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櫻ノ夢〜昨日の花〜
■邂逅■
大事に使っていたくまさんの絵の付いたお気に入りのマグカップが割れた。
手が滑ってフローリングの床に中身のココアをぶちまけて、お気に入りのマグカップが割れた。
それを小さな子供はぼんやりと見下ろしていた。
母親が慌てたように駆けつけて、口早に何かを言ったがあまり少年の耳には入らなかった。
ただ、割れたマグカップを見下ろしていた。
ノリで付けたら元に戻るかしら。セロテープで張り合わせたら元に戻るかしら。
そんな事をぼんやり考えながら、割れたマグカップを見下ろしていた。
母親が割れたマグカップの欠片を丁寧に拾い集めていく。
そして言った。
「マグカップ壊れちゃったわね。これはもう駄目ね」
少年は、何がもう駄目なんだろうと思いながら母親の手の中のマグカップの欠片に手を伸ばした。
「壊れたマグカップは、もうマグカップじゃないの?」
母親は、手を切るから、と少年からマグカップの欠片を遠ざけて答えた。
「えぇ、そうよ。壊れちゃったらただのゴミ。捨てなくちゃね」
その時、少年は思った。
――――壊れたマグカップはマグカップじゃないんだね。
◆◆◆
そのお寺に純白の花びらをつける古くて大きな桜の木があった。
桜の木の下に少年はナイフを持って立っている。
少年の足下に人が血を流して倒れていた。
少年が言った。
「ママがね、ゴミはリサイクルしないといけないって言ったんだ。だから僕、実験をしているの。壊れたマグカップはマグカップじゃなくてゴミなんだって。だからね、壊れた人間は人間じゃなくてゴミなんだよ。ゴミをリサイクルしてるんだ」
少年が嗤う。
「白い桜の花びらは人の血を吸って薄紅色に咲くのかな?」
◆◆◆
不快な夢を見た。
どこか後味の悪い、そんな夢だった。
その夢の主役は小さな少年だった。もしかしたら自分がその少年になったのかもしれないが、視点はこちら側にあって、ただ少年の凶行――そうだ。凶行だ――を見ている事しか出来なった。
少年の凶行を止められなかったのは、自分が傍観者でしかなかったからなのか。テレビや映画を見ているような状態にあったからなのか、それとも、少年の言葉に返す言葉が咄嗟に見つけられなかっただけなのか。
少年は言った。
『壊れたら、ゴミなんだよ』
まるで警告するように。
――警鐘が鳴る。
トキノ・アイビスは、耳元で鳴るやからましいほどの目覚まし時計に目を覚ますと、アラームのスイッチを無造作に叩いた。
いつもと変わらない筈の朝なのに、どこか胸にもやもやとしたものが残っている。
不快げにベッドから立ち上がり洗面台に向かった。
冷たい水で顔を洗う。
「どうして、あのような結果に至ったのか……」
イライラした口調で呟いて、トキノは歯ブラシの上に歯磨きチューブを搾り出すと、憮然としながら歯を磨いた。
オールサイバーである彼は、そもそも毎回食事でエネルギーを摂取しているわけではないので、歯を磨く必要もないように思われたが、朝の日課であった。
うがいをして、口の中の水を、いろんな思いと共にペッと吐き出した時、手に持っていたマグカップがその手から滑り落ちた。
「なっ!?」
マグカップが床に落ちて割れる。
それをトキノは暫く呆然と見下ろしていた。
『壊れたら、ゴミなんだよ』
少年の言葉が蘇って、トキノは溜息を吐き出した。
「マグカップは壊れてもマグカップですよ」
誰に向かってか、そう呟いてトキノは破片を拾い集めたのだった。
■混線■
トキノは延々と続く境内への階段を見上げた。
不快な夢は現実なのか夢なのか。
夢の中の記憶だけを頼りに、少年が立っていた寺を探してここまでやって来たのである。もし、実在するなら見ておきたい。
白い桜の木は意外と数が少なくて、ましてや小さな古寺の庭先に立つともなれば、絞り込むのは容易だった。コンピュータで検索をかけはじき出されたのは六件。写真が掲載されている中から目的の場所を探した。
ここだ、と思った。
この寺が夢の中の寺なら、この近くに少年が住んでいる可能性もある。夢では何も出来なかったから、直接少年に会ってみたい、とも思っていた。
トキノはゆっくりと石段を登り始めた。
