PSYCOMASTERS TOP
新しいページを見るクリエーター別で見る商品一覧を見る前のページへ


<東京怪談ノベル(シングル)>


黎明

 空の色が変わる。夜明けまではあと3時間ほどはあるだろうか。けれど、東の空にはもう予兆が現れている。空を覆う闇はほんの少しだけその色味をぼかし始め、濃い藍色へと変わっていく。そして、空と大地を繋ぐ大気の流れにも変化が現れる。風が吹く。夜の気を吹き払う鮮烈な風。
 その風が私の髪を揺らす。視界を遮る建物などない広大で荒涼とした風景‥‥だが、私は嫌いじゃない。故郷なんて柄にもない言葉かも知れないけれど、やっぱりこの大地は『帰り着く』大事な場所だったのだと思う。歴史の澱に封じられ閉じこめられた欧州とは何かもが違う。背筋を伸ばして大きく両腕を挙げる。深呼吸をする。新しい私の身体がこの大気を喜んでいた。
 そう‥‥私は新しい『ボディ』になって戻ってきた。この身体がなければ、私はここに立つ事は出来なかっただろう。それほど、一時は戦況も政局も混乱し収拾がつかなかった。戦える者は『守るべきモノ』の為に命をを賭け、譲ることの出来ない願いは錯綜し、多くの悲劇を生み死者の山を築いた。私‥‥クリスティン・マクラインの命もそこで尽きている筈だった。けれど、私は死ななかった。神の恩寵なのか、それとも天国へ至る狭き門に拒絶されたのか‥‥気が遠くなる様な死者のリストに私の名は記載されなかった。その代わりに1人の女性兵士が死んだ。彼女の魂は天国へと登り、彼女の『ボディ』の一部は‥‥今、私と共にある。ここに戻った私が最初にしなくてはならないこと。それは彼女の家族に会う事だった。


 開け放った窓ガラスから朝の清々しい風が吹いてくる。仄かに草の匂いがした。牧草だろうか。そういえば、この家の周りには緑の絨毯の様に草が生い茂り、家畜たちがのんびりと歩き回っていた。TVで配信される古いドラマに出てくる画像の様だ。そういえば、今座っている古いソファが置かれたこの部屋も、ドラマに出てきそうな部屋だった。ところ狭しと家具が置かれ、あちらこちらに沢山の写真がある。ポートレート風のもの、集合写真、パーティの記念写真、赤ん坊の写真。その中に見知った顔が1つある。クリスティンが知っている顔よりも、若い時のものばかりだ。どの写真の中でも彼女は笑っている。胸がズキリと痛んだ。オーバーホールを施し、最新型に相応する性能を持つ『ボディ』でも、精神に衝撃を受けると胸の奥に鈍い痛みを感じる。どこか他人事の様に感じられた。何度となく感じる痛みだが、少しも慣れることがない。誰かの命を犠牲にして生き延びる。その現実は想像以上に『ハード』だった。数え切れない程のカウンセリングだが、少しも成果を上げていない。担当者を怒鳴りつけに戻りたい程だ。
 軋んだ音を立てて重たい木造の扉が開いた。怒鳴りつけたいから戻りたいのではなく、本当は逃げ出したかった。彼女の両親が住む家を訪れたいわけじゃなかった。事務処理上の手続きは終わっている。だから、クリスティンがここを訪れる義務はない。回避する逃げ道なら幾らでもある。わかってはいるが逃げたくはなかった。自分の中では『どうしても成し遂げなくてならない事』であった。そうでなくては、自分もちゃんとしたスタートが出来ないと思う。新しい生き方を待ってくれている人達のためにも、自分なりのけじめを付けたかった。
「‥‥お待たせ致しました」
 低い声が扉の向こうから響く。姿を現したのは初老の男性だった。この家の主、死んだ彼女の父親だ。母親の姿はない。クリスティンはソファから立ち上がり姿勢を正すと敬礼をした。何度となく繰り返された訓練のお陰だろう、その礼は美しくさえある。父親は生真面目そうな表情のまま、クリスティンに座るよう勧める。礼と解き会釈をするとクリスティンはまたソファに腰を下ろした。
「クリスティン・マクラインと申します。本日はこれを‥‥」
 重厚なカバンを開き大事そうに両手で『箱』をテーブルに置く。箱は国旗で覆われている。亡き人の最後の品だ。
「これをお届けに参りました」
「あの子はどうして死んでしまったのですか?」
 唐突に父親は話し始めた。クリスティンは言葉が出ない。
「それは‥‥」
 もちろん、彼女の死に際の話をせずに済むとは思っていなかった。けれど、その様子を語るのはクリスティンにとっても辛いことだった。語ろうとすれば記憶を辿らなくてはならない。いや、思い出そうとすれば昨日の事の様に鮮明に思い出せる。あの時の硝煙と血の臭いも、吹きつける埃混じりの熱い爆風も‥‥力無く横たわる腕も……壊れたボディも。クリスティナな圧倒的なまでに迫る生々しい記憶に一瞬うつむいた。振り払えない記憶はこんなにも痛い。
「言え! いや、わかっている。お前のせいだ!」
 顔を背けて座るクリスティンの態度をどう捉えたのか、父親の態度は豹変した。怒声にクリスティンが顔を上げると、父親の顔は泣き笑いの様な歪んだ表情のまま固まっていた。皺深い日焼けした手には散弾銃が握られている。
「わかっているとも。お前があの子を殺したんだ。あの子を犠牲にして自分だけ生き延びたんだ。わかっている。返せ! あの子を‥‥私の宝だったんだ。あの子を返してくれ!」
 泣き喚きながら父親は銃を発砲した。躊躇いはなかった。悲しすぎる現実は父親の心を狂気で満たし、クリスティンの銃殺を厭わない。

 考える前に身体が動いた。


 太陽が沈んでいく。長い長い‥‥忘れられない1日が終わろうとしている。可愛そうな父親はこの先どうなるのだろう。襲ってくる父親を気絶させ、クリスティンは家を出てきてしまった。父親の悲しみはわかる。愛するわが子を失い、何かを憎まなければ生きていられなかったのだろう。理解はできるが殺されてやるわけにはいかなかった。あの戦場を生き延びた者には、容易く命を捨てる自由などもうない。消えていった沢山の命に誓って、生きて、生きて‥‥生き抜く義務がある。それがどんなに辛くても、だ。それに‥‥クリスティンには待っていてくれる人達がいる。共に生きようと手を差し伸べてくれた人達がいる。だから、死んだりしない。
「‥‥大事にするから」
 そっとクリスティンは自分の胸の上に手を添える。この『ボディ』を粗略には扱わない。まるでセレモニーで国歌を聞く時の様に黙祷し‥‥そして、誰もいない長く伸びる道を東へ向かって歩き始めた。
 クリスティナの向かうその先で、また太陽は昇る。