消えない。島で出来た友人達と別れる時に流す涙は最早残っていなかった。



「嬢」
「………」
「嬢ってば」
「えっ、あっ、はい?」
其れって誰だっけ?口走りそうになる言葉を嬢は必死に呑み込んだ。
嬢は私だ。あたしの名前は嬢だ。当たり前の事が、頭に入って来ない。違和感が残る。
具合でも悪いのと気遣う友人の顔を苦笑いで遣り過ごして、嬢は眉間を擦った。昨日は夢も見ない程とても良く眠れたのに脳の裏側にこびり付いた倦怠感が中々離れない。後頭部に鈍痛が波のように押し寄せる。
「嬢、何か最近変わったよね。服装の趣味とか好きな食べ物とか」
「そう?」
「うん、雰囲気とかも違うし…って本当大丈夫?顔青いよ?」
「あんま…大丈夫、じゃない」
頭痛に吐き気まで加わってもう生返事しか返せない。嬢は友人に謝罪の言葉を述べて帰路に着いた。相当嬢の顔色が悪かったのだろう、友人は問い詰めもせずにお大事にと嬢の顔を心配そうに見つめていた。
嬢は帰宅すると養父への挨拶も御座なりに自室のベッドに横たわった。頭痛は止まない。視線の先でカレンダーの赤丸が忌々しく主張している。
「あ…レポート書かなきゃ…明日は親父が朝から仕事だから四時に起きて弁当作って、其れから教授の講演会の手伝いも……」
頭痛が悪化する。如何してこんなに忙しいんだろう。如何して嬢はこんなにも色々な事をしなくちゃならないんだろう。あたしは何で嬢なんだろう。あたしがもし。
「あずみだったら…」
あずみは強い。あずみは気高い。あずみは美しい。あずみは人間が大凡憧れる全ての物を持っている。
嗚呼、でもあずみに成るのは無理だ。何故ならあずみは死んでしまったのだから。―――――死んでしまった?
何を言ってるんだろう。死ぬ訳が無い。彼女は物語の登場人物に過ぎないのだ。若し作者があずみが蘇るような文章を書けば簡単に彼女は生き返る。紙の上の人物に生死を与えるのは容易い事なのだ。
リアルな意味であずみは死なない。最初から生きていない。でも、確かに、あの島であずみは嬢の中に居た。もしあずみが居ないのならば映画の中で彼女の言葉を吐き出していたのは一体、誰?
『空ってこんなに高かったのね…知らなかった』
頭が痛い。頭が痛い。頭が痛い。もう眠りたい。
あたしは門屋嬢を辞めたいの?其れとも田崎あずみに成りたいの?
一体どっちなんだろう。
もう、眠ろう。



