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<東京怪談ノベル(シングル)>


<黒猫のワルツ>


 短く声を掛けると、乗車していたタクシーは緩やかな減速と共に道路の脇で停車した。バックミラーに写る不安そうな運転手の視線が、後部座席に座る私へと向けられる。私は視線を捉えて一瞥すると、財布からカードを抜き取り先程と同じ言葉を繰り返した。自動で開いたドアの隙間から、霧雨に濡れた夜の風が狭い車内へと侵入する。カードを受け取りタクシーから降りると、街灯から降る白い光の眩しさに思わず目を細めた。
 東の空に昇る下弦の月は薄雲に覆われている。人工的な光に映し出された街並みは、呼吸を潜めて蹲っているかの様に静けさに包まれていた。スーツを身に着けているにも関わらず、冷えた大気に皮膚を撫でられている様な感覚を覚える。それは本格的な雨の訪れを告げようとしているのか、独特な匂いを鼻腔に感じさせた。
ドアが閉まり、ゆっくりとした加速と共にタクシーが走り出す。マフラから吐き出されたグラファイトの煙が、大気の中に消えていく姿を視界の端で捕らえる。なだらかに続く煉瓦作りの歩道の上には、細く長い鉄塔の影が等間隔に横たわっていた。
 足を踏み出し、歪な凹凸の坂道を歩き始める。処方された薬が効き始めているのか、永続的だった頭痛は随分と静かになった。だが、入れ替わる様に眠さと気怠さの副作用が波の様に押し寄せてくる。暫く歩いていると、それも心地の良い感覚に感じる事が出来る様になっていた。
 不意に動物の細い鳴き声が耳に届き私は思わず足を止めた。声の主を探して視線を巡らせるが、街灯の光だけでは頼り無く、夜に慣れていない眼では見当を付ける事すら難しい。そうして暫く辺りを伺っていたが、姿を見付ける事どころか二度目の声を聞く事すら出来なかった。
 思わず溜息を零し諦めて歩き出そうとした時、私の足元に何かが触れた。足を止めて見下ろすと、黒い毛に覆われた一匹の猫の姿が私の足に体を摺り寄せていた。体を屈め、手袋越しの掌で細い体を撫でる。それが心地良いのか、猫は喉を鳴らしながら首元を指先に摺り寄せていた。


<黒猫のワルツ>
 あなたに名前を尋ねたけれど、あなたは名前に興味を示さなかった


 世界には知らないものが沢山溢れている。特に家族となった黒猫の姿を見ていると、その行動に可笑しさや不可思議さというものを感じる事が多くなった。
 例えば黒猫が暇を持て余して体を伸ばしている時。猫じゃらしをちらつかせてみても、興味を示す時と示さない時との差が出来る。その違いが何処にあるのかは解らないが、それが猫の持つ気紛れの一つだという事を私は知った。
 人以外の生き物に触れるという事は、私にとって初めての事だった。最初は食事の時間や躾にばかり意識が取られ、共に過ごす事にすら戸惑いを感じていた。どう触れれば良いのか、どう扱えばいいのか。そんな事ばかりが頭を巡り、近い筈の同居人の存在をとても遠く感じていた時もあった。
 人に尋ねる事は難しかった。"目的が逆"となってしまった事も一つの理由となったが、何をどう尋ねれば良いのか解らなかったというのが本音だった。私は幾つもの書店を回り、猫に関する記事を探した。食事、育て方、接し方、猫という生き物について。そのどれにも共通したものは"愛情を持って接する"という事だった。
 今では帰宅して部屋のドアを開けると、黒猫はいつも気紛れな態度で私を出迎えてくれる様になっていた。ドアの傍までやって来て足に体を摺り寄せる時もあれば、自分のベッドの中で尻尾を上げるだけの素っ気無い時もある。「おかえり」を告げる言葉は無いが、それだけで無意識に顔が綻んでいる自分に気付く。小さな同居人は、そんな毎日のささやかな変化を私に与えてくれた。
 私に出来る事とは何だろうか。一日を終えて眠りにつく間際、黒猫の姿を思いながらそんな事を考える時間が多くなった。飼い主という立場ではなく、時間を共有する家族として、何か出来る事は無いだろうか。変化を与えてくれる家族に向けてお礼を返す事が出来れば。思い付くものは小さなお礼ばかりだったが、今までの私と比べると大きな出来事であった事には間違い無かった。

