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<東京怪談ノベル(シングル)>


An Anonymous Day -一日はここから始まる-


 緑川勇は目覚める。
 何か夢を見ていた。妙な夢だった。
 アンドロイドが電気羊の夢を見るかどうかは知らないが、少なくともサイボーグは夢を見る。辛うじて脳は有機体のままだ。夢を見るのは脳であって、サイバー化された手足や心臓ではない。
 機械も夢を見るかもしれない。デフラグしているときなんかに。記憶の断片(フラグ)をあっちからこっちへ一つずつ移動していく間に、ランダムな夢を見るのだ……繰り返し繰り返し。
 そう、例えば――事故でサイバーボディに脳だけ移植され、それがなぜか本来の自分とはかけ離れた姿で、やむなく女子学生になりすまして高校に通い、大昔に覚えた数式や化学式を覚え直したりする……妙な……
 妙な、夢?
 俺ははっと息を呑んだ。唾を飲み込む音がした。
 夢って、どっちが?
 俺は首の後ろに手をやった。そこにあるはずのコネクターの感触が、なかった。


 そして緑川勇は目覚める。
 夢の世界に目覚まし時計の無粋な電子音が侵入してくるような、夢と現の奇妙に融合した時間が、睡眠と覚醒の合間に存在する。コンピュータでいえば、オペレーティングシステムを呼び出している最中だろうか。有機体の優れた点の一つは、睡眠から覚醒へのプロセスが極めて迅速に行われることで、覚醒途中にエラーが起きて永遠に眠ったままになってしまうなんてことは、滅多にない。
 ない、はずだった。
 緑川勇は、目覚めるとまず、古い記憶をロードし、自分が何者であるかを定義付ける。別に、「俺は緑川勇で、二十七歳、事故でやむなく少女の姿にされてしまったが、あくまで男である」とか、事実を一つずつ確認していくわけではない。このプロセスは、脳が無意識的に行っている。誰でもやっているはずだ。それでなければ、個人としての人生が連続するはずがない。
 俺は意識的に行うのはその後で、まずくっついた瞼を開けて、自分が今いる世界をしっかり認識する。手足に力を入れ、その感触を確かめる。次いで、首筋のコネクターに触れる――しかしこれらも、ほとんど無意識的にやっていることかもしれない――起き上がると、鏡に向き合う。現在の緑川勇の姿と向き合う。
 だが鏡を見るところまで進まなかった。あろうことか覚醒途中にエラーが起きてしまったのだ。
 首筋にあるはずのコネクターがない。

