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<東京怪談ノベル(シングル)>


  伸ばした手の先にある未来の為に


 マルクトの一画に、その掘っ立て小屋はある。吹けば飛ぶような、とはよく言ったもので、見るからに脆い造りだ。果たして人が住めるものなのかは疑問なのだが、現に二人、住んでいる。だから住めない事はないのだろう。
 恐らくは窓であろう箇所に、一人の青年が物憂げに身体を預けている。勿論、小屋の内部から。住人の一人であるゼクス・エーレンベルクである。蒼い髪を鬱陶しそうにかき上げ、降り注ぐ雨をただ見つめていた。
 窓とは名ばかりで、桟も何もなく、ただ恐らく拾ってきたものであるガラス板がはめ込まれているだけのそれに、大きな雨粒が絶え間なく打ち付ける。
 ゼクスはかけていた眼鏡を外し、眉間を押さえる。
 同居人が出かけてから、どれ程経っただろうか。膝に置いてある本は六割ほど進んでいる。拾ってきたものなので所々痛んでいるし古いものだが、時事ものではないのであまり気にはならずに読んでいる。
 拾ってきたダンボールを組み合わせて作ったサイドテーブルもどきに、このおんぼろの掘っ立て小屋に似つかわしくない繊細な細工の施された、いかにも高価そうな銀製の懐中時計が置かれている。
 ゼクスはカチリと蓋を開け、時間を確認する。
 文字盤の表面に青白い光が反射する。遠くで鈍い音が断続的に鳴っている。
 その音を聞き、ゼクスは全身が強張るのを感じていた。
 成人男性が雷が苦手、というのはいささか格好が付かないようにも思われるが、子供の頃は苦手では無かった。
 ゼクスは窓越しに外を見やり、ため息を一つついた。
 こういう日は良くない。
 こんな鬱々とした日は昔を思い出してやるせない気持ちになる。だから、こんな日は好きではなかった。
 
 
 まだ、十歳になるのにも時間が必要だった頃。
 北欧にある広大な邸宅に住んでいた、あの頃。
 あまり雷が鳴る地方ではなかったのだが、その為か、雷の時は双子の妹がひどく怯えた。光にも、音にも。
 昼間の雷であればゼクスは妹の手を片時も離さなかったし、夜ともなれば一緒のベッド眠る。妹は枕を抱きしめるよりもずっとゼクスが側に居る方が心強かったらしい。枕もゼクスも雷に対しては無力なのだが、手を伝わる温もりが安心感をもたらしていたのだろうか。
 その当時は自分は雷は平気なのだとゼクスは思っていたのだが、実は妹を守らねばならないという義務感が働いていたのかもしれない。
 そんな日々もゼクスの家出とともに、当然終わりは来た。
 家族の事など思い出さなくなった久しいが、雷の鳴る日だけはふと胸の奥に両親と妹の姿が浮かんでくる。ゼクス自身のとった行動に後悔はないのに、思い出して郷愁に浸るという事はどういう事なのか、とたまに思い悩む。だからと言って家に戻ろうかという気持ちは欠片もないのだが・・・・・・。たとえ、今と比べるのも馬鹿らしいほどの贅沢且つ恵まれた生活が出来るとしても。

 そもそもあれは何年前だっただろうか。
 何処の国であったのか、何と言う名の町であったのか、自分自身は何歳だったのか。
 そんな細かいことを覚えていないのは無意識に忘れようとしているからなのか、それともただ単に忘れっぽい−というよりも興味のない事柄には全く記憶力は働かない性質なので、もう興味の対象から外れてしまっただけなのか−それは不明だ。
 紛れもないのは、十年も前ではなく、十代の中頃だったと言う事で、そもそも懐古するのには必要不可欠なものではない。
 それでもあの時の事は、ゼクスは永遠に忘れない。
 あの絶望感と虚脱感と恐怖は−
 
 
 
