|
忘れじのクリスマス
世界は滅びた。
少なくとも葵はそう考えていた。彼と同じ認識を持つ人間も、この時世では多いだろう。世界は滅び、よみがえりの兆しは見えず、腐敗していくばかりだ。腐敗が終われば、あとに残るものなど何もない。世界は無への道を歩んでいる。かろうじて生き残った人間や動物や植物を浮かべたまま、腐り落ちようとしている。
だからこそ、セフィロトの塔に、希望を見出してしまう者は多かった。この塔にすがれば、世界ごと腐って消えてなくなってしまう道から逃れられるのではないかと。死んでしまった人類の叡智に期待を寄せているのだ。
倉梯葵は、時おり自分が信じられなくなる。滅んだ世界を生きる彼は、ちょっとやそっとのことでは動じないし、いちいち希望を持つこともない。終わった世界の中で何かを望むのはむなしいことだ。だが彼は、セフィロトの塔の第1層に住んでいた。ここで生まれたのではない、……彼はここに移り住んだのだ。
何の希望も持っていないはずなのに、人類が希望を見出す塔に来てしまっている。
その日、葵は特に急ぎの仕事も持たず、マルクトの一画の狭い自宅で、滅びた世界について考えていた。
一方で、真砂朱鷺乃は世界の中に生きている。一度は落としかけた命を機械でつなぎ、生きようとしながら生きていた。彼女にとっても、世界はひどく住みにくく、物騒で、悲しいことばかりが目についている。
だが彼女の中の世界は、生きていた。自分と似たようなものだと思っていた。世界も自分も、命拾いをしたのだ。かろうじて取り留めたこの命を、無駄にするつもりはない。朱鷺乃は、セフィロトの塔に来ていた。ある程度人間が集まっているところのほうが、勝手がいいからだ。ひとりで荒野やジャンク山で生きるのはもったいない。
マルクトの薄暗い一画で目覚め、朱鷺乃は年代もののデジタル時計を見た。薄汚れた液晶画面を拭うと、今日の日付があらわれる。今日は昨日の繰り返し。このカレンダーと時計が正確であるという保証はない。しかし、朱鷺乃は日付を信じた――信じたかった。
12月25日。
朱鷺乃は出かけた。薄汚れた居住区の窓のひとつを見て、朱鷺乃は確信する。今日は間違いなく12月25日。イヴは去ってしまったが、紛れもなくクリスマス。嬉しさに微笑む朱鷺乃の視線の先には、子供が飾り付けたと思しき、クリスマスツリーがあった。小さなプラスチックのツリーは、汚れた窓辺に、ぽつんと置かれている。
「メリークリスマス」
ドアが開いて、倉梯葵の顔が見えた――その瞬間に、朱鷺乃は満面の笑みでそう挨拶した。両手に山ほど食料を抱えていた。葵は朱鷺乃の突然の訪問、メリークリスマスという挨拶、彼女の大荷物のすべてに驚き、呆気にとられて立ち尽くす。
「なんだ、それ」
「……何に対しての疑問?」
「全部」
「……」
朱鷺乃は仏頂面になった。朱鷺乃が黙りこくっている間、葵は彼女の持ち物を確認した。
たぶんケーキ入りと思われる箱。たぶんシャンパン。肉の匂いをぷんぷん放つ紙袋。どこで手に入れてきたのか、プラスチックの小さなクリスマスツリー。
葵にも、クリスマスの知識がないわけではない。しかし、だからこそ、わざわざ祝うのは意味のないものだった。世界は滅びた。クリスマスに生まれた救世主は、世界を救えなかった。今では神を信じる者にも希少価値がついている。そして彼は、真砂朱鷺乃がどんな女性であるか、ある程度は知っていた。彼女は敬虔なクリスチャンではない。クリスマスを無理やり祝う義理はないはずだ。
「何でキリストの誕生日なんか祝うんだ?」
冷静に、彼は突っ込んでいた。
朱鷺乃は答えに詰まり、しばらくふたりの間には滑稽な沈黙が流れた。