    *

 強烈な夢を見た後、丸一日、非日常的な感覚がつづくことがある。現実感が霧散してしまうような、白昼夢の中を歩いているような。今日がそんな感じだった。
「どうしたの? 勇ちゃん」
 クラスメートが、ぽん、と俺の肩を叩いた。振り返ると、右の頬に彼女の人差し指が突き刺さった。何とまぁ、古典的な。
「変な……夢を見て……」
 俺はぼんやりと、夢見心地で答える。
 俺は彼女の名前を思い出そうとしたが、どうしても思い出すことができなかった。それどころか顔形すら上手く認識できない。映画のモブや、小説の脇役のようだ。彼らに与えられるのは『大衆』という大雑把な区分であって、個性ではない。
 今いる場所も、チープなドラマのセットみたいだ、と俺は思った。役者だけ妙に浮いているのだ。彼らだけ日常に馴染んでいない。
 歪な空間だ……。
 俺は首を巡らせて、辺りを見回した。
 高校の教室にいたと思ったが、そこは校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下だった。
 いくら歩いても反対側の校舎に辿り着けそうもない、長い渡り廊下だった。ルネサンス時代の画家がm遠近法を無視して絵を描いたらこんな感じだろうか。手で触れられそうな、リアルな質感で描かれているのに、そこには現実を無視した『何か』がある。
 俺が出てきたA棟はどんどん収縮していくようで、これから向かおうとしているB棟はどんどん拡大していくようだった。俺は渡り廊下の真ん中に突っ立っていた。
「どんな夢だったの?」とクラスメートが俺に訊いた。
「私……いや、俺……俺は」
 俺はすっかり困惑してしまい、一人称すら定まらなかった。今まで上手く女子学生の『フリ』をしてきたのに、こんなことで正体をバラしてどうするんだ。正体?
「やだぁ、どうしたの、勇ちゃん。『俺』なんて」
 クラスメートが目を丸くして、きょとんとした顔になった。
「だって、俺は、俺なんだよ。緑川勇じゃないんだ。いや、緑川勇だけど、皆が知ってる緑川勇とは違うんだ……」
「何の話?」
「俺はサイバーなんだ。事故に遭ったんだ。それで……」
「ユニークな夢ねえ?」
 クラスメートはくすくす笑う。
「夢?」
「サイバーって、どこがよう」
 笑いながら、俺の制服の袖から出た白い腕をつんつんと突付く。十四歳の少女の、瑞々しい肌の張りは、とても人工物には思えなかった。
「どこ? 全部だよ。オールサイバー……」
「何言ってんのよ。勇ちゃんの身体でしょ!」
「俺、の……」
 クラスメートは尚もくすくす笑いながら、俺の小脇を小突く。
「ねぇ、聞いてよ。勇ったらなんか寝言言ってるの。曰くオールサイバーで、元緑川勇クン、だったんだって」
 クラスメートはいつの間にか三人に増えていた。A棟から来たのか、B棟から来たのか、それともどこからか突然沸いて出たのか。どちらにせよ、まったく気づかなかった。振り返ったらそこにいたという感じだった。
「ま、病み上がりだもんねぇ。無理もないんじゃない? 療養中に不安になっちゃった?」
 増えたクラスメートの一人が、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「療養?」
「毎日お見舞いに行ったじゃない。忘れたなんて言わせないわよ」
「見舞い……?」
 俺にこんな若い知り合いはいない。生身の俺には。
「やだ、ほんとに寝惚けてるの? 白昼夢でも見てたんじゃないの?」
 彼女はいよいよ心配になってきたのか、真剣な顔つきで俺を見つめた。彼女の顔立ちすら良くわからないのに、どうしてそれが真剣な顔つきだと思うのだろう。
「ね、そんなことよりお腹空かない? 菓子パンでも買って、屋上で食べようよ」
 彼女の提案に、俺以外のクラスメートが賛成! と手を挙げた。
『そんなこと』、じゃない。俺にとっては重要なんだ。
「ね、ほら、勇も!」
 クラスメートはぐいと俺の腕を引き、永遠に拡大していくように見えるB棟へ引き摺っていく。俺はそちらには行きたくなかった。何が恐ろしいのかわからなかったが、B棟へは行ってはいけない気がした。獣の黒いあぎとがぽっかり開いて、獲物を待ち受けているのだ……。
「いい、私はいい……」
 俺はA棟へ戻ろうとして後退した。だが、非力な俺には彼女の腕を振り切ることができなかった。おかしい。サイバーボディには見た目の倍以上の筋力があるはずなのに。
 抵抗できない。俺は怖くて目を閉じた。
 再び目を開けると、俺は屋上にいた。いつもは他の学生で賑わっているのに、今日は俺達のグループ貸し切りのようだ。抜けるような青い空が広がっていた。透き通った秋空なのに、俺はなぜか不安になった。今すぐ雨が降ると言われても驚かない。
 俺を含む四人組は、輪になって座っていた。中央に敷いたビニール袋の上には、菓子パンが四個と紙パックのジュースが四個載っていた。
「勇ちゃん、この苺ジャムのね、美味しいんだよ。ちょっと食べてみる?」
 俺は首を振った。「あんまり、お腹が……」
「空いてない?」
 空いてない、と首を振った。だが一度意識してみると、どうだろう。俺は空腹感を覚え、呼応するように、腹の虫が可愛らしい鳴き声を立てる。
「空いてるんじゃない。身体は正直だぞ」
 おかしい。サイバーだから腹が減るはずなんてないのに。
 こんな風に空腹を覚えたのはいつぶりだろう?
 俺は勧められるままに菓子パンを齧る。苺の人工的な味が口の中に広がった。人工的だが、美味かった。
「ねーえ、勇ったらまだぼんやりしてるよ。よっぽどリアルな夢だったんだねェ?」
 むしゃむしゃと美味しそうにコロッケパンを齧りながら、別のクラスメート。
「だから、夢じゃなくて……」
 俺は首を捻る。あれが夢じゃないなら、『これ』はなんなんだろう。非力で病弱な十四歳の少女の人生は、どこへ行ってしまうのだろうか?
「はいはい、緑川勇クン」級友は俺の頭を、いい子いい子、と撫でる。「いい子だから話してみようね」
「……俺……私、は事故でサイバー化されて……」俺は釈然としない気持ちで、つぶやくように話し始める。「自分が本当は男だってことを隠して、高校に通ってる……」
「ええー? 何、勇ってそういう願望でもあるの? 男になりたいとか?」
「超意外! 勇ちゃんほど女の子らしい女の子も、そうそういないのにねぇ」
「ほんとほんと。ちっちゃくて可愛くて非力でさ、少し身体が弱いとこなんかも、『深窓の美少女』って感じで、いいよね。あ、悪気はないんだからね」
「そうそう、『深窓の可憐な美少女』!」
 級友達は、本人を差し置いて盛り上がっている。
 好き勝手に言ってくれるものだ。深窓の美少女だの可憐だの……俺はそもそも女ですらないのに? オカマが下手したら女性より女性らしいのと似たようなものなんだろうか。
 ぞっとする。俺は女じゃない。違うんだ。この身体は本物じゃない、俺の本当の身体は……。
「勇。……どうしたの? 顔色悪いよ」
 顔色が悪い? まさか。だってこれは生身の身体じゃないんだ。それともどこかが故障しているんだろうか……もしかしたら脳が故障しているのか? それで変な夢を見ているのか? 脳がイカれたら手に負えないな。
 俺は首の後ろに手を当てる。コネクターの感触はない。人工の筋肉が発揮するはずの、身体には不釣合いな筋力もない。食糧を摂取する必要なんてないのに、空腹を覚える。
「勇。ちょっと、勇!」
 そっとしておいてほしい。
 俺は誰でもない。俺だ。緑川勇なのだ。
 俺は――
 視界がぐにゃりと歪む。すべての色彩がパレットの上の絵の具のように混じり合い、混濁し、暗色になる。暗転。

