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父の立っていた場所
両手に握りこんだグリップの冷たさが、手の平の熱を奪ってわずかに人の体温に近付く。
血の通わない金属製の無骨なリボルバーが、自分の身体の延長に繋がる瞬間を少年は待った。
――もう少し、もう少しで届きそうな気がする。
『どこに? 何に?』という自問を飲み込んで、少年――神代秀流はリボルバーを持ち上げた。
支えきれない重さで揺れる銃口の先には、幾つもの標的が無言で並んでいる。
秀流が立っているのは幼い頃から見慣れた射撃訓練場だ。
鍛錬を欠かさなかった父が、淡々と、だが真摯に標的を撃ち抜いていた場所。
父は秀流が訓練場を覗いていると、決まって『危ないから下がっていなさい』と言って微笑んだ。
それは銃が危険なものだという理由の他に、幼い子供が知るには早い世界だったからかもしれない。
けれど父は秀流が訓練場を覗くのを咎めはしなかった。
秀流が安全な場所に下がったのを確認すると、また淡々と標的に銃を向ける。
そして訓練が終ると秀流を呼び寄せて頭を撫でた。
秀流も早く、ここに立てるといいな。
そう言った懐かしい声。
――あれは、ただ早く銃が使えるようになって欲しいって意味じゃなかったんだ。
見上げていた父親のいなくなってしまった今になって、秀流は言葉に込められた思いに気が付いた。
あの時、父の立っていた場所。
標的の向こうに、父が見ていたもの。
父親を亡くし、少年は『守られる側』から『守る側』へと自分の意思で居場所を変える。
血の繋がらない自分を慈しんでくれた父の残した、血の繋がらない家族――高桐璃菜。
母に続いて父も亡くしてしまった璃菜の悲しみは実るよりも深く、笑顔が戻るまで随分かかってしまった。
――璃菜をもうこれ以上、泣かせたくない。あんな顔は見たくない……。
秀流はそう思い、渋るガンショップの店長を説き伏せて一丁のリボルバーを手に入れた。
場所によっては治安のあまり良くないセフィロトでは、何らかの武器を誰もが携帯している。
璃菜を守れるだけの力が欲しかった。
標的の中心を狙う秀流の脳裏に、懐かしい父の思い出がよみがえる。
訓練を終えた父が秀流を呼ぶ。
標的を狙って当てるのは、本当は簡単な事だ。
実は誰でも出来る。
精度のいいサイトスコープを覗いて、じっくり狙う時間があれば。
しかし……相手は待ってくれない。
父の言う相手が、物言わぬ標的ではないと秀流にもわかっていた。
滑らかな動作で腰のホルスターからリボルバーを抜き、父はぴたりと標的に銃口を合わせる。
無駄な力みのない腕の先が、そのまま銃になったような錯覚を秀流は覚えた。
――俺にもできるはずだ。
父の姿に自分を重ね、リボルバーを手にした腕は重かった。
手に余る大型のリボルバーは両手で支えないとすぐに銃口が下を向く。
――できるはずだろ!
意地で引いたトリガーが銃口から轟音を吐き出し、反動に秀流は姿勢を崩した。
たった一発の銃弾を撃つ行為が、こんなに重いとは思わなかった。
打ちのめされた気分で向かいの標的を見るが、もちろんどこにも被弾した跡はない。
――まだ、届かないのか。
あの場所に。
痺れの残る手をさすっていると、発砲音に気付いた璃菜が訓練場の入り口に顔を見せた。
「今の音、秀流が?」
「ああ」
璃菜は恐々覗かせた顔から緊張を解いた。
「良かった……ここに確かめに来るの、ホントは怖かったの」
光を失い翳りがちだった顔を安堵にほころばせる。
かすかに璃菜の目尻が濡れているのに気付き、秀流は胸が痛んだ。
父が亡くなってから、璃菜は些細な事柄にも死を連想して涙を見せるようになっていたのだ。
「心配しなくていいよ」
「……うん」
安心した璃菜が少女らしい好奇心で秀流のリボルバーを覗き込んだ。
「お父さんと同じ形の銃だね。リボルバー」
頬の両脇に垂らした髪がリボンと一緒に跳ねて、本当は快活な璃菜の性格をよく現す。
子供っぽい仕草でリボルバーに手を伸ばそうとする璃菜に、秀流は慌てて身体を引いた。
「あ、危ないだろ!」
「もうっ、ちょっとぐらい見せてもいいじゃない」
唇をとがらせて璃菜が拗ねる。
はあ、と秀流はため息をついてリボルバーを腰のホルスターに収めた。
「ダメだっ」
「秀流のけーち!」
秀流と璃菜はしばらく睨み合っていたが、ふ、と肩の力を抜いて璃菜の方が折れた。
そして小さく口の中で呟く。
「……独りで、先に大人にならないで……」
「え?」
一瞬寂しそうな光が璃菜の瞳に見えたような気がして、秀流は聞き返す。
だが返ってきたのはいつもと変わらない明るい声だった。
「ご飯できてるよ。ちょっと早いけどお昼にしよう?」
「ああ、うん」
――あんな顔もするんだな、璃菜……。
何だろ、首の辺り熱いな。
自分の中では妹のような存在だった璃菜なのに、切ない表情を見せられた時、急に何かが切り替わる気がして秀流は鼓動を早めた。
先に立って歩く璃菜の後姿をゆっくり追いながら、秀流は密かに赤くなった顔を下げ、鼓動を鎮めた。
それからの秀流は、起きている時間全てをトレーニングに費やした。