「……一緒に祝いたかったから」
「答えになってないぞ、それ」
「とにかく祝おう。とりあえず祝おう」
「お、おい」
「おじゃましまーす」
「待てよ、いま散らかって――」
戸惑う葵を肩で押しのけ、朱鷺乃は葵の家に上がりこんだ。彼が言いかけたとおり、中はジャンクで少し散らかっていたし、ハンダや焼けた鉄の匂いが残っていた。
適当に片づけられたテーブルの上に、手のひらサイズのクリスマスツリー。ツリーのすぐそばに転がっている部品は、解体した銃のフレームだ。マルクトでは高級品にして貴重品の、合成ではない鶏の丸焼き。そして合成クリームたっぷりのケーキ。さらに合成シャンパン。
どうやら鶏の丸焼きの時点でかなり金銭的に無理をしたらしい、と葵は冷静に判断した。が、あえてそれを口にはしなかった。ここではっきり物申したら、逆に男が廃る。
「ワリカンだな」
「え、払ってくれるの? ……なんだ、だったらケーキとシャンパンも『天然』にしとくんだった」
「いや、天然で揃えてきたら払わなかったと思う」
「なんて奴!」
「何とでも言え、生きるための知恵だ」
ともあれ、ささやかな宴は始まった。それはクリスマスのパーティーと言うよりは、普段よりも少しだけ豪華で、品のある内容の食事会というべき催しだったかもしれない。食べながら交わされるふたりの会話は、ヘブンズドアの中で交わされるものと、あまり大差なかった。ただ場所と日付とメニューが違うだけ。
いや、「だけ」、と言えるだろうか。
ふたりの脳裏の片隅に、今日がクリスマスであるというちっぽけな事実が、どこか力強く居座っている。今日はクリスマス。大昔、世界のあちこちで特別な意味を持っていた日。
――今日を特別な日にしようとしてない?
朱鷺乃はふとした沈黙の隙に、そう考えた。
――どうしてそんなことしようと思ってるの?
朱鷺乃は自分に問いかけた。答えは出てこない。かつて自分に起きたらしい、事故の記憶のように――答えの姿はさだまらず、曖昧ですらなく、まるで透明で、存在していないかのような素振りだ。
「どうした、急に黙りこんで」
「あ。ゴメン、他のこと考えてた」
「はっきり言うなよ。……どうせろくでもないこと考えてたんだろ」
「男と違ってそうそうくだらないことは考えません」
「おまえ、男を何だと思ってんだ」
「男って30秒ごとにミダらなこと考えてる生き物なんだって」
「誰がどうやって何のためにそんな統計出したんだよ!」
「どっかで聞いた」
「で、そんなこと信じてるのか?」
「実際のとこ、どうなの? 男ってそんなもん?」
「……くだらなさすぎる……」
がくり、と葵がうなだれる。ごとり、と空になったシャンパンの瓶が揺れた。ケーキの甘い匂いがする。鶏はとっくに骨だけになっていた。
気づいたときには、会話が終わり、完全な沈黙が始まっていた。
朱鷺乃などは散らかったテーブルに突っ伏して、堂々と眠りにつこうとしている。葵はふと我に返った。シャンパンと雰囲気に呑まれて、葵の記憶も数分ばかり飛んでいた。
「……おい」
「うー……?」
「おい、ちょっと待て。人ン家に上がりこんできて飲み食いして寝るってのか」
「……おー……うう……んふふ」
「おまえな、ここは野郎の家だぞ。そんなんで生き残れると思ってんのか?」
「……おもって、まあす。うふふ……」
「こいつはもう駄目だ」
まるで腹を撃たれた戦友をやむなく残していくような口ぶりと顔つきで、葵はまた、がっくりとうなだれた。
