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<東京怪談ノベル(シングル)>


「蜘蛛の糸」



 『人は恐怖に追いつめられたとき、どうなるか』
 それはたまたま見つけた親父(養父)の論文。そのタイトルだ。

 「死の恐怖」「極限」の心理状態の研究に没頭していたあたし――門屋嬢は、しかし行きづまりを感じていた。
 これまで体当たりの実践経験ばかりから研究を進めてきた。もとからお節介焼きの性格もあり、人助けといってチンピラ相手に立ち回ったり、裏の世界に飛び込んだりもしたけれど、自分の研究テーマである「死の恐怖」「極限」の心理状態を体験できるのではないかと、ひそかに期待していたことも否めない。
 自分の身体で体感したものでなければ、実際に分かったことにはならないのだ。
 その信念自体に変わりはないが、そんな危険な状況へむやみやたらに自分を追いこみつづけるのでは身体がもたない。ようやくそれに気がついた。そこで先人たちの知識と知恵を拝借しようとしたのだが。

 「これも違う」
 苛立ちが声になる。
 今日も朝から大学の図書館に入りびたったが、成果はちっともかんばしくない。あたしは書棚と書棚の狭い間に佇んで、本日十何冊目かの論文を見つくろう。
 手にした本を書架に戻し、次の本を取りだそうとしたときだ。乱暴に引っ張ったせいだろう、隣にあった薄手の冊子が棚から落ちた。
 「イライラしすぎ……」
 ため息をつき、冊子を拾おうと身をかがめる。床に開いた紙面が見えた。ちょうど誰かの表紙である。タイトルは、『人は恐怖に追いつめられたとき、どうなるか』。よく見ると、著者のところに親父の名前。
 あたしはすこし興奮した。
 この論文は初めて目にする。
 手に取って確かめると、冊子は緑色の画用紙を表紙にした簡略な装幀で、おそらく小さな研究会が配布用に作成したものだ。
 ざっと斜めに読みはじめたが、しだいに一字一句を追うようになっていた。吸い込まれるように没頭した。なぜだろうか、そこに書かれていた文章に、あたしは既視感を感じていた。
 論文は親父の体験談のくだりに入っていた。
 兵士時代に体験した、人が恐怖に追いつめられる瞬間の話だ。しかし実際に追いつめられたのは親父ではなく、そのとき一緒にいた若い兵士。敵に追われ、森の中に逃げのびたときのことだ。そして、あたしの意識は若い兵士にシンクロしていく。文字の中で、あたしは恐怖に追いつめられる――
 


 場所は森。時間は夜。雨がひどく降っていた。
 寒かった。空腹だった。喉もかわいてしょうがなかった。だがそれ以上に明かりがなかった。一粒の光さえない。
 あたしたちは闇のなかに囚われていた。
 「大丈夫だ」
 そう囁きかける仲間の言葉も脳のなかまで届かなかった。ざああという雨音が気になってしょうがなかった。その音に何かがまぎれ、ひそんでいるのではないかと恐れた。
 逃走の途中で転倒し、ライトがつかなくなったのはあたしのせいだ。これ以上は動けない。厚い雨雲に覆われて、星明かりひとつない真っ暗闇の森のなかを、この豪雨のなかを動くのは命取りだ。
 互いの手をとり、大木を背にして座る。ぐっしょりと濡れた衣服はひどく重い。体温を奪いながら蒸発しても、やまない雨に乾かなかった。えんえんと体温を奪いつづける。体力が減っていく。腹も減る。寒かった。唇を舐め、雨粒で口を濡らした。
 湿った軍手でつないだ手と手。ズボンの下に苔と土。背中には木の幹が、右の肩には仲間の肩があると信じた。何も見えない。目は開いているはずなのに、雨は目に入っているのに、何も見えない。闇しか見えない。光がないから。不意に、身じろぎをする仲間にビビった。
 「なっ――」
 と、小銃の握把を握ろうと右手を引いた。得物は右肩に担いだままだ。だが、握られた手はほどけなかった。
 「大丈夫だ。少し姿勢を変えただけだ」
 その手はでかくて厚かった。見えなくってもそれは分かった。触れているから分かるのだ。
 その光景を頭の中で再現できる。触れる肩から仲間を察せる。全身から、自分が木の幹にもたれているのが想像できる。
 だが、そこから先は分からなかった。
 目はしだいに闇に慣れるというが、それはわずかな光があればこそ。そのかすかな光量で見えるように目が調整するのだ。
 まったくの闇では、いつまでも闇のままだ。
 自分の触れているところ以外は闇に覆われ、隠されきってしまっている。何も見えない。分からない。想像はできる。森が続いているだけだ。そのはずだ。
 だが、その森に何かがひそみ、いま、あたしたちの命を狙っていたら?
 「いや」と自嘲し、「あたしたちは運がいい。何かが来たら、雨音が遮られて分かるから」
 けど、しばらくたって雨はやんだ。