まずは大型のリボルバーを支え、更に反動にも揺れない筋力をつける為の筋肉トレーニング。
最初は腕立て伏せから始め、回数を徐々に増やしていく。
それから片手や逆手でも扱えるよう、射撃訓練は両方の手で行った。
ついには腕立て伏せが片手で、指ででもできるようになった秀流だったが、利き腕の差をなくすのは難しかった。
左右の腕で、標的の命中率が異なってしまう。
――まだ、足りないんだ。俺には。
秀流は父の立っていた場所までの距離を思い、くじけそうな心を支える。
連日トリガーを引いた人差し指の関節は皮がめくれ、常に血がにじんで腫れ上がっていた。
それでも熱を持った腕を持ち上げ、秀流は標的に向かう毎日を送る――。
「あ」
カシャン、と秀流の手からスープをすくったスプーンが落ちた。
秀流の指の感覚は麻痺し、片方の手で伸ばさなければ指が伸びない程になっていた。
「秀流……無理しないで」
テーブルの下からスプーンを拾い上げた璃菜が、そのスプーンを返さずに唇を噛んだ。
スプーンを落としたのも一度や二度ではない。
璃菜も秀流が食べやすいよう、あらかじめ料理を小さく切り分けて工夫したりしていたのだが。
「そんなに急ぐ事、ないじゃない」
「……早く使えるようになりたいんだ」
璃菜は自分を心配してそう言ってくれたのだと、頭ではわかっている。
それでも苛立つ気持ちが言葉に滲んだ。
――この手で璃菜を守りたいんだよ。
父が亡くなってからも、ギルドのメンバーが何かと声をかけて秀流たちを気遣ってくれる。
それでも秀流達が、まだ非力な子供の域を出ていないのは違いないのだ。
「このままじゃ、秀流の手が壊れちゃうよ」
椅子の余ったテーブルの上、璃菜は秀流の手に自分の手を重ねた。
熱を持った指に、璃菜の手が冷たく感じられて気持ちいい。
――この手を守りたいんだ……。
「壊れないよ。父さんと同じ手になるまで」
俯いて秀流の手をさすっていた璃菜が顔を上げる。
この頃は『父さん』という言葉もあまり口にしなくなった二人だった。
「璃菜を守ってた、父さんと同じ手になるまで俺はやめないから」
秀流の声に、璃菜は真紅の瞳を細めて何かを堪えるように唇を引いた。
――ああ、まただ。
リボルバーで訓練を始めた日に見たのと同じ、子供だと思っていた璃菜の中に女性を垣間見る表情。
哀しいはずなのに、目が離せないで惹き付けられる……。
秀流の手に重なった璃菜の手が力を込めるのが伝わってきた。
しかしそれは一瞬で、すぐに軽く頭を振って微笑みを見せた。
「秀流って、一度決めた事絶対やっちゃうよね。頑固だし」
む、と秀流は眉間に皺を寄せる。
「頑固って余計だろ」
「ホントの事だもん。止めたって聞かないんだから」
クスクスと笑った璃菜が別のスプーンを持って、秀流のスープをすくう。
秀流の目の前に、温かなスープが一さじ差し出された。
「だから、私も手伝ってあげる。ご飯食べてる時くらい、手を休ませてね?
ほら、あ〜んして」
口を開けてピンクの舌を唇から覗かせ、璃菜は秀流にスプーンを向ける。
「は、恥ずかしいだろっ」
璃菜の唇とスプーンを交互に見比べ、秀流は顔を赤くした。
――何で俺、璃菜の唇ばっかり見てるんだろ。
「だーめ。早くお父さんみたいになりたいんじゃなかった?」
「そ、それはそうだけど」
――璃菜もこういう所、曲げないんだよなぁ。
秀流は観念して、にこにこと璃菜が持つスプーンをぱくりとくわえた。
「よくできましたっ」
小さな子供を褒めるように璃菜が手を合わせて笑った。
半ばヤケになった秀流が次の一口をせがむ。
「あーもう、早く次! 腹減った!」
「はいはい」
璃菜を見ないように秀流は目を閉じ、口を開けた。
今日も秀流は訓練場で標的の前に立っている。
腰の両脇に下げられたホルスターに収まったリボルバーは二丁。
子供の頃には持ち上げるのさえやっとだった父の形見と、秀流自身がそれをモデルにカスタマイズした一丁だ。
ふとしたきっかけで書斎の隠し棚からリボルバーを見つけた時、秀流はようやく父の立っていた場所に自分も立てたと思った。
――俺もこのリボルバーを持つ資格、できたって思っていいよな……父さん。
標的が自動で立ち上がり、不規則な動きで移動し始める。
それを秀流は両手で引き抜いたリボルバーで次々と撃った。
小気味良いリズムさえ感じる音が、両手のリボルバーで奏でられる。
両腕にかかる反動も、今は軽く流せるほど秀流は成長していた。
関節の皮膚も厚くなり、トリガーで痛める事はなくなった。
秀流の瞳は標的を見ているが、狙ってはいない。
腕に繋がるリボルバーの先で標的を見ているような感覚だ。
ひとしきり標的を撃ち、それらの動きが止まる。
標的は全ての中心が撃たれていた。
――俺と一緒に璃菜を守ってくれよ、相棒。
秀流が熱を帯びた二丁をホルスターに仕舞うと、璃菜が声を掛けてきた。
「夕ご飯できたよ、秀流」
幼い子供だった秀流と璃菜にも歳月が流れ、二人の関係は幼馴染から恋人同士になった。
それでも変わらないものは、お互いを思う絆の強さだ。
「すぐ行く!」
秀流はそう返事して、訓練場の扉を閉めた。
(終)
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