そこここに苔が生え、雑草が顔を出していたが、行き来する者があるのだろう、踏まれた跡はまだ新しくいくつもある。
雑木林に薄暗い階段を登りきると、目の前には今にも倒れそうな廃寺が飛び込んできた。
別段、仏教徒というわけでもなかったが、お参りのやり方というのは知識としてもっている。伊達に長くは生きていない。
お手水に手を清めて、賽銭箱に硬貨を投げ込む。そこに垂れ下がった太い縄を揺すると、カランコロンと大きな鈴が小気味いい音をたてた。これといって願いごとがあるわけでもないので、合わせた手はすぐに離れてトキノは庭先へと歩きだした。
丁度裏手に目的の大きな桜の木があった。
蕾をつけ、まだ花は開いていない。
けれど確信が脳裏を過ぎる。
夢の中の桜の木だ。
トキノは桜の木に手を伸ばした。
太い幹は樹齢何年ぐらいだろうか。
風が吹く。
誘われるように視線がその太い幹の反対側へと動いた。
果たしてそこに、桜の木にもたれかかるようにして、夢の中のあの少年が眠っていた。
春を間近にした穏やかな陽だまりの中、気持ちよさそうに。
いや、違う。
少年の表情にトキノは咄嗟に手を伸ばしていた。
少年の額に触れる。
「!?」
何かが壊れるような音が耳の奥で聞こえて、トキノはその場にゆっくりと頽れたのだった。
真っ白な空間がある。
果てしないどこまでも白だけが広がる空間だった。
これは夢か。いつもの夢なのか。どうやら少年の夢の中に入り込んでしまったらしい。
だがいつもと違う。
そこには影が二つあった。
一つはあの少年。
もう一つは黒髪を短くそろえた若い娘。
二人が話しているのが見えた。
「……それがママでも?」
娘が優しく少年に問いかけている。どうやらその娘は、少年を説得しているらしい。
トキノは二人を少し離れた場所から見つめていた。
そうだ。自分の母親が壊れたら、それをゴミだと思えるだろうか。
少年が気付いてくれればいい、と思う。この世には、壊してしまったら二度とは元に戻らない大切なものがある事を。
トキノは彼女が一生懸命少年に語り聞かせる姿を、静かに見守っていた。
だが、それも束の間、ふと、世界が歪む。
少年の顔も歪み、歪んだ顔が彼女に問いかけていた。
「犯罪心理学の研究をしているの? もしかして、僕はお姉ちゃんのモルモット?」
「なっ……」
驚いたような彼女の眼差しに、殆ど反射的にトキノは少年の頬を打っていた。
言っていい事と悪い事がある。
少なくとも今のは彼女に対する最大の侮辱だろう。少なくとも彼女は少年を思って心を砕いて語っていたはずだ。
「痛い」
少年が頬を押さえて呟いた。
「そうです。痛いです。人は痛みを感じるんです。マグカップとは違うんです」
打たれたら痛い。いや、少年の言葉に傷つけられた彼女の胸も痛んだだろう。人は痛みを感じるのだから。
だが、トキノの言葉に彼女は彼の腕を掴んで首を横に振った。
「違うわ」
「え?」
トキノは怪訝に眉を顰めて彼女を振り返る。
「違うの。これは少年の意識じゃない。少年の口を借りて別の誰かが言わせてる」
娘――門屋嬢が言った。
■凶行■
痛い、痛い、痛い。
その声に二人は振り返った。
そこに大きな桜の木がある。
痛いと叫んでいるのはその桜の木だった。
「桜の木が、まさかこの子に夢を……」
「あれを見て!」
嬢が桜の木の傍に屯する一団を指差した。
作業着姿に、手にはチェーンソーをン握っている。
「あ……」
彼らは桜の木を斬ろうとしているのだ。桜の木を壊そうとしているのだ。
「そういえば、看板が出ていました。あそこにマンションを建てるとかどうとか……」
刹那、少年が走りだした。
ナイフを握り締めて作業着姿の男達の元へ。
「いけない!」
トキノが少年を追いかける。
「ダメだ! それじゃぁ、奴らと同じだ!!」
嬢も後を追おうとした。
桜の木の根元に眠っていた少年が目を覚ます。
ナイフを手に。
「桜を壊そうとした人たちを壊そうとしたら、それは同じ。ただ、繰り返されるだけだ」
嬢が悲鳴にも似た声をあげる。
嬢の肉体はあそこにはない。今はただ、ここから見ている事しか出来ないのか。
少年の傍らに倒れていたトキノの体が目を覚ます。
チェーンソーを持って近づいてくる連中に、少年がナイフを構えていた。
凶行を止めなくては。
――――!!