朱鷺乃は葵のあきらめをよそに、夢を見始めていた。懐かしい、不思議な感覚にとらわれる夢だった。それは、郷愁というものにも似た感情を呼び起こす、古い夢。記憶は失われたのではなく、どこかに置き忘れてしまっただけなのだ。そのありかの手がかりがつかめそうな気持ちになる、せつない夢だった。
彼女は疲れてしまっていたのだ。突然思い立った、クリスマスの名を借りた食事会の準備は、そう楽なものではなかった。ひと月前から計画していたならば、疲れも大したものではなかっただろうし、準備そのものが楽しかっただろう。今日の食事会を今日思いついた朱鷺乃は、マルクトを走り回った。足元を見られてむっとしながら値段交渉をした。あまり来たことがない区域を訪れ、葵の住むこの一室に辿り着くまで、少し迷った。
彼女に夢を見せているのは、その疲れと、シャンパンの慈悲だ。
葵もやがて、その事実に気がつく。シャンパンが入っていた袋、ケーキの箱、鳥肉の包み。いずれにも、販売店のスタンプやIDが記されていた。葵はマルクトの地理を大体把握している。鶏を売った店と合成ケーキ店はかなり離れているし、シャンパンを売る店はこの居住区の対角線上にある。店の名前を見て、どれだけ朱鷺乃がクリスマスのために歩き回ったか――葵は知って、少し、考えを改めた。彼女にもっと感謝するべきだったかもしれない。
「おい」
「……」
「寝るんなら、ベッドで寝ろよ。あっちにあるから」
「……」
手遅れだった。朱鷺之はすでに熟睡している。
ため息をついて、葵は彼女を抱きかかえ、散らかった部屋を横切ると、寝室に入った。ベッドはもちろん、シングルサイズのパイプベッドだ。朱鷺之がいくら細いにしても、このベッドにふたりで寝るわけにはいかないし――
――なに考えてんだ、女と一緒のベッドになんて、そんな。恋人とか女房なら知らんけど。違うだろ、こいつは、そういうのじゃないだろ。なあ、俺。
ぐるぐるとせわしく考えをめぐらせ、葵は朱鷺之をベッドに寝かせると、自分は散らかった居間に戻った。ソファーで寝るのはわけないことだ。
夢、彼女の夢がつづく。
今にも壊れて、粉々になってしまいそうな夢。
朱鷺之は夢と現実の間に渡された吊り橋を、ふらふらと歩く。
たったひとりだった――橋の向こう側に誰かがいるとわかっていたから、朱鷺之はゆっくり、歩いていく。
ひとりはべつにつらくない。
だが、なるべくなら、誰かがそばにいてほしい。……もったいないから。せっかく、一緒に生きているのだから。
クリスマスが終わると同時に、一日が終わる。夜は更けていく、ひと筋の白と無限の黒を引きずりながら。歌も鈴の音も聞こえない。遠くの銃声、オールサイバーの硬い足音。女と男が言い争いをしている。滅びた世界の中の生は、また今日を繰り返す――。
シャンパンとケーキと鶏肉の匂いが残る部屋、葵は朝を感じて目を開けた。ソファーでの眠りはやはり浅い。
「……!」
顔を横に向けた葵は驚いた。幸せそうな朱鷺之の寝顔が視界に飛びこんできたからだ。
「な……なんでおまえ、ここに……」
葵がベッドまで運んだはずの朱鷺之が、なぜか床の上ですやすや寝ている。実に幸せそうな、酔っ払いの寝顔だ。もっともな葵の問いにも、彼女はもちろん答えない。まだ熟睡している。
「……謎が増えたな……」
なぜ世界は滅びたのか。なぜ人類は生まれたのか。なぜ朱鷺之が床で寝ているのか。
世界の謎と同時に、葵の話の種も増えた。
――飽きないやつだよ、おまえ。
朱鷺之がそばにいれば、味気ない今日の繰り返しにすぎない生活に、わずかばかりの彩りがさすような気がする。苦笑いをして、葵は寝直すことにした。彼女に叩き起こされるのを待つのもいい。面白そうだ。
ベッドが空いているはずだが、彼はソファーから動かなかった。
〈了〉
|
|
|