 長くなだらかな坂道を上ると、アパートの隙間に隠れる様に小さな店がひっそりと看板を下ろしていた。マボガニーのドアを開けると、そこには空間を意識した柔らかな配色の室内が広がっている。清潔さと温かさを意識したその店では、動物達の生活用品が販売されていた。
「いらっしゃいませ。……あっ、お久しぶりです! どうぞゆっくりご覧になっていって下さい」
「こんばんは。申し訳ありません、こんな夜分に」
 ドアベルの音に答える様に、カウンタの奥からボーイソプラノの声が聞こえた。現れたのは私の半分程の年齢の少年で、短いエプロンを腰に巻いて商品を箱から取り出している所だった。店のマスタをしている兄を手伝っており、初めて店に顔を出した時から私の話を聞いてくれていた"動物の先生"とも言える少年だった。
「いえいえ! 久しぶりに来て頂けて嬉しいです! あっ! 宜しければ、紅茶をお出ししますんで待っていて下さいね!」
「あ、あの……」
 少年の言葉を断るよりも先に奥へと引っ込んでしまった為に、私は一人店の中に取り残される事となった。仕方なく苦笑いを浮かべ、店の中に並べられた商品を一点ずつ伺っていく。フード、玩具、食器、アクセサリ、生活用品、首輪、グルーミング、スキンケア。使い易さと温かな色合いで纏められたそれらからは、作り手の優しさが伝わって来た。
「どうですか? 最近何かありましたか?」
 暫くすると、トレイにティポットとカップを乗せた少年が声を掛けて来た。フロアの中央に置かれたドアと同じマボガニーのテーブルの上にそれを置く。少年の対面する形で背凭れの無い椅子に座ると、前に紅茶の注がれたカップが置かれた。カップからはシトラス系フルーツの香りが漂っていた。
「そうですね……。最近、猫が夜遊びをするのか夜に外に出る事が多くなりました。窓を開けておくと、好きな時間に出入りをするんです」
「あははっ。もしかすると、そのうち友達を連れてやって来るかもしれませんね? 「遊びに来たよ」って」
 紅茶に口を付けながら、そんな他愛も無い話をする。知らなかった習性や驚いた仕草、生活の中で変わった事。少年にとっては聞き慣れた事かもしれない話を、そうして楽しそうに聞いてくれていた。そうして私は、黒猫に向けて何かプレゼントをしたいのだという話を持ち掛けてみた。少年は一瞬驚いた表情を向けたが、直ぐに嬉しそうな表情を浮かべると席から立ち上がった。
「プレゼントで選ばれるのは、首輪や玩具が多いですね。ご飯やおやつというのもありますが、無くなってしまうのが寂しいと言われるオーナーさんが多いんで」
「形に残る物の方が喜ばれるんですか?」
「飽きるまでずっと遊んでくれますからね。人が物を大切にする様に、彼らも物を大切にしてくれますから。扱い方は荒っぽいんですが」
 大袈裟に肩を竦める少年の姿に、私は思わず笑みを浮かべた。首輪や玩具、食器といった品物がテーブルの上に並べられ、一つ一つについて少年は丁寧な説明をしてくれた。幾つかの候補が決まり、どれにするかを決め兼ねていた時、不意に少年のシャツの胸ポケットに納まっていた玩具に眼が留まった。
「すみません、それは何ですか?」
「これですか? ご覧になられますか?」
 少年の手から受け取った玩具に、私の心は一気に引き込まれてしまった。片方の掌に乗るほどの小さなそれは、私の顔を見上げて首を傾げていた。
「あの、すみません。これを頂く事は出来ますか?」
 思案という間も無く、私は少年に言葉を掛けていた。少年は突然の事に驚いた表情を見せたが、発した私自身も内心では驚いていた。"呼ばれた"という感覚は非科学的かもしれないが、この玩具なら喜んでくれる。私の頭の中にそんな確信が浮かんでいた。
「えぇ勿論です。きっと黒猫さんも喜んでくれますよ。直ぐにお包みしますね」
 少年の言葉に私の表情は安堵の笑みに変わった。壁に掛けられた木の鳩時計は午後の十一時を示している。包みを受け取り代金を支払うと、タクシーを呼ぶかと尋ねる少年の申し出を柔らかく断る。少年には悪いとは思ったが、私の気持ちは既に店を離れ、部屋で眠る黒猫の傍へと向かっていた。


