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<東京怪談ノベル(シングル)>


『暴力へのココロ』

 見上げれば、空は泣き出しそうな色に染まっていた。
 ほんの一時間前まで雲ひとつない青空が広がっていたのに、今は灰色の雨雲に覆われている。そして、あたしの心もまた空と同じようにどんよりとした雲に覆われていた。
「まいったなあ」
 泣きっ面に蜂とは、まさにこのことだ。
 今のあたしは心理学の論文も専門書も見たくない気分だった。けれど、家にはたくさんの論文や専門書が置かれている。
 家にいると、のどを綿で締めつけられているような息苦しさを感じた。だから、外に逃げ出したのだけれど、それがよりにもよって雨が降ってくるなんて。神さまはよっぽどあたしをいじめるのが好きみたいだ。
「うわっ。もう降り出してきたよ」
 ぽつぽつと大粒の水滴が顔にかかってきた。傘なんて持っていないから、急いで帰らないとびしょびしょになる。繁華街を走っている間にも、雨はますますひどくなってきた。
 またたく間に雨は豪雨へと変わり、空では雷鳴が轟いている。
「……サイアク」
 どこかで雨宿りでもしていようかと考えていると、
「ほら、立てよ」
 がつっ、と鈍い音。続いて硝子が割れる音が耳を突き刺した。
「なに?」
 人通りの少ない裏路地から聞こえてきたので、足をとめてみる。
 そこではひとりの気弱そうな男の子が怖面の連中三人囲われているところだった。男の子はすでに何度も殴られているのか顔が二倍くらいに腫れ上がっている。
「お、お金ならあげますから許して」
 男の子は必死に許しを請う。けれど、そんな男の子を怖面たちは笑って見下ろしていた。
「別にてめえのみみっちい金なんざほしかねえんだよ」
「だ、だったら、なんで僕を殴るんですか」
「てめえが殴りやすそうだからに決まってんだろうがよ」
 へらへらと笑いながら怖面のひとりが言うと、いきなり男の子の蹴りを食らわせた。
「ぎゃっ!」
 短い悲鳴をあげて吹き飛ぶ。
「ちっとは反撃してこいよ。サンドバックなんか殴ってもつまらねえんだよ」
 あたしはぎりぎりと奥歯を噛みしめた。
(なんなんだ、こいつら)
 金を目的としているわけじゃなく、はじめから人間を殴るためだけに気弱そうな相手を見つけるなんて。あたしにはこいつらの気持ちや心情が全然わからない。
「いいかげんにしろよ!」
 気づけば、あたしは怖面連中の前に立っていた。
「なんだよ、てめえは。いいところなんだから邪魔すんじゃねえよ」
「金が目的じゃないなら、なんでこの子を殴るんだよ。これ以上殴ったら、死んじゃうこともわからないのかよ」
「ああ? そいつらが死のうが生きようが俺たちには関係ねえよ。俺たちはまだ気持ちがすっきりしてねえんだよ。前日にカジノで大損してむしゃくしゃしてんだよ」
「むしゃくしゃしてるだけで、関係ない子を殴ったっての?」
 自然と握った拳に力がこもる。単なる苛立ちを発散するために無関係の人間を殴るなんて。そんなストレス解消があっていいものか。ストレスを解消のためのカジノがいつしかストレスの原因となり、今度はそのストレスをぶつけるために人間を殴るなんて。
 わからない。あたしには全然こいつらの心情がわからなかった。
「あんたたちは動物以下だ。一方的に弱者を殴りつけるなんて、動物以下じゃないか」
 動物だって、意味なく仲間を傷つけることはしない。縄張り争いや求愛のためや雛を守るためなど意味があって相手と戦う。なのに、こいつらは自分たちの苛立ちのはけ口のためだけに人間を殴っている。
 苛立ちをぶつけるために仲間を傷つけるのは、人間だけだろう。
 恋人や子供を苛立ちから殴る人間がいる。嫌いなら手放せばいいのに、恋人や子供に暴力を振る人間は不思議なことに恋人や子供を手放そうとしない。その心情もあたしにはわからない。
「それとも、お嬢ちゃんが俺たちの相手をしてくれるってか?」
 もやしのようなひょろ長い男があたしの体をなめ回すように見ている。気づけば、雨のせいであたしの服が透けて下着がうっすらと見えている。
「いいねえ。こいつを俺のアパートでまわそうぜ」
 もやし男がそう言った瞬間、あたしの拳が相手の鼻っ柱にめり込んでいた。
「がっ」
 もやし男は悲鳴をあげて壁にたたきつけられた。そのまま鼻血を流しながらアスファルトの地面へと崩れ落ちていく。
「てめえ! やっちまえ」
 拳が連続して降りそそぐ。あたしは軽々拳を交わす。
 相手の右の拳が顔に当たる刹那、
「ぐはっ!」
 あたしの爪先が二人目の男の腹に突き刺さった。
 男は胃液をまき散らして倒れた。
「この野郎! 俺のダチをやりやがってぇ!」
 三人目は割れた硝子片をナイフの代わりにして突きだす。
 あたしはそれをダンスでも踊るようにステップを踏んで交わす。
 その硝子片を避けながらも、あたしの意識は別のところにあった。
(こいつらは今度はなんのためにあたしを殴ってるんだろ……?)
 さっきまでは怖面の連中は苛立っていたから殴っていた。けれど、今は生意気なあたしに対して怒っているから殴っているんだろうか。それとも、仲間が傷つけられたことに対して義憤でも駆られているんだろうか。
(あたしもなんでこいつらを殴ってるんだろ?)
 殴られていた男の子とは何の面識もないし、男の子が死んでもあたしの人生には何の関係もない。けれど、あたしにはこの男の子が目の前で殴られているのを見過ごすことはできなかった。だから、今怖面の男たちを殴り飛ばしている。
 けれど、それはなんのため? 自分のため? 男の子のため?
 相手とは暴力への心情や意識が違うけれど、結局は相手に暴力を振るっていることには変わらない。そもそも格闘技がスポーツとして存在することが不思議だ。相手を殴ったり傷つけたりすることがスポーツとして成り立つなんておかしい気がする。
 なんのために人は相手を殴りたいと思うの? どんなときに人は相手を傷つけるの?
 ナイフを避けながらも、あたしの頭の中で新しい疑問が次々とわいてくる。
「あぶないっ!」
 はっと我に返ると、硝子片の先端があたしの顔に突きだされていた。
「死ねぇ!」
 あたしは突きだされた硝子片を半歩さがって避ける。右足に重心を置き、相手の手首を右手で掴んで軽くひねりあげ、左手で脇を押し上げる。
「ひあっ!」
 見事に男の体が闇夜を舞った。
 男の体はビルの壁にたたきつけられて短い悲鳴をあげる。すかさずあたしは延髄に手刀を打ち込んで相手を昏倒させた。
「あ、ありがとうございました。おかげで助かりました」
「う、うん。別に気にしないで」
 男の子はぺこぺこと頭を下げていたけれど、あたしはうわのそらで返事をした。あたしの気持ちは今手刀を打ち込んだ右手に向けられていた。
 人が暴力を振るうのは、どんな感情からなのだろう。
 怒り。おそれ。不安。苛立ち。正義感。愛情。
 あたしは答えを見出せないまま、雨が降り続く中、ふらふらと街中へと戻っていった。

***あとがき***
 いつも大変お世話になっております。
 今回もご依頼ありがとうございました。
 今年もがんばりますので、引き続きよろしくお願い申し上げます。