 
 その町は、人口は百人足らずの町だった。町というのもおこがましい人口なのは、そこは実験施設だからだった。
 何の為の施設だったのかというと、雷エネルギーを一般の電力に変換し利用できるかというものだった。サイバーが闊歩している現代にもかかわらず、未だ莫大な雷エネルギーを手軽に利用することはままならない。
 この実験が成功すれば、巨万の富と世界史に名を刻む栄誉を手にする事が出来る。
 ゼクスがしばしのねぐらにしていた小さな形ばかりの教会で、そんな話しがよく囁かれていた。施設の責任者である応用物理学だかの博士はよくそう息巻いていたらしい。
 教会にはゼクスの他に医者夫婦が暮らしていた。尤も、ゼクスの方が居候をしていたのでこういう喩えはちょっと間違っている。
 夫婦の人柄がよかったので、患者以外にもよく茶を飲みに色々な人が訪れていた。
 ゼクスとしても俗に言う一宿一飯の恩義があったので、彼なりに働いていた。ゼクスは治療系ESP能力を持っていたので、それを利用して怪我の手当てを施していた。
 この時に医者から病気やその症状などについて随分知識を貰った。一人で生きていくのに、糧が得られる様にと深慮してくれたのかもしれない。ただ、ゼクスにとって知恵を授かる事も医者夫婦とゆったりとした時間を過ごすのも、嫌いでなかったのは確かだった。
 そんなある日。
 確か冬の始まりの頃で、風が流行り出したらしく教会には客がいつもよりも多かった時だった。風邪には治療系ESPは逆効果なのでゼクスは医者の処方箋通りの薬を選別し、患者に渡していた。
 逆効果の理由は、新陳代謝を活性化させて回復させる為、病原菌の活動も活発にしてしまうからだ。これも、ゼクスがこの町に来たばかりの頃、その医者から教わったことだ。医者はESP能力は持っていなかったから、机上の空論だと思い、夏風邪を引いていた青年研究者にESP治療を施し、肺炎まで悪化させた経緯があった。それ以来ゼクスは少しは人の話を聴く様になったのだ。
 昼時に医者に呼ばれ、一番近くにある街までの使いを頼まれた。抗生物質が少し頼りない在庫になったので、大きな病院まで買いに行く事になったのだ。
 「じゃあ頼むよ、ゼクス」
 紹介状と一緒に薬のリストを手渡し、医者はのんびりとした笑顔でゼクスを見た。薬の量は割合多かったのだが、大きなリュックも一緒に手渡されたので、ゼクスの様な貧弱−もとい、か弱い少年でも持てる様にとの配慮だったのだろう。持って帰る分は一部で、さしあたり三日分ほどあればよかった。残りは定期バスでの輸送になる。
 「そうだ、これ、持って行くといいよ」
 そういって手渡されたのは、繊細な細工の施された、いかにも高価そうな銀製の懐中時計だった。何とはなしに裏表をひっくり返し、観察する。長い鎖がちゃりちゃりと鳴る。手袋越しにひんやりとした感触が伝わってくる。
 「ゼクス、時計持っていないだろ。それじゃ定期バスの時間が判らないだろうから」
 「ああ。ありがとう」
 コートの胸ポケットにぞんざいに時計を入れ、鎖をポケットの縁にかける。
 「じゃあ行ってくる」
 「迷子にならないようにね。そうだ、今日の夕飯はエビフライだって言ってたよ」
 「うん」
 傍から見ていても嬉しそうな様子で頷き、ゼクスは教会を出て行った。
 背後で、医者が手を振っていた。しかしゼクスはそれを見る事は出来なかった。
 町の外に出て、停留所で時刻表と時計でバスの来る時間をを確かめると、まもなく到着する事が判った。ベンチとは名ばかりの今時珍しい木製の椅子の腰掛け、大人しくバスを待った。ゼクスの他に同時刻の利用者はいない。そもそもここは実験施設であるからあまり町の外に出る人間はいない。
 空を見上げると黒雲がどっしりと空を覆い、今にも雨が降りそうだった。
 「・・・・・・また所長殿のヒステリーが起きるかな」
 雷が鳴る時こそが絶好の実験材料なのだが、町が出来て以来勿論成功例はなく、失敗の度に所長がヒステリーを起こし研究員にあたるのは有名な話だった。
 それを思い出して、ゼクスはくすりと笑った。
 
 
 
