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<東京怪談ノベル(シングル)>


『夢と現実の狭間へ』

『人間は極限状態に達したとき、肉体と精神がどのような境地に達するのか』
 これはあたしが心理学者として、いや人生を歩んでいくうえでの命題だ。
 心理学の本などでは決して知ることのできない未知なる境地を実感したい。
 前回は『絶食による極限』を挑戦した。けれど、絶食は美容によくないのが問題だ。
 そこで新たな『極限』を体感するテーマとして『睡眠』を選んだ。
「よし。今回は睡眠の極限に挑戦だ!」
これなら食事もできるし、大学のレポートで徹夜もしてるからだいじょうぶそうだ。
 あたしは軽い気持ちで、さっそく今夜から睡眠の極限に挑戦することにした。

 それにしても、意味もなく睡眠を取らないというのは意外と暇だ。
 深夜はおもしろいテレビ番組がほとんどないし、ごろごろと寝転がりながら時間が過ぎていくのをただ待っているのは、退屈でたまらない。
「仕方ない。本でも読むか」
 取りあえず家にある心理学の専門書を読んでみる。これならあっという間に朝になりそうだ。集中できるようにヒーリングミュージックも流してみる。
「ふわっ」
 思いがけず大きなあくびが出た。
 しまった。ヒーリングミュージックのアルファ波はリラックス効果があるんだった。このままじゃ体がリラックスして眠くなってしまう。慌てて音楽をハードロックに切り替える。
 三冊読み終えたところで、ようやく白々と夜があけてきた。
 さすがに三冊も読むと、目がしばしばするし、肩や首も痛い。頭を使いすぎたせいか、頭もぼうっとしている。
 こんなんじゃいつまで経っても極限の境地に達することはできない。
「しっかりしろ、あたし。まだ一日目だぞ」
 気合いを入れるため、あたしは水で顔を洗うと、ぱんぱんと頬を叩いた。
「よし。大学に行けば緊張感もあるし、目も覚めるだろう」
 もう一度気合いを入れ直すと、急いで大学に駆けていった。

「――であるからして、まあフロイトのいうところのリビドーというのはですね」
 なんでこんなときにかぎって、退屈な講義が並んでいるんだろう。
 目の前の教授は毎回リビドーの話しかしない。まわりを見渡せば、ほとんどの学生が眠りに落ちている。あたしも普段なら一緒になって眠るところだけど、睡眠の極限に挑戦している以上眠るわけにはいかない。
 暇だから教授の白髪の数でも数えていよう。
 一本……二本……三本……。
 あたしは右から順番に数えていった。
 一二〇四本……一二〇五本……一二〇六本……。
 なんだろう。だんだん羊を数えている気分になってきた。
 教授のリビドーという声が頭の中でエコーしている。どこか遠い世界へと誘う呪文のようだ。意識が目の前の黒板の中に吸い込まれてしまいそうな……。
 ごん、と講堂に鈍い音が響きわたった。
「あいたー!」
 目から火花が散るとはまさにこのことだ。
 気づけば、あたしは見事に机の角におでこをぶつけていた。間一髪、教授の睡眠の魔法から逃れることができたらしい。目が覚めたのはよかったけれど、まわりに白い目で見られたのはかなり恥ずかしかった。
 いやいや、こんなことでくじけては、いつまでも極限に境地に達することができない。極限を極めるためには、他人の目など気にしている場合じゃない。
 あたしはさっそく購買部に走った。

「な、何やってんの、嬢」
 大学の友人が怪訝そうな顔であたしを見る。他の学生たちもあたしの顔を見ては、ひそひそとささやきあって、あたしから遠ざかっていく。
「見ればわかるでしょ。寝ないための対抗策よ。あたしは今睡眠の極限に挑戦中なの」
 あたしは今洗濯ばさみをまぶたにはり付けていた。
 まぶたを閉じないための作戦なのだが、これがめちゃくちゃ痛い。
「まあ、がんばってね。あまり無理すると体に毒よ」
 愛想笑いを残して友人は去っていく。
 午後の講義でも教授たちは、あたしの顔を見てぎょっとした。化け物でもみるかのような目で見られたけど、極限の探究という大きな目標の達成のためには多少の犠牲はやむを得まい。
 眠くなるたび、あたしの顔にはひとつずつ洗濯ばさみが増えていく。
 大学の授業をすべて終えたときには、あたしの顔は洗濯ばさみだらけになっていた。だけど、痛みに慣れていくせいか、だんだん洗濯ばさみを付けた場所から体がぽかぽかとあたたかくなって、ますます眠くなっていく。
 おかしい。地面の感触がほとんどない。ふわふわと雲の上でも歩いているかのようだ。
 目の前の景色も揺らぎ、自分が現実にいるのか夢の中にいるのかもわからない。車が走る音も女の子たちの笑い声も遠い。
「あっ。あたしの家だ」
 気づけば、あたしは家の前に立っていた。
 どうやって家にたどり着いたんだろう。よく憶えていない。洗濯ばさみを顔にはり付けたままの格好で帰ってきたというのに、誰かにじろじろ見られたという記憶もない。
「もしかして歩きながら寝てた?」
ぞっと背筋に冷たいものが走る。そんな注意力散漫で歩いているなんて。一歩まちがえたら車にはねられていたかもしれない。
 なんとかもう一度目を覚ます方法を考えないと。
「そうだ。特製ジュースをつくろう」
 バラエティ番組で相手を起こすために激辛ジュースをつくっていた。
 あれなら一発で目が覚めるはずだ。あたしはさっそく朦朧とする意識の中、冷蔵庫からタバスコやマスタード、青唐辛子、わさびなど刺激物を取り出してミキサーにかけてジュースをつくった。
 さっそく自室で茶褐色のジュースを、
「かんぱーい!」
 と天井にかかげたものの、
「ありっ?」
 風景がぐるりと回り、テレビが途切れるように、ぷつんと景色が消えた。

 なにが起きたんだろう。
 うっすらと霞んだ視界に時計が見える。時計の針は十一時半を指していた。
「あれっ? この時計狂ってる?」
 窓を開ければ、空の真ん中に届いた太陽からさんさんと陽射しが降っている。
「まさかあたし寝ちゃったの? しかも、一日中?」
 どうやらきのうベッドの上で意識が飛んで眠ったらしい。
「やばっ。大学!」
 慌てて大学に行こうとはね起きようとしたものの、体から力が抜けてベッドに倒れ込んだ。体がだるいし、頭もがんがん響く。ベッドからはい上がるのもおっくうだ。
「あっ。そういや、今日大学休みだ。よかったあ」
 あたしは安心してもう一度寝ようと思ったけれど、床にはきのうつくった特製ジュースがこぼれている。ジュースの味が気になって指先ですくって味見してみた。
「―――っ!?」
 火で焼いたような激痛が全身を駆ける。
 慌ててキッチンで水をがぶ飲みした。グラスから水を飲むだけでは足らず、蛇口から直接水を流し込む。だけど、いくら水を飲んでも、のどと舌の麻痺が取れない。
「あらし、こんらもの飲もうとしてらのか」
 注意力が切れたときの人間は、なにをするかわからない。
 もしこんなものを飲んでいたら、いまごろどうなっていただろう。
 一歩まちがえれば、命を落としていたかもしれない。
 あらためて睡眠の極限に挑戦するのは、命懸けだと思い知らされた。けれど、こんなことであきらめるあたしじゃない。いつか必ず極限の境地に達してみせる。
「でも、しばらくはやめとこうっと」
 そうかたく決意したあたしだった。