嬢が意識を取り戻した時には既に外は明るくなっていた。のそりと身動ぎし頭を少しだけ持ち上げて周囲を確認すると、目覚し時計の針は六時過ぎを示していた。
「……親父の仕事何時からだっけ?」
乾いた声が洩れた。寝惚け眼を擦って、頭の中を探る。此れじゃない、あれでもない。探りに探って出て来た答えは絶望的なものだった。
「弁当っ!!」
嬢は文字通り跳んで起き上がると一通りあたふたして、其れから辺りをキョロキョロ見回した。意味は無い、無意識の行動である。だが、視界の端に引っ掛かった白い紙切れを見つけて嬢は小さく首を傾げた。
枕元に置かれた其れは養父からの置手紙だった。
疲れているようだったから起こさないで行くよ、昼は途中に何か適当なものを買うから気にしないで、余り無理をするんじゃないよ、そんな内容が流暢な文字で綴られている。
優しさが胸に沁みて何だか余計情けなくなる。嬢は大きな溜め息と同時に再びベッドに倒れ込んだ。
先程のどたばたで眠気は完全に吹き飛んでしまった。又、意味も無くゴロゴロと寝返りを繰り返す。
「レポート…」
書きたいのにネタは無い。だが、原稿用紙と睨み合ったら何か良い案が浮かぶかもしれない。
前例など無いのに其れに縋りざるを得ない。何せ提出期日は明後日なのである。もし死の恐怖に対する研究過程を書き綴れと言われれば原稿用紙三十枚どころか三百枚でも三千枚でも書ける自信があるのに。
嬢は重い体を起こしてデスクに向かった。原稿用紙の入っている引き出しを開けようと手を掛けて、其処で嬢は動きを止めた。
「鍵が、開いてる……?」
研究者にとって、研究材料は命と同等の価値がある。万が一の時の為にデスクの引き出しには全て鍵が付いていた。嬢は今まで一度も施錠を怠った事は無かったのに。
恐る恐る引き出しの中を覗いてみると其処にはホッチキスで留められた三十枚弱の原稿用紙が二つに折られてゴムで束ねてある。確かに原稿用紙は入れておいたが、書く前にホッチキスで留めるなんてそんな奇妙な保管の仕方はしていない。
嬢は其の原稿用紙の束を引っ張り出してデスクの上に広げた。一番上の原稿用紙には内容の題名と筆者名が嬢と良く似た筆跡で並んでいた。
『死の恐怖について』  
『田崎あずみ』
全身の毛と謂う毛が逆立った。小刻みだった体の震えが徐々に大きくなり、冷たい嫌な汗が背中の方から重点的に吹き出す。こんな文章おふざけでも書いた覚えが無い、覚えが無いと謂うより書いていない。
其れなら何故嬢のデスクの引き出しにこんな物が入っているのか。心当たりは、あった。
自分の名前を瞬時に認識出来ない、服の好みが変わる、苦手だった筈の食べ物を平気で食べる、其の逆然り。全て最近の嬢の行動に当て嵌まっている。―――――あたしはあずみに成りつつあるのだ。そして、あずみはあたしに成ろうとしている。
嬢はあずみ。あずみは嬢。あずみは島の中での生活を永久のものにしようとしているのでは無いだろうか。
確かに島の中でのあずみは嬢にとって半身だった。けれども其れが上手く行ったのは嬢にはプライベート、あずみには撮影と謂う生活の境界線が引かれていたからで、一つの体に二つの存在が共存する事は不可能だ。
あずみに悪意が有ろうと無かろうと、彼女の人格が嬢の人格を蝕んで行くのは確かなのである。嬢は原稿用紙から目を離すと掌大の置き鏡に自分の顔を映し出した。赤い瞳が戸惑いの色を浮かべている。
「ねぇ、あずみ。あんた、あたしに成りたいの?自分で言うのもなんだけどそんないいもんじゃないよ。教授連中は色々煩いし、友達付き合いは面倒臭いし、家事だって全部やらなきゃなんないし…」
其れでも。あたしは、やっぱり。
「勝手にあんたに成りたいとか思った癖に御免…あたしはそんな馬鹿みたいに忙しくてストレス溜まりそうな毎日が楽しくて仕方ないんだよ。だから、御免。此の体はあんたにあげられないんだ」
本当に御免、掠れた声が沈黙に溶ける。最後にもう一度御免、と謝って嬢は項垂れた。
気の所為かも知れない、嬢の都合の良い妄想かも知れない。でも、何処かでいいよ、とあずみの声が聞こえた気がした。
此の原稿用紙は燃やそう。そしてあたしはあたしの手であたしの言葉を綴る。徹夜したって、遊ぶ時間を削ったって構わない。
『あずみ』
そう呼ばれてももう二度と振り返らない。きっと。絶対。





『役者は皆軽度の多重人格障害者である』
『門屋嬢』

此の夏、私はとても貴重な体験をした。そして、其の体験を通して学んだ事が数多くある。
先ず、其れに至った経緯から説明しよう。盆明け、私は退屈していた。一人寂しく昼食の片付けをしていると其処に訪れたのは怪しい一人の男。彼は私に―――――中略―――――あの映画だけじゃない。TVのドラマでも、舞台劇でも役者は常に『与えられた役』という人格が心の中に芽生えているのだと私は思う。其れは心理学の『演技治療法』に似ている。
此方は患者に合わせたシチュエーションと役柄があるから演劇とは違うけれど、『演じる』と謂う点は同じだ。私も実際に演じてみて解った。
映画で与えられた役の最後の台詞「空ってこんなに高かったのね…知らなかった」を口にしたあの日、自分が自分で無くなってしまったような気分になった。
役者だけでは無く、私を含む誰もが多重人格、とまでは行かなくても、もう一人の自分が居る。
生活に合わせて。







お久し振りです。門屋嬢様。今回はシチュエーションノベル(シングル)のご依頼有難う御座います。作者の典花です。
納品がギリギリになってしまい申し訳御座いません。
今回は前作の続編、と謂う事なのですが、少しでもご期待に添える事が出来たでしょうか?
論文のテーマに一応合わせてみたのですが、構想の段階でとても手間取ってしまい、文章作成に取り掛かったのが二日前と謂う慌しい展開でした。
可也自由に書かせて頂いたので、各所各所に其方のイメージに沿わない所があると思います。その時は気軽に仰って下さいませ。
其れでは最後までお目通し有難う御座います。またのご依頼お待ちしております。