 病院での用事の思いの他早く済んだ。
 借りた時計をで時刻を確認すると、八時くらいには教会に戻れそうだった。とりあえず持ち帰る分の薬をリュックに詰め込むと、ゼクスには結構な重さになった。背丈は平均的だったが、体系は少女の様に華奢であったから、力が無かったからゼクスにはそこそこの労働となった。
 停留所まで行くと、やはり研究施設に行く便に乗る予定の者は居なかった。ゼクスはやはり一人で、行きに座ったベンチよりもずっと立派、というかまともなベンチに腰掛け、やはり空を見上げた。進行方向のはるか先では黒雲は晴れている様で、群青色の空に星が見えていた。
 夕飯はエビフライだという事を思い出し、ゼクスはこっそりと笑った。婦人の料理の腕はなかなかのものだったので楽しみなのだ。
 程なくしてバスが到着する。
 利用頻度が低い行き先のバスなので、定期バス以外では一週間のうちにこの日だけ、バスが走る。六時間に一度しか走らないのだが、頻度が低いのが幸いしているのか、希望時間を申請すればその通りに運行するという利点もあった。
 バスに乗り込み、粗末な座席に座り一息つく。行程はおおよそ二時間ほどだ。時分で考えているよりも疲れているのか、瞼が下がってきた。どうせ行き先は一つなのだし客も一人なのだから、ゼクスはゆっくりと眠る事にした。


 「お客さん、起きて。着いたよ」
 乱暴に揺さぶられて、ゼクスは目を覚ました。目をこすり、揺すった相手を見る。頭が少しぼうっとしているが、窓の外の風景が見覚えのあるものだったから、寝起きで重たい身体を無理やり起こし、医者から預かった金で代金を支払い、バスを降りた。
 バスはゼクスが降りたが早いか、さっさと帰っていった。
 何だか薄情だな、とゼクスは思ったが、すぐに鼻がある香りを捉えた。
 焦げ臭い。
 火事でもあったのだろうか、と施設への足を急いだ。ゼクスが行ったからといって消化には何の役にも立たないが、怪我人が出た時には自分の手は必要だろうと思ったのかもしれない。
 早くも無い足で施設に向かった。
 そこで見たものは。
 
 人口百人足らずの実験施設である町の残骸だった。
 一番大きな敷地を持つ実験施設の本拠は雷を受ける為の避雷針の形と同じ鉄塔だけが、辛うじて痕跡を残していたが、他は原形も留めず黒で埋め尽くされていた。
 呆然として、呼吸は荒く心臓は早鐘のようになり続け、それでも辺りを見回した。
 この町は電線は地下に埋まっておらず、空を張っていた。
 その所為なのだろうか、元の形をちゃんと残している建物なんて、何処にもなかった。
 呼吸はますます荒くなり、整えようと必死で意識してもゼクスの意思に逆らって増長していくばかりだ。
 ちりちり、と何かが肌を焼く。
 冬の夜にもかかわらず、前方左方面が少し明るかった。
 ともすれば座り込んでしまう程脱力していたが、最後の力を振り絞り、多分最後であろう希望に縋って立ち上がった。
 しかし。
 その希望すらすぐに打ち砕かれた。
 その僅かな熱と明かりは、燻っていた炎だった。
 そして燃えていたのは、ゼクスの住んでいる教会だった。
 地面はじっとりと濡れていた。先程まで雨が降っていたのだろう。そして、炎はその雨で消えたのだろう。
 よろよろと教会に近付くと、崩れ落ちた建物の残骸と、黒焦げた人の腕が見えた。
 それが何だか、この黒焦げた町を象徴しているようで、ゼクスは今までに体感した事の無い虚脱感に襲われ、座り込んだ。座り込んだというよりも、足が立つ事を拒否した様だった。
 再び雨が降り始めた。ぽつぽつと降り始めたものが、すぐに豪雨となってゼクスの身体を容赦なく撃ち付けた。ゼクスの蒼い髪を伝い、握り締めた両の拳に空からの雨と髪からの雨が次々と弾けて流れていく。
 どれほど呆然としていたのかは、勿論判らないし、今になっても思い出せない。
 雨は相変わらずゼクスを撃ち付けていて、顔を上げる気力も回復しては居なかった。それでも、ふいに視界に入ったのは、あの黒焦げの人の腕だった。
 墨と化したその手の指の根元に、雨を弾く何かが見えた。目を凝らすと、それは指輪だった。指の形状から左手と認識でき、その指輪のある部位は、薬指で、ゼクスの髪や瞳より鈍い蒼い色を放つのはサファイアだと辛うじて認識できた。
 その指輪は、この教会に住む医者夫婦の結婚指輪だと気付いた時に、ゼクスは意識を手放した。