 誰も口をきかなかった。敵に見つかることは避けたかった。
 だが風が吹くと森は鳴いた。頭上からは枝葉のこすれる音が鳴いた。きしむ音。びううという風の音。禽獣の声がした。遠くから、近くから。地面の先から何かが転がり、駆ける音が聞こえた気がした。落ちた葉か、石か獣か、それとも敵か。小銃の悲鳴をあげる声を訊いた瞬間、あたしはきっと絶命するんだ。
 ただ闇のなか、あたしの首に手がふれた。針金のように細い、冷たい指がそっとふれた。誰もいない左の首に。上から喉をかっ切るように指がふれ、それは皮膚のなかに溶けて消えた。錯覚だ。そう思いたかった。だが。
 怖い――そう思い立つと仲間の手なんて振りほどけていた。地面をなぜだか掘っていた。指先の感覚が地面を知らせる。安堵した。声をあげた。帰ってくる音はないが、音の響く自分の身体は確認できた。だが見えない。闇に包まれきっている。風が吹く。森が鳴く。あたしも泣いた。叫びをあげた。闇のなか、背後に迫る何かを恐れて駆けだした。だが突如、闇のなかから何かに胴を捕まれて――さらにあたしは悲鳴をあげたが――押し倒された。そして顔面に鈍痛が。殴られた。罵倒される。また殴られた。口のなかに大きな何かが押し入れられた。仲間の拳骨、そして怒声。
 それでも発狂の寸前からは戻れなかった。高層ビルの屋上に追いつめられているようだった。一歩でも踏みはずしたら真っ逆さまに堕ちていく。魂が。

 怖い――
 この闇が怖い。この闇の先が怖い。この先にひそむ死の気配が。そいつが隠し持っている死の宣告が。
 怖がるな――
 脳髄に言葉がすうっと落ちていく。かろうじて残った理性がそう告げたのだ。
 そうだ。闇の中から何が出ても対処できる。獣だろうが、武器を持った敵だろうが。俺たちは訓練してきたはずだ。
 けど、無性に感じる恐怖がある。
 恐慌は伝播する。闇を伝い、空気に流れてやってくる。それにあてられることがある。だから知覚――五感だけに集中するんだ。魂の感じるものは排除しろ。音と匂い。温度と手触り、風の味を。
 急速に視覚以外の五官が醒める。闇に五感の糸がほとばしる。輝いて、幾重にも交叉して網になる。
 まるで輝く蜘蛛の糸だ。何であれ、そこに触れればあたしは分かる。何であろうと対処できる。そのための準備はしてきた。訓練を重ねてきた。
 広がっていく。闇のなかにあたしのあたしの光が。それは理性のきらめきだ。知識と推理の結晶だ。
 けど、輝く網の隙間から、闇からひたと、すうと立ち上ってくるアレはなんだ。アレ、としかいいようがない。魂が感じたものを言い表す語彙は少ない。言うなれば、破滅の予感。

 闇のなかに影が落ちた。
 その影は呪いという名の鋭利な刃。
 闇から這い出たそいつはカマを振るったのだ。五感の網を切り裂いたのだ。

 堕ちていく。闇の底へ。
 五感に確固たる自信を持っていようとも。 あたしの理性は破壊された。
 五感だけを信じきれない。
 それだけじゃあ闇は光で埋めきれないっ。
 だって、たしかに五感以外に感じるものがあるんだもの。魂が感じるものがあるんだもの。その名も知らぬ感覚器官に触れたものは、どうやって扱えばいい? そんな訓練、受けたことない。無性に感じてしまう恐怖に、どうやって立ち向かえばいい。理性の網さえ、その光さえ飲み込む闇に――あたしの身体が消えていく。
 もうあたしには、理由もなく怖がるだけの魂だけしか残されてない。魂だけが。衝動だけが。もはや理性ある行動なんて取れやしない。進むべき理性の足場が、輝く糸が見えないのだ。足下にはただ、闇だけが――



 まぶたを剥いたかと思うほど目を見開いた。
 気がつくと、あたしは書架のへりにしがみついてた。
 この話、前に聞いた親父の話に似ている気がする。既視感を覚えたのはそのせいだろう。そしてその話をきっかけにして、あたしは「死の恐怖」「極限」について研究するようになったのだ。
 裏表紙をめくり、冊子の発行年を確かめる。
 親父が書いた「極限」と「死の恐怖」に関する論文は十数年前に破棄されたっていうから、これはその前に書かれたものか?
 この論文を受け、親父は何を書いたんだ? 何を明らかにした? 何を再び謎にした?
 ただ唯一分かることは、恐ろしいということだけだ。
 これ以上、あたしは何を感じればいい? 何を体験すれば近づく。「極限」と「死の恐怖」に。
 未知は、闇だ。闇は理性の網を張ることで耐えられるが、その網をかいくぐり、衝動の神経をつまびく何かが闇にはある。未知にはある。いま、その未知にくすぐられるあたしの魂。うまく言い表せないけれど、これは興奮。そう信じたい。絶望への不安ではない。恐怖ではない。
 臆してなんていられない。やり遂げると決めたからには何年かかっても続けていく。未知を理性の網にからめとる。
 自分のこの目とこの身体とで、実感できるその日まで。