|
バレンタインの手作り料理
台所から響くのは、まな板を叩く軽快な音。なにかを切っているところだろうか?
このリビングから台所までは続きで、両者の間を仕切るのは落ち着いた色合いのカウンターだけだ。
けれどさすがに、リビングに座りながら料理をする手元を見るのは無理があろう。と、言っても、別に覗き込んでまで見ようとは思わない。
料理ができたあとの楽しみを思えば、待つのは退屈ではなく、むしろウキウキと心弾む楽しい時間であった。
「どんな料理を作るのかしら」
返答はあまり期待せずに声をかけると、やはり。
「まだ秘密です」
そんな答えが返ってくる。
「そうね。楽しみにしているわ」
ナンナ・トレーズはににこりと穏やかに微笑んで、先ほど変わらずリビングのソファから台所に立つ朱瑤を見つめた。
その視線に気付いたのか、瑤はふいとナンナに背を向け冷蔵庫の方へ歩いていく。
口調は礼儀正しくはあるのだけれど、その実、クールというか、他人を拒絶するところがある。実際には他人とのやり取りが苦手なだけらしいのだが。
そんな彼が、自分からこんなことをしてくれるのは結構珍しいことだとナンナは思う。……まあ、最初に持ちかけたのはナンナの方なのだけれど。
今日はバレンタインだからということで、瑤が手料理を振舞ってくれることになったのだ。
そわそわとしながらも、しばらくは大人しく待っていたナンナであるが、そう長い時間は続かなかった。
どうしてもどうしても楽しみで、ワクワクする気持ちが黙って待っているなんてさせてくれない。
「仕上がりまであとどのくらいかしら?」
料理ができたら、食事をしながら他愛もない話でもできれば嬉しい。そんなふうに考えながら声をかける。瑤は手元はしっかりと動かしつつ、ぐるりと台所を見回して答えた。
「そうですね……。あと1時間ってところじゃないでしょうか」
相変わらず。聞きようによっては呆れているようにもとれる、抑揚の少ない話し方。
「まあ、とっても時間がかかるのね」
驚きに目を丸くしたナンナに、瑤は顔には出さずに内心だけで微笑を零す。
ナンナは22歳。瑤は16歳。
物腰は上品かつ穏やかでさすがはお嬢様育ちと思わせるのだが、そのお嬢様育ちのせいなのか。少々世間知らずなところがあり、なんにでも感心を持つので年より子供っぽく感じることが多々あった。
今だって、そうだ。
静かに落ち着いて料理を進める瑤と、楽しみに心を逸らせて弾む声音で話しかけてくるナンナと。
「最近、尋ね人の情報はありました?」
料理の話題を探しても、何を作っているのかもわからないのでは話しようがない。時間がかかると言われた時点でナンナは、料理の話題で会話することは諦めていた。
代わりに、近頃の近況でも話そうと口を開く。
「世界は広いから、なかなか……」
「そうよねえ。わたくしも、全然ですもの」
また、沈黙。
とはいえ、雰囲気が気まずいというわけでは、ない。沈黙の中にも穏やかな暖かい空気があって、それはそれで心地よい空間なのだ。
常ならばナンナだってその静寂の中に落ち着くこともできるのだが、今日は、漂うおいしそうな匂いとこれから出される料理が気になって。
ゆったりと流れる静かな時間よりも、賑やかに足早に流れる時間を過ごしたいと考える。
結果。
「そういえばこの前、とても可愛いブローチを見つけたんですよ」
構って欲しくて次々と言葉を口にのぼらせるナンナと。
「買ったんですか?」
とりとめのないナンナの会話を聞き流しつつ相槌を打つ瑤という、年齢が逆転したかのような会話が続いていた。
「ええ。今日もつけてきているのよ」
言ってナンナは自身の服の胸につけたブローチを示したが、台所からナンナが座るリビングのソファまでの位置は、近いようで意外と遠い。
話すには支障がなくとも、小さなブローチを見るには少々遠すぎた。
「あとでゆっくり見せてあげるわ」
「楽しみにしておきますよ」
言いつつ瑤は、くるりとナンナに背を向けて、台所の奥のレンジに向かった。
作っていたのはケーキのスポンジ。これを焼いている間に生クリームの準備をして、トッピングを刻んで――手順を考えながら冷蔵庫から材料を出す。
それから三十分もした頃には台所からとても甘い匂いが漂って。
リビングで待つナンナはきらきらと瞳を輝かせて瑤の作業を見守っている。いや……見守っていた、のだが。
「もうすぐできそうね」
少々浮かれた明るい声音で告げて立ち上がる。
「あと十分くらいだと……」
リビングに背中を向けていた瑤はそんなナンナの行動に気付かず、振り向いた瞬間、固まった。
「ナンナさん?」
予想外の、間近――カウンターは挟んでいるが、リビングにいると思っていた人間が目の前にいれば、それは驚くのは当たり前だ。
「ふふっ。とてもおいしそうな香りがするんですもの。待ちきれずに見に来てしまいましたわ」
「見に来ても、完成しないと食べられませんよ」
頷きかけたナンナが、何かに気付いて動きを止めた。にこにこと笑って、言う。
「あら、そんなことはないわ」
ひょいと身を乗り出して、瑤の頬をぺろりとひとなめ。
「っ!!??」
突然の出来事に持っていた果物を取り落としそうになりつつもなんとか受け止め、微笑むナンナを凝視する。
「ここ」
自身の頬を指差し、ナンナが笑った。
「生クリームがついていたわ。こんなにおいしいクリームなんだもの。完成した料理もきっとすごくおいしいわね」
悪気無しに微笑むナンナを前に、瑤はただただ反応に困って慌てふためくのであった。
|
|
|