   *

 そして、緑川勇は目覚めた。
 サイバーが緊張の汗をかくはずもないが、俺は無意識のうちに額を拭っていた。その手でおそるおそる首筋に触れた。異物感。コネクターの感触があった。
「こっちが、現実……」
 俺は起き上がり、百年分の溜息を吐き出した。巧妙に人間らしく作られた身体を確認して安堵するというのも、おかしな話だった。
「健康的と言えるのか、言えないのか……」
 俺は独り言をつぶやき、やれやれと首を振る。
 洗面所へ向かうと、『現在の』俺と向き合った。鏡の世界の俺は、十四歳の少女で、とても愛らしい顔立ちをしていたが、今は不服そうに口をへの字に曲げている。憧れの先輩に会う用事があるのに、寝癖が治らない少女のようだ。俺が右手を挙げると、鏡の少女は彼女にとっての左手を挙げた。それは紛れもなく、現在の俺だった。
 蛇口を捻り、水が勢い良くシンクに流れ込むのを、しばらく見るともなしに見ていた。
 再び顔を上げたとき、鏡に映っているのが、サイバー化される以前まで二十七年間付き合ってきた顔だったらどんなに良いことだろうか、と思った。もちろんそんなものは、淡い幻想だった。
「ま、これが夢だとしたら、倒錯したもんだよな」
 ばしゃばしゃ水を顔にかけてぱっちり目を覚ましてやると、頬をぺちんと叩いて、気合いを入れる。緑川勇としての一日を、始めなければ。
 狭いアパートのリビングの片隅で、電話が鳴っているのが聴こえた。
 A棟の住人から電話がかかってくる可能性はない。
 B棟の住人かもしれない。クラスメートの何人かは俺のアパートの電話番号を知っている。今日は日曜日。一緒にショッピングにでも行こうという誘いだろうか? こう見えて、女学生・緑川勇は結構皆に愛されているのだ。
 渡り廊下の住人の可能性も、ないではなかった。そろそろあの闇医者のメンテナンスを受けなければならない。
 想像をするのは無料(ただ)だ。
 そう、色んな可能性が考えられる。
 このまま、オールサイバーの少女として生きていく現実。
 あるいは、病弱で非力な少女としての人生。年相応に笑い、遊び、学校へ行き、多分恋愛をし、他愛ないことで一喜一憂する。
 もしかしたら、サイバー化されずに死んでいたかもしれない。
 俺は幸せだろうか? 幸せじゃないとしたら、どうやって生きていくのが幸せだというんだろう。
 二十七年分の人生を、あっさりゴミ箱に捨てるわけにはいかない。
 今の生活は不本意だが、しかし、それなりに楽しみもある。高校生活はやり直しが効かないのだ。学生時代は退屈でつまらなかった授業に、ちょっとした発見をすることもある。当時は知り得なかった、同年代の女子生徒達の日常生活に触れることもできる。なんていったって、当時の俺にとって女性は最大の神秘であり、ミステリーだったのだ。
 なんだかんだ言っても、俺は二十七年分の男性としての記憶を持った、今は十四歳のサイバー少女である、という事実に変わりはない。
 動かしようのない事実なのだ。仕方がない。
「仕方がなくはないけど」
 あのまま死んでいたほうがひょっとしたら幸せだったのかもしれないが、このまま希望を捨てずに生きていけば、いつか元の身体に戻れるかもしれないのだ。
 二十七年の人生で何かを悟れるわけでもなし。
 もう一度生きるチャンスを与えられたのなら、それを最大限活用すべきじゃないか?
 ――どちらにせよ、人生はつづいていく。
 つづいているうちは、地に足つけて生きていこうじゃないか。

 鳴り止んだと思った電話のベルが、再び鳴り出した。
「おっしゃ」
 俺は気合いを入れ直し、謎の人物からの電話を取りにいく。電話に出る俺もまた、アノニム(匿名)だ。
「もしもし――」
 おあつらえ向きに天気の良い日曜日。
 白紙の一日、長く見れば白紙の未来が、目の前に横たわっている。
 さて、今日は何をして過ごそうか。



Fin.