 
 次に気が付いた時、ゼクスは病院のベッドの上だった。
 左右を見渡すと時分の左腕には透明な管が刺さっていて、その管を黄色い液体が流れていた。 見回りに来た看護婦が栄養剤とビタミン剤を点滴投与しているのだと説明し、ゼクスが目覚めた事を医者に報告に行った。
 ぼう、とした頭で、あれからどれだけ時間が経っているのだろうと考えた。窓の外を見ると、空はあの時とは全く違い、よく晴れていて程よく純白の雲がたゆたっていた。その空の色はゼクスの瞳よりずっと色の薄い蒼だった。
 全く覚めない頭の状態のままだったが、医者がやってきて、衰弱が激しい事と、風邪を引いている事を伝えた。そして言い難そうに、あの町の惨状の原因を話した。
 あの日、ゼクスが街を出て三十分足らずで、町に雷が落ちた。本来ならエネルギーを受け止める鉄塔から電力容器に流れる筈なのだが、何らかの人為的ミスが原因で容器がちゃんと働かず、電線を伝い町中にエネルギーが暴走し、つまり町全体に落雷した状態となったらしい。落雷状態が原因で火災が町を焼き、雨が降り鎮火され、一時的に雨が止んでいた時にゼクスが帰ってきたのだ。
 医者はゼクスをあの町の生まれだと思ったのか、孤児と思っている様子だった。
 医者の言葉を、ゼクスはあまり聴いていなかった。
 原因が判ったからなんだというのだろう。別に何も変わらないのだ。
 ただ、ゼクスの手元に大量の風邪用の薬と、医者が貸してくれた銀の懐中時計が残っただけだ。あの町に居つく前より少し荷物が増えただけで。



 あの惨事を思い出し、ゼクスはまたため息をついた。何処と無く自嘲気味に。
 結局あの病院には治療費と入院費は払わずに逃げてきた。医者はまだ体力が回復していないと言っていたが、支払い能力も無いし、何よりあの町の近くに居たくなかった。逃げ出す時にあの大量の薬を置いてきたからいいだろう、と今でも思っている。
 その事件以来、ゼクスは我ながら異常なまでに雷を恐れるようになった。
 雷は全てを奪う象徴に思えて堪らなかった。
 
 あれは空から来る厄災だ。
 
 空が光る度、空の彼方で音が響く度、ゼクスは体が固まり動かなくなった。
 情けないとは思わなかった。
 ゼクスは見栄を張るタイプではなかったし、死ぬ事を嫌っていた。死の恐怖を感じるものが近くにあれば怯えるのも無理は無いと自負している。確かに威張れる事ではないという自覚もあるのだが。
 しばらくは一人で生きていた。それが苦痛だと思わなかったし、寂しさを感じた事も無い。
 それが何故だが意味になってよく判る。
 ゼクスは言葉をかける相手が居なかったから、孤独を感じる事がなかったのだ。
 だが今は違う。
 今は一人ではない。
 同居人をはじめ、ゼクスは自分と繋ぎとめていたい相手が出来てしまった。
 その為だろうか。
 こういう日は良くない。
 こんな鬱々とした日はあの時を思い出してやるせない気持ちになる。だから、こんな日は好きではなかった。
 窓の外を見る。
 外は相変わらずの雨で、空には黒雲が佇んでいる。
 同居人は何時帰ってくるだろうか。
 こんな雨の日はまたあの絶望感と虚脱感と恐怖に襲われてしまう。
 隣にいるだけで雷から守ってくれる彼に早く帰ってきて欲しい。
 
 こんな、一人きりの雨の日には。