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<東京怪談ノベル(シングル)>


『空っぽのココロ』

 射撃場に乾いた破裂音が何回も響く。
 あたしはよく狙いを定めて引き金を引くものの、銃弾は見事に外れていた。
「なんだかなあ」
 その日はまったく銃弾が的に当たらなかった。
 こんなことは初めてだ。まだ銃器は特訓中とはいえ、いつもならもう少し自分の思ったところに銃弾が飛んでいくのに、その日に限っては初心者よりもひどい内容となっていた。
「これはスランプか集中力が切れてるってことか……」
 どうも最近自分の中が空っぽな気がする。それまで体中にほとばしっていた情熱が消えたように体がだるくて、何もかもが楽しくない。
 あれほど人間の心理の研究や銃器の特訓について、あれもやりたいこれもやりたいと抑えようがないほどの情熱があふれてきたのに、最近では何にもやる気が起きない。
 なんとかやる気を取り戻そうと射撃の練習をしてみたものの、気持ちが浮ついて銃を握る手にも力が入っていない。このまま続けていたら大怪我をする危険もある。
「しっかりしろ、あたし」
 このままいつまでも無気力な状態ではいられない。
 なんとか以前のような気持ちに戻らないと。
「大学の図書館にいれば、少しはやる気が出るかも」
 そう思ったあたしは、急いで大学へと向かった。

「まいったなあ。どれもこれもぴんとこないや」
 大学図書館にたどり着いても、やっぱりやる気が起きない。
図書館には心理学の本が整然と並べられていたものの、どれもこれも興味を引くものがない。研究書を眺めていたら、次回のテーマが見つかるかもと期待していたのに、心の中は空っぽのまま。
 適当に研究書を一冊手にとって開いてみるものの、目の前の研究書に何が書いてあるのかもわからないし、心理学の知識が体に入ってきているという実感がわからない。
「やばい。これほんとに重傷だよ」
 自分でも自覚できるほどにスランプだなんて。
 あの極限や強さへの挑戦に対する情熱はどこに行ったんだろう。
「このまま何もできなくなったら、どうしよう」
 突然、焦りと不安が震えとなって全身に駆け上がっていく。
いつまでも勉強している実感がわかない状態が続いたら研究が進まない。研究が進まなければ、親父のような偉大な心理学者になることもできない。そんなことになれば、今までがんばってきたことも無意味になる。
「嫌だ。そんなの絶対に嫌だ!」
 まるで追い立てられるように、研究書をかたっぱしから開いていく。次々に本を読むものの、頭に入らない。焦れば焦るほどに何をしているのかもわからなくなっていく。
「わからない。何が書いているのかわからないよ……」
 以前はスポンジに水が吸い込まれるように、心理学の知識が体に染み渡っていく実感があった。新しい研究課題も見つかった。なのに、今はどれほど一生懸命読んでも、目の前の文字はただの記号の羅列にしか見えない。
しかも、何時間も読んでいても平気だった本が、今は読むことが苦痛で仕方がない。羽根のように軽かった一ページ一ページが鉛のように重い。
 悔しかった。途方もなく悔しかった。
 どうしてこんな気持ちになったのか自分でもわからない。あんなに毎日研究や特訓に打ち込んできたのに、どうして無気力になったのかわからない。
「なんでよ。なんでなのよ!」
 目の前の景色が涙でにじんだ。
 今までやってきたことは何だったんだろう。どんな困難も強い気持ちがあれば乗り越えられると信じてきた。なのに、肝心なその気持ちの方がなくなるだなんて。
「……もうだめ。疲れた」
机の上に突っ伏した。もう本を開く気力さえない。
 ふと気づけば、大学の午後の鐘が鳴り響いている。
「どうしようかな」
 次の授業は出席が厳しいことで有名な先生だ。休めばレポートを書かされてしまう。
「もうどうでもいいや」
 だけど、あたしはその危機をどこか他人事のように感じていた。

「……はあ」
 結局、あたしは自主休講して街の公園へと出かけた。
 単位を落とすかもしれないという恐怖すら実感できない。街をぶらぶらと歩いてみたけれど、気分転換になるどころか、無駄に疲れただけだった。
 最後にたどりついた公園で、あたしはベンチに寝そべって空を見上げた。
 子供と一緒に遊ぶママさんの声もけんかをする犬の鳴き声もどこか遠い。いつもの街並みの景色があたかも遠い異国の景色のように見えた。
「これからどうしよう」
 このまま心理学や銃器の熱意がなくなったら生きる意味さえなくなる。だけど、疲れているせいか、そんなことさえももうどうでもよくなりつつあった。
 うららかな午後の陽射しに、うとうとしていた。
「陽射しって、こんなにあたたかかったっけ」
 そんな当たり前の感想が口から飛び出す。いつも浴びていたはずなのに。
 目を閉じてみると、空っぽの体と心に自然のやわらかな息吹が染み渡ってくる。
 頬をくすぐる風の柔らかさ。生い茂る緑の香り。鳥たちの鳴き声。
それらがひとつとなってあたしの空っぽの心と体を抱きしめては流れていく。
「あっ。あのビルの一階、パン屋になったんだ」
 毎日見てきたはずの景色の変化に、いまさら気づいた。いつの間にか街路樹には花が咲き、古びた家は建て直され、歩道のアスファルトはタイルに変わっている。
 よく見慣れた風景のはずなのに、どうしてそんなことにも気づかなかったんだろう。
「あたし今まで忙しかったからなあ」
 あたしは毎日まわりに目を向ける余裕がないほど、なりふり構わずに生きてきた。
 心理学の研究や銃器の特訓などいつも頭がいっぱいで、景色を楽しむ余裕なんて、これっぽっちもなかった。
 立ち止まれば置いていかれるような気がして、いつも走ってきた気がする。
「でも、置いていかれるって何によ」
 思わず自分自身に突っ込む。
 研究も特訓も誰かと競争しているわけじゃない。自分のペースで進めてきたはずだ。だけど、本当は自分を追い込んでいたのかもしれない。
 急いで研究しなくちゃ。
 急いで特訓しなくちゃ。
 急いで夢へと向かわなくちゃ。
 好きで始めたことなのに、いつから義務になったんだろう。そんな風に自分を縛り付けていたから、心と体がついていかなくなるんだ。
「これはきっと休みたいっていう信号なのね」
 そう考えたら、すっと心と体が楽になった。どうやら心と体が安心したらしい。
 あたしはおかしくなってひとり笑ってしまった。
 焦らなくていいじゃないか。立ち止まってまわりの景色を見ることも必要なはずだ。それがきっと明日を生きるための糧となるんだから。
「まあ、たまには実感がないのもいいかもね」
 そうひとりつぶやくと、あたしは公園のベンチの上で眠りに落ちていった。
 体を包む午後の陽射しに抱かれながら……。

***あとがき***
 今回もご依頼ありがとうございました。
 今後も引き続きよろしくお願い申し上げます。