 なだらかな坂道を下りた先から、大きな通りを抜けて狭い路地へと入る。いつもならばタクシーを使って戻る道を、その日は徒歩で向かっていた。コンクリートが剥き出しになったシンメトリの建物が、電線に繋がれて静かに佇んでいる。車内の窓から見える風景とは異なり、そこでは人が息をして生活をしているのだという感覚を実感する事が出来る。人が見ている風景と猫が見ている風景では何がどの様に違うのか。もしも同居人が私の隣にいたならば、この世界はどんな風に見えているのかを尋ねてみたい。言葉を話す事が出来たなら、などという考えが頭を過ぎった時、私は思わず声を上げて笑いそうになっていた。
 部屋の鍵を開けてドアを開いた時、無理をして歩いたのが祟ったのか、全身に重い痛みが押し寄せる様な感覚を覚えた。何時もなら迎えに来る筈の同居人の姿が無い事に寂しさを覚えながら、購入したものをバーントアンバーのチェストの上に置きバスルームへと向かう。衣服を脱ぐと共に、ふと鏡に映し出された自分の肌へと視線を向ける。白い肌の浮き出た血管の上に、人工的な皮膚の接合部分が覗く。右腕には投薬が施された時の注射針の痕が赤い斑点となって残っている。忘れていた筈の気怠さが押し寄せ、私はそれを遮断する様に瞼を伏せた。
 薄く湯を張ったバスタブに体を沈める。水分を含んだ髪は僅かに重さを増し、肩や首筋の上で複雑な曲線を描き肌に張り付いていた。掌で湯を掬い水面へと落とす。ウォータークラウンを作りながら落ちて行く液体を眺めながら、猫も風呂に入るのが好きなのだろうかと思考を巡らせていた。
 不意に、バスルームへと続くドアから何かが引っ掻く様な音が聞こえた。バスタブから立ち上がりドアを開けると、そこには同居人が必死の様子でドアを引っ掻こうとしている姿があった。私の姿に気付くと、足元が濡れているにも関わらず体を摺り寄せようとして来る。
「あぁ、すみません。寂しかったんですね?」
 苦笑いと共に、指先で喉の辺りを軽く撫でてやる。黒猫の気紛れさに身を任せるのも悪くない。私は同居人を濡らしてしまわない様に静かに立ち上がると、フックに掛けてあるバスローブを羽織りバスルームを後にした。
「気に入って頂けましたか?」
 黒猫の首から指先を離すと、何処か澄ました様な表情をする相手に向けて言葉を掛けた。膝の上からベッドの高さを飛び降り、フロアの上をくるくると回った後、後ろ足で首の辺りを軽く掻く。同居人の首には、プレゼント候補の一つだった皮製の新しい首輪が付いていた。赤い表面にクロスの型が抜かれたその首輪は、光沢のある黒い毛に映えていた。
 「良い趣味してるじゃない」と言うかの様に再度ベッドに飛び上がると、日課となった遊びを強請る様にバスローブに爪を立てて来る。その様子に笑みを浮かべると、私は猫じゃらしよりも先に本命のプレゼントを相手の目の前に差し出した。
「ほら、新しい家族ですよ」
 そう言うと私は、少年から譲って貰った玩具を黒猫の目の前に置いた。それは、黒猫よりももっと小さな"黒い猫の形をしたぬいぐるみ"だった。眼の色は異なるものの、首には黒猫と同じ赤い首輪付けている。それを眼にした途端、黒猫は警戒する様に体を強張らせたが、直ぐに爪の先でぬいぐるみを転がすと、じゃれる様にそれを追いかけ始めた。ベッドの上からぬいぐるみが転がり落ち、それを追う様に同居人もベッドから飛び降りる。扱いは大層荒っぽいものの、同居人は新しい家族を直ぐに受け入れてくれた様子だった。
 ベッドの上に横になりながら、小さな同居人ともっと小さな同居人の様子を伺う。思わず笑みが頬に浮かぶ中、私は不意に言葉を呟いていた。
「……困りました。これでは私が除け者ですね」


..........................Fin