少年の前に立ちふさがったトキノの脇腹をナイフがえぐる。
血が滴り落ちた。
いや、厳密には血ではない。彼はオールサイバーなのだから。人工皮膚の下を、通る擬似体液に、トキノはゆっくり息を吐き出した。
「いけません」
ただ淡々と静かにトキノは言った。そこには、怒りも悲しみも苦痛もない。何でもないような顔をして、ただ少年のナイフを握る手に自分のそれを重ねただけだった。
「もう、悪夢は終わりにしましょう」
少年が呆然とトキノを見上げる。トキノはそれに柔らかい笑みをつくって返した。
トキノの背に作業着の一団が近づいてくる。
「何だ、お前ら」
という声に振り返った。
自分にかけられたのかと思ったが、違っていた。
トキノと作業着の一団の間に、数人が立っていた。
手には看板のようなものを持ち、或いは、たすきをかけている。
『マンション反対。桜の木を守ろう』
「…………」
先頭に立っていた白髪まじりの腰を折った爺さんが、作業着の一団の前に一歩を踏み出した。
「絶対に斬らせんぞ」
「そうだそうだ!!」
他の者達も拳を突き上げる。
その気迫に作業着の男達は気圧されたように後退った。
少年がゆっくりと頽れるのに、トキノは慌てて手を伸ばして抱きとめる。
それを白い空間から覗き見ながら嬢はホッと息を吐き出した。
■覚醒■
それは、桜の木が見せた悪夢だったのか。
壊れてしまった大切なマグカップをゴミに変えられ、ショックを受けた少年の心に、自分が壊されそうになっている桜が共鳴したのだろうか。
キーワードはゴミじゃない。
誰かにとって不要なものであっても、誰かにとっては不要なものじゃない。
誰かにとってはゴミであったとしても、誰かにとってはゴミではない。
そして、その誰かがある限り、ゴミはゴミでなく、ガラクタは宝物たりえるのだ。
「あんたが強く望めば、壊れても、それはあんたのお気に入りのマグカップだよ」
嬢は優しく囁いた。
「大丈夫です。桜の木はそう簡単に壊されたりしません。誰かにとっては邪魔かもしれませんが、誰かにとっては大切な思い出です」
トキノは、反対を訴える人々見やりながら、少年の髪を優しく撫でてやった。
そう、どれも思い出の詰まった大切なものだ。
――ごめんなさい。
どこかで、そんな声を聞いたような気がした。
少年が駆けて来る。
壊れたマグカップを手に。
「あのね、このマグカップは綾ちゃんから貰ったんだ」
少年が自慢げに笑った。
――壊れたマグカップはゴミだったかい?
「ううん。大事なマグカップ」
■The END■
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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【 整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業・クラス 】
【0289/トキノ・アイビス/男/99/オールサイバー】
【0517/門屋・嬢/女/19/エキスパート】
ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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昨日の花は今日の夢。
というわけで、ご参加ありがとうございました、斎藤晃です。
楽しんでいただけていれば幸いです。
ご意見、ご感想などあればお聞